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竜堕トシ  作者: 真城 成斗
五章・過去と鎖と薔薇の毒
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五・過去と鎖と薔薇の毒 4

「まるでいつものカナタじゃないな」


 紅は眉を寄せると、小さく首を傾げた。


「少し休もう」


 紅は噴水の脇にあるベンチを示し、私が返事をする前にずんずんとそちらへ歩いて行った。


「紅!」


 私は慌てて彼の後を追い、両手の荷物をベンチに下ろしている紅に言った。ベンチの正面には荘厳で左右に幅の広い建物があり、入口の門扉には、セントラル王立図書館と刻まれていた。


「紅、私本当に――」


「いいから。俺も久々の人混みで疲れた」


 紅はベンチにどかりと腰を下ろし、長い息を吐いた。私はベンチの傍らに立ち尽くし、服の裾をギュッと握り締めた。


「大丈夫、だってば……」


 呟くように言うと、紅の眉間に皺が寄った。


「カナタ……ここに何があるって言うんだ?」


 紅が私を見上げた。端正な顔立ちと黒い双眸が、じっと私を覗き込む。


「本当に、今の自分が普段通りだと思うのか?」


 尋ねられ、少しの沈黙の後、私は首を横に振った。


「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりはないんだけど、どうしても……。気持ち悪くて」


「違うな。貴女は恐らく、過去と現在を混同している」


「え?」


 不可解な言葉に眉を寄せると、不意に知った声が私を呼んだ。


「カナタじゃないか」


 それを耳にした瞬間、鋭い氷で胸を貫かれたような衝撃が走った。背筋がぞわりと凍り付き、吸い込んだ息がヒュッと音を立てて震えた。足が竦んでその場から動けず、小刻みに震え出した右手を、同じく震えている左手で強く押さえた。紅が不審そうに私を見つめ、その視線が、私の背後へと向けられる。


「そいつが今の主人か。いい男を捕まえたじゃないか」


「フレッド……」


 掠れた声で絞り出し、私は馴れ馴れしく肩に置かれた大きな手に、身を強張らせた。私達の関係を察したのか、紅の顔に、もう表情は無かった。


「おいおい、呼び捨てか? まぁいい。前のシオウとかいう奴には、結局捨てられたんだな。あそこまで大事を起こしたくせに。あいつのおかげで、俺の人生は滅茶苦茶だ」


「違う、シオウ様は……」


「まぁ、あいつはロリコン野郎だったもんなぁ。女に育っちまったあんたには、もう用は無いって話か」


「……っ!」


 途端にカッと頭に血が上って、私は思わず男の手を振り払った。


「シオウ様を馬鹿にするな!」


 かつての主人――フレッドに向けて激昂し、私は彼を睨み付けた。よく見れば、彼の頭はフケの沸いたぼさぼさ頭に、穴の空いたみすぼらしい服を着て、全身に酒の臭いを漂わせていた。その姿は、とても誰かの〝主人〟であるとは思えなかった。


 そんなフレッドが苛立ったように顔を歪めて、ニタァと口の端を吊り上げた。


「おい、あんた。一体こいつにどんな教育してるんだ? 奴隷がこんな口を聞くようじゃ、何をされても文句言えないのはわかってるよなぁ?」


 尋ねられた紅は、秀麗な眉を寄せて首を傾げた。


「奴隷、ねぇ……」


 紅の小さな呟きを、フレッドは最早聞いていなかった。


「安心しろ、もう俺の物じゃないんだ。殺しはしないさ。ちゃんと生かして返すから、借りていくぜ」


「借りる?」


「当たり前だ。こいつは俺に喧嘩を売ったんだ。奴隷の分際で、人間の俺に盾突いた。こいつには返さなきゃいけない借りがあるから、手足の一本くらいは勘弁してくれよ?」


「へぇ……」


 紅は他人事のように呟くと、いきなりすっくと立ち上がって、振り上げた拳をフレッドの顔面にめり込ませた。


「がっ……!?」


 殴られた勢いで、フレッドは顔から地面に突っ込んだ。騒ぎに気付いた周りの人々から悲鳴が上がり、紅は素早くベンチの上の荷物を掻き集めた。


「カナタ、走るぞ」


「あ……」


 固まっている私の手を取って走り出した紅は、人混みをスルスルと掻き分けて、人気の無い裏路地に飛び込んだ。


「カナタが怯えている原因は、あれか?」


 尋ねられ、私は目を逸らして頷いた。


「本当に?」


 少し強い口調で繰り返した紅は、壁を背にして逃げ場の無い私に詰め寄った。


「貴女があの男に何をされたのかは、正直全く興味が無い。だが、イチがメイヴスの関係者ではないと言い張るのなら、しっかりしろ。貴女の持つ力が竜に捧げる為のものではなく、竜に抗う為のものだと、俺に証明してみせろ」


「!?」


 私は目を見開き、紅を凝視した。


「貴女は、彼が怖いと思ったか?」


 紅は息がかかりそうなほどの距離で、私を見つめていた。彼の漆黒の双眸には、泣き出しそうな顔の私が映り込んでいた。


「カナタ、神経を研ぎ澄ませ。貴女が感じている恐怖は、貴女の持つ過去のせいじゃない。この町に満ちている気配のせいだ」


「この町の……気配……?」


 そんなもの、わからない。


 心臓が引き裂けそうなくらい速く大きく脈を打ち、堪らず呼吸が浅くなる。先刻フレッドに触られた肩が、ジクジクと膿んだように痛い。かつての主人を目にした途端に強くなったこの感覚が、過去のせいでないわけがない。


 でもそうでないことにしなければ、イチは彼に疑われたまま――シオウ様を殺したメイヴスの一員だなんて、そんな侮辱をイチに与えてしまう。


「――には、……かんないよ」


 小さな声で絞り出し、私は拳を握り締めた。


「紅には、わかんないよ!」


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