四・死者と疑惑と恋心 5
黙っていると、ロイヒテンは苛立ったように舌打ちし、髪をかきあげた。その仕草に、私は彼を見上げた。
「ロイヒテン、怪我はもういいの?」
「あぁ。イチが治してくれた」
ロイヒテンは少しぶきらぼうにそう言って、イチの治療を再開した。
「ロイヒテン、ちょっと聞きたいんだけど、いい?」
「何だ?」
「ロイヒテンはシャドウを倒した時に、何か見える? 黒い靄とか、煙とか」
「シャドウを倒した時の黒い靄? 何だそりゃ。あんた、そんなのも見えるのか?」
怪訝そうな顔をされて、私は思わず目を見開いた。
「シャドウを倒した時、ブワッって真っ黒な靄が纏わりついてこない?」
「俺は銃で撃ったことしかないからわからんが……ぶっ倒れて消えるだけだぞ?」
「じゃぁ、まさか喋るシャドウなんて――」
「シャドウが喋る!? いやいや、無いだろ。あんた夢でも見たんじゃないか?」
ロイヒテンはますます怪訝そうな顔になり、不審そうに私を見た。
「時計塔で――シャドウが喋ったのを聞いて、すぐに気を失ってしまったの。夢じゃないと思う。気を失う直前、シャドウが笑ったのも見たわ」
「……。あんた、きっと疲れてるんだよ」
ロイヒテンは溜め息を吐いて、首を傾げた。その反応に、ようやく私はロイヒテンがそういう人だったことを思い出した。懸命にイチを治療してくれようとしているから、思わず真面目に言葉を交わしてしまった。
「そうだね。……うん、そうだよね」
私は頷いて、吐き出そうとした胸の内を有耶無耶にするべく掻き消した。ロイヒテンから視線を外し、私はイチの青白い顔を見つめた。
「何だよ、怒ったのか?」
「……別に」
気に留めていない人に何を言われようと、関係ない。
心の中でそう思っていると、不意にロイヒテンが言った。
「ごめん」
「……え?」
突然の謝罪の意味がわからず、私は困惑して眉を寄せた。ロイヒテンはバツが悪そうにモゴモゴした後、少しだけ口を尖らせた。
「カナタをしつこく奴隷ちゃんって呼んでたこと、イチにガッツリ怒られたんだよ。……あそこに突っ込まれるのはもう沢山だ」
最後の方はぼやくように呟いて、ロイヒテンは「とにかく、悪かった」としゅんとしたように眉を下げた。
「えっと……」
「だから、つまり――あれだよ。色々気になることはあるんだろうし、俺も時計塔で起こったことは気になる。だけど、今はイチの治療に集中したい。あんたも、今は『自分は疲れてた』ってことにして寝ちまえよ。悩むのはそれからでいい」
「…………」
もしかしてロイヒテンは、変に格好付けようとするせいで、いい加減に見えるだけなのだろうか。今も本当は、イチの治療だけで自分が頭も体も精一杯になっているのを知られたくなくて……?
「ロイヒテン……」
しかしとにかく、どうやら彼は彼なりに、私を心配して励まそうとしていたのだということはよくわかった。
「ありがとう」
「いや……」
それにしても、あそこに突っ込まれただなんて、一体イチとロイヒテンの間で何があったのだろう。怒られたというからにはイチがロイヒテンに何か罰則的な行為を取ったのだろうけど――ロイヒテンに何かを突っ込めるところなんて、口でなければあそこしかない。
「なんか、ごめん。私、全然気にしてなかったのに」
イチにそんな趣味があったとは驚きだが、想像しかけたところでかぶりを振って、私は申し訳なさで身を竦ませた。
「……なぁおい。あんた、今俺で何か妙な妄想しなかったか?」
ロイヒテンが怪訝そうに私を窺い、私は首をブンブン横に振った。
「ならいいけどさ」
ロイヒテンはどこか納得いかないといった様子ながら引き下がり、それきり口を閉ざして、イチの治療に専念し始めた。
私は簡素な天井を見上げた後、ゆっくりと目を閉じた。町を覆った炎と火柱の光景が、今も瞼の裏に焼き付いている。
一年前にシャドウが現れて――黒い割れ目は今回初めて見たが、そういえばシャドウが現れ始めた当初に比べて、今の方が黒い靄は色濃くはっきりと見えているような気がする。あの靄はみんな見えているものだと思っていたから何とも思わなかったけれど、それが自分だけだとわかれば話は別だ。
微かに震える身体を抱き締めて、私は深く息を吐いた。
――君は特別だ。
シオウ様の言葉が耳に蘇る。そうだとしたら、私にできることは一体なんだろう。
「特別だなんて……あの割れ目を消せるくらいじゃないと」
私は呟いて、辺りの気配に気だけは張り詰めさせたまま、浅い眠りへと落ちていった。