四・死者と疑惑と恋心 1
――後悔、するところだったかもしれない。
開いた扉の先には、ジェイクと同じ服を着た、ロイヒテンを思わせる面立ちの男が立っていた。彼の目の前には、こちらもロイヒテンとよく似た女が立っていて、全身にアルノルトと同じような真っ赤な光を纏っていた。しかしそれを全く気にした様子もなく、彼女は瞳に一杯の涙を浮かべ、愛おしそうに男へと手を伸ばした。
バシャンッ!
しかし女の手が男に届く前に彼女の身体はぐしゃりと崩れ、赤黒い液体に変わってしまった。男の足元にそれが広がったが、男はまるで気にする様子も無いまま、無表情で視線を動かした。
「父上……?」
男の暗い眼は、愕然とした表情で彼を見つめているロイヒテンを捉えた。ロイヒテンの傍らにはイチもいたが、彼女はなぜか肩で息をしていて、様子がおかしかった。
「どうして父上が……?」
ロイヒテンが掠れた声で呟いた刹那、男の身体がごきりと側方に折れ曲がり、皮膚が真っ黒に変色した。顔はたちまち人間のそれでなくなり、落ち窪んだ眼窩の中で、ぬらぬらとした粘液を纏った眼球がギョロギョロと動いた。唇は裂けて黒い歯茎が剥き出しになり、骨を折り砕くような音を立てて変形していく四肢が濡れた音を立て、手足と呼ぶにはあまりに歪な先端を床に付けた。人間を関節でバラバラにしてから丸めて固めたようなその姿は、まさに異形そのものだった。
思わず息を呑み、私が動けずにいた一瞬のうちに、そいつはロイヒテンに飛びかかった。
「ロイ……!」
目を見開いて固まっていた彼を突き飛ばしたのは、ふらふらと覚束ない足取りをしたイチだった。
「あー、まずい……」
荒い息を吐きながら苦々しげに呟いたイチの身体に、たちまち黒い四肢が絡み付いた。そいつは裂けた口でケタケタと不気味な哄笑を上げると、ふるりと身を震わせた。
ドンッ!
低く鋭い爆音が炸裂し、赤いものが弾けた。放り出された人形のように倒れていくイチの血が、扉の前で立ち尽くす私の足元に散った。
「え……?」
イチの身体は床の上で一度バウンドしてから、動かなくなった。傷口がどれほど深いのか、ここからは見えない。しかし大量の血液が彼女から溢れ出し、辺りには小さな肉片さえ飛び散っていた。
「――イチ!」
悲鳴のような声を上げ、私は部屋に飛び込んだ。黒い塊の頭部がグルリと動き、眼球が風花を捉えた。
「駄目……行かせない!」
私は短剣を抜き、そいつに斬りかかろうとした。しかし間髪入れずに風花がガリッと何かを噛み砕いたような音をさせて、叫んだ。
「心配無用よ、カナタ! 私がこのまま引き受ける!」
シャァンッと軽やかな金属音が空気を切り裂き、風花は刀を構えた。するとその後ろから突然額縁に収められた絵画が飛んできて、見事黒い塊に命中した。悲鳴らしきものを上げて動きを止めたそいつの前に躍り出たのは、紅だった。
「お嬢、無事で何より」
「当然でしょ」
言い切った風花に紅は口の端を上げ、拳を構えた。
「だが、その汗といい瞳孔の開き具合といい……二粒目だな?」
「だったら何?」
確かに風花の瞳孔はほとんど開き切っているような状態で、まるで猛禽類のそれだった。彼女は好戦的で挑戦的な笑みを口元に刻み、血塗れの右足を強く踏み締めた。
「カナタ、こちらは気にするな。ロイヒテン殿を頼む」
紅に言われ、私はロイヒテンの元へ駆け寄った。彼はまだショックから立ち直れていないようで、倒れたイチを見つめたまま呆然としている。
「ロイヒテン、ロイヒテン!」
「……っ!」
彼の肩を揺さぶると、ロイヒテンがハッとしたように目を見開いた。
「カナタ……」
「力を貸して! 私の魔力じゃイチを助けられない!」
「あ……あぁ! あぁ、もちろんだ!」
ロイヒテンは慌てたように頷くと、イチに手を伸ばした。イチの上半身は血に塗れていて、特に右胸の周りは肉が潰れてグチャグチャになっていた。あまりに酷い傷口に、ざわざわと胸が騒いだ。
「イチ、目を開けて! 死んじゃ駄目!」
不安と恐怖に駆り立てられながら呼びかけると、イチの瞼が微かに震えた。
「!」
私とロイヒテンはほぼ同時に魔法陣を描き、唱えた。
「「失われし力に祝福の風を――〈ヒーリング〉!」」
心もとない私の光と、揺らぎないロイヒテンの光。二つの光はイチの傷口に降り注ぎ、壊れた組織をゆっくりと再生させていく。間もなくイチの表情が僅かに和らぎ、私はホッとして彼女の頬に触れた。