四・死者と疑惑と恋心 11
頷いた紅の手が扉に触れて、静かにそれを押し開けた。数センチほど開いたところで、紅は取り出した手榴弾のピンを引き抜くと、扉の向こうに放り投げた。
「身を隠せ」
紅の警告に、ロイヒテンが慌てて石壁の影に身を潜めた直後、扉の向こうで盛大な爆音が鳴り響いた。
「あ、あっ……危ないだろ!」
「屋上なんて狭い場所じゃ、相手の姿を見てからでは遅い。どうせ人はいないんだ」
抗議したロイヒテンに、紅は淡々とそう言った。そして改めて扉を開くと、そこには爆発の跡があるのみで、シャドウの姿は無かった。しかしそのことに緊張を緩めることもできぬまま、屋上から臨む光景に、二人は言葉を失った。
「……どういうことなんだ、これは」
辛うじて絞り出した紅の声は、ひどく掠れていた。
「おいおい、メイヴスの竜ってのは……一体何なんだ?」
反応に困り果てた挙句の苦笑いのような表情で、ロイヒテンが呟いた。
遠く広がる青空も、陽光に煌めく白雲も、まるでいつもと変わらない。違うのは、相変わらず陰気な城下町に人の姿が全くないことと、遠くに見える風景の中から、キラキラと光る細かい硝子片のような物が絶えず立ち上っていること。そして何より、遠くの風景の更に先が真っ暗な闇に覆われていて、空と大地がそこでブツリと途絶えていることだった。
「……っ、ロイヒテン殿!」
紅は警告を発するとともに、勢い良く右脚を蹴り上げた。何もない場所から突然飛び出してきたシャドウが彼の蹴りに叩き伏せられ、紅がその場を飛び退くと同時に、シャドウの頭部を散弾が吹き飛ばした。
「くそっ。カナタの言ってた黒い割れ目ってやつがここにあるのか」
舌を打ったロイヒテンの眼前で炎が爆ぜ、ロイヒテンは目を見開いて上半身を反らせた。炎が鼻先を掠め、またも何もない場所からシャドウが飛び出してきた。
「こっちが見える前から攻撃してくるなんて反則だろ!」
ロイヒテンは身体を反らせていた体勢から、そのまま勢いを付けて後方へくるりと身を回転させた。そして上体を起こすと同時に、駆けるシャドウに一瞬で狙いを定めてトリガーを引いた。さも当然のような顔でそれをやってのけたロイヒテンに、紅は目を丸くした。そんな紅の表情を見て、ロイヒテンはニヤリと笑った。
「俺が温室育ちだと思ったら大間違いだぞ?」
「あぁ、そうらしい」
「……なるほど、よーくわかった。あんた、俺のことを君子とか言いながら、実は俺を舐めてたな?」
口を尖らせるロイヒテンに、紅は口元に微笑を浮かべ、「いいや」と首を振った。
「小麦の不作から、訪れるであろう飢饉に怯える人々の為に財を投げ売って金を作り、一体どんな情報操作をしたのか、この地に商人を集めて小麦を安値で買い叩いて飢饉を回避。……この城で弱い立場にありながらそういうことができる貴方は、十分に君子だと思っている。……城の装飾が質素なのはそのせいだろう?」
そう言った紅に、ロイヒテンは「どこでそんな話拾って来たんだよ」と少し驚いたような顔をしつつ、肩を竦めた。
「それ、あれだ。継父のエルド派と俺派がいよいよ本格的に領主の座を争い始めて、エルド派が俺をぶっ殺す為に軍備を強化してるって噂を流しただけだ。不作があっただけで飢饉はまだ起こっていなかったから、それでどうにかなった」
「親子対立で軍備強化? よくそんな話が通ったな」
「エルドの強欲さと、俺があわよくば死ねってレベルの嫌がらせをされているのは有名だったから……それを切り抜けてケロッと過ごしてる俺は、実は滅茶苦茶強いんじゃないかっていう噂も立ってたみたいだ。殺すには軍隊か暗殺部隊が必要ってな。カナタ達も元はと言えば、俺が理性を保ち続けている凄い魔族の生き残りだって噂をアテにして来たみたいだし」
「それは……何というか、凄まじいな」
「ただ、その後本当に殺されかけたから笑えないんだよ」
ロイヒテンは苦々し気に顔を歪めて首を振ると、何もない空間から突如飛んできた一閃の水流を、身を屈めて避けた。その頭上を紅の拳が疾り、現れたシャドウを殴り飛ばした。
「これじゃ碌に偵察もできないな」
紅は苛立ったように眉を寄せた。先刻のシャドウが撃ち放った水は、ロイヒテンの背後の壁を穿っていた。
「紅、怪我する前に戻ろうぜ?」
「あぁ、そうしよう」
紅は頷き、遠くに見える異様な景色を再度一瞥した後、扉の中に駆け込んだ。あとから飛び込んできたロイヒテンが後ろ手に戸を閉めて鍵をかけ、扉に寄りかかりながら長い息を吐く。
「参ったな……」
ぼやくように呟いて、眉間を指で揉んだ。
「本当にメイヴスが復活するってことか」
「そうらしい。だが、あそこまで大規模に事が起こるとは思わなかった」
「あぁ、俺もだ。こうなったら、さすがにローズガルドもメイヴスのことを伏せておくわけにはいかなくなるだろうな……。あー、エスメロードで俺だけが生き残ったなんて、面倒臭い未来しか見えない」