三・羊と孤独と魔法陣 8
「町全体が魔法陣なんだ……!」
私は何とか風花に伝えようと、台座から身を乗り出した。
「風花!」
しかし眼下では風花以外に、兵士らしき人影がいくつも動いていた。既に戦闘になっているのか、風花は兵士を斬り伏せながら、逃げ場を探すようにあちこちを駆け回っている。重なるように聞こえてきた銃声が、彼女の不利を知らせた。
「急がなきゃ」
私は時計塔の中へ戻り、下へ降りる階段か梯子を探した。しかし焦る視界の中に飛び込んできたのは、階段でも梯子でもなく、突如現れた一体のシャドウだった。
「なっ……!?」
腰から短剣を引き抜き、私は素早くそれを構えた。しかしシャドウは何か攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、ただじっとそこに佇んでいる。シャドウの傍らに、細い梯子を見つけた。
「そこ、退いてくれるかな!」
かかって来ないのであれば、先手必勝。私は軋む床を強く踏み締め、シャドウに斬りかかった。
「……っ」
だが剣を振り上げかけた瞬間、不意に視界がぼんやりと暗く霞み、私は慌てて頭を振った。頭上では揺れる人形がガシャガシャと音を立て、壁に書かれた血の文字の上に不気味な影を落としている。
「う……?」
なぜだろう。シャドウがじっと私を見つめている。視界が霞んで、やけに頭が重い。そこにいるのは、ただの人型を模った影のはずだ。それなのに、なぜか別のモノのように見える。
「あぁ……まだ、少し早い。眠っていてくれ」
不意に、男の声が聞こえた。重い瞼を必死にこじ開けながら、私は眉を寄せた。のっぺりとしたシャドウの顔面に、三日月のような赤い笑みが浮かんでいる。
「シャドウが笑った……?」
まさかシャドウが笑うだなんて、そんな話は聞いたことがない。まして、喋るなどという話も。
「駄目……」
倒れてはいけない――そう思いながらも、視界は少しずつフェードアウトしていく。揺れるシャドウの笑みだけが、私の視界にくっきりと焼き付いていた。
「魔法陣……風花に伝えなきゃ……」
呟きながら、私は自分がドサリと倒れた音を聞いた。
「……タ、カナタ! しっかりして!」
「!?」
次の瞬間ハッとして目を見開くと、ツンとするような凄まじい刺激臭が、鼻腔から一気に体内に入ってきた。
「うわぁっ!?」
びっくりして目を白黒させながら、私は目の前の黒い小瓶を払い除けた。
「なっ、何!?」
「落ち着いて、ただの気付け薬。大丈夫よ」
風花の声が頭の上から降ってきて、そこでようやく、自分が風花の腕に抱え起こされていることに気付いた。風花は砂埃に塗れていて、身体中にたくさんの傷を負っていた。
「風花、その傷……!」
「心配無用よ。でも、魔法ってホントに腹立つわね」
風花は目尻を吊り上げて、チッと舌を打った。
「竜殺しの一族には、魔法は効かないんじゃなかったの?」
「えぇ、効かないわ。だけどあいつら、民家の壁を魔法で吹っ飛ばして、その崩落に私を巻き込んできたのよ。全く小賢しいったら」
風花に支えられながら立ち上がって辺りを見回してみると、私達は時計塔の文字盤の裏にいた。
「どうやってここに?」
「お城の門兵を覚えてる?」
尋ねられて、私は記憶を辿った。半年も前に姿を眩ませたロイヒテンを、素直に城内へ通したあの兵士達か!
「彼らがイチに頼まれ事をしていたみたいでね。ロイヒテンに何かあったら、時計塔で竜殺しの花嫁を待つようにって。……まぁ、他の兵士達の方がよっぽど早くここへ辿り着いたみたいで、苦労したけどね」
「イチが? でも、それで一体どうやって?」
「貴女があんまり遅いから、彼らに魔法で時計塔の壁に穴を開けてもらったの。今、その穴は彼らが抑えてくれているわ。まだこっちに兵士が雪崩れ込んでこないところを見ると、門兵の割に腕が立つみたいね」
風花は言って、小さく鼻を鳴らした。彼女の視線の先には、天井から吊り下げられたたくさんの人形がある。
「それで? 明らかに嫌な感じだけど、ここで何があったの?」
「あ、えっと、そう! 大変なの!」
「……でしょうね」
うんざりしたように頷いた風花の呆れ顔に、私はやっと冷静さを取り戻した。両手で自分の頬をパシンと叩いてから、私は壁の文字を指差した。
「あの文字、『竜が腹に抱えし卵、魔を映す影を繋ぎ孵る』――」
「『炎、氷、風、雷、水、土、光、闇、そして無の力。世界は全ての魔によって廻り、世界の命は竜が統べる』」
私の言葉を途中から風花が継いで、彼女は目を細めた。
「一部とはいえ、よく読めたわね」
「色んな国の本、読み漁ってたことがあったの。その時に読んだのかも」
「よっぽどマニアックな本じゃないと、この言語は使わないわよ。この地方独特の、凄く古い言葉だもの」
そう言われて、私は首を傾げた。私が読んでいた本と言えば、ロミオとジュリエットやハムレット等の、誰でも知っているような物語ばかりだ。
「全ての命を竜が統べる……そんな考えを持ってるのは、メイヴスの奴らくらいよね。一体何の儀式なのかしら」