三・羊と孤独と魔法陣 6
「殺されかけたことも結構あってさ。でも、ことごとく切り抜けているうちに、俺が死んだら母上か継父の仕業だっていう噂が城内に立ったから、そのうちいないものとして扱われるだけに落ち着いた。継父は自分の子である妹のことは可愛がっていたから、色々やられたのは俺だけで済んだんだけどね」
「ロイヒテンと妹さんは、仲が良かったんだ?」
「いや、全然。物心付いた頃には、『あんたなんか死ね』って言われてた。親の擦り込みって凄いよな。三歳児が床に俺の飯ぶち撒けて、舌ったらずのくせに『あんたにはそれで十分よ』って言うんだぜ?」
ロイヒテンは苦笑混じりにそう言って、長い息を吐いた。
「でも……リズが産まれた時に、こっそりあいつの部屋に入ったことがあってさ。手とか超小っちぇーの。おっかなびっくり触ってみたら、糸みたいに細い指で、俺の手、凄い力で握ったんだ」
「……それが、忘れられなかった?」
「まぁ、そんなところだ。この先何があっても、リズの本当の心はあの時の手なんだって――あの瞬間からずっと自分に言い聞かせてきた。……あんたはそーゆー残念な男に期待して、事を運ぼうとしたわけ。あーぁ、格好悪っ」
ロイヒテンが投げやりに言い捨てた時、ふっと縄が緩んだような感覚がしたかと思うと、突如イチが再度上下を入れ替えた。彼女は垂れ下がった横髪を手で耳にかけながら、ロイヒテンの上でニヤッと笑った。
「なるほど。ロイヒテンがカナタのことを『奴隷ちゃん』って呼ぶ理由がわかったわ」
「あんた、縄は!?」
「エルフリーデ達がいなくなってすぐに、魔法でちょちょいとね。君が語り始めちゃう前から、実はもうほどけてました」
「は!? いや、だけどこの牢の中で魔法は――」
「エルフリーデだって使ってたじゃない。牢屋の力よりも強い力を持ってれば、問題無いってことでしょう? 私、強いって言ったじゃない」
「なっ……」
驚嘆の表情でイチを見上げるロイヒテンの顔の脇に手を付き、イチは彼の耳元で囁いた。
「カナタをいつまでも奴隷呼ばわりするのって――同じような扱いを受けて生きてきたのに、ちゃんと自分の居場所を見つけてるカナタが羨ましいからでしょ? 君は本来、相手の身分を気にするような人柄じゃないよね」
「!」
ロイヒテンは絶句した後、表情を崩して口の端を上げた。
「あのな。俺は貴族であいつは奴隷。誰が奴隷のことなんて羨ましいと――」
しかし言いかけたロイヒテンの唇を塞ぐように、イチの指がそこへ触れた。
「君はあの時カナタを撃った。うっかり外したなんて言っていたけれど、君は君の心の痛みを、カナタに押し付けただけなんだよ。そうやって逃げるのは、ここで終わりにしない?」
「は? 何を知った風な――」
「ねぇ……私は、君に期待してるんだよ? だって君は輝く光なんでしょう?」
イチは身を起こし、ロイヒテンの唇に触れていた指先をゆっくりと離した。
「死者蘇生なんてどうなるのか見当もつかないけど――メイヴスの儀式みたいだし、とんでもない犠牲を出すことになるのは間違いない。止めないと、でしょ?」
薄闇の中、そう言って自信に満ちた表情で微笑むイチの姿は美しく、その肢体はあまりに艶やかだった。
「……っ!」
不意に息を詰まらせたロイヒテンの顔が、耳まで真っ赤になった。イチがハッとしたように目を見開き、視線を恐る恐る下の方へ移動させていく。その視線が下半身の隆起に辿り着く前に、ロイヒテンはバツが悪そうに言った。
「すまん、勃っ――」
「変態!」
瞬間、ギョッとした顔でロイヒテンの上から飛び退いたイチに蹴り飛ばされた。
「へぶぁっ!?」
蹴られた勢いのまま顔面で床を滑ったロイヒテンは、鼻血をダラダラ流しながら小さく呟いた。
「ぐぅ……これで死ぬならいっそ本望だ」
そんなロイヒテンにイチはニッコリと笑うと、さっと彼に背を向けて、指先で白い魔法陣を描いた。しかしその背中にふと視線を感じて、イチは首を回して振り返った。
「ロイヒテン、君は何を見ているのかな?」
「いや、あんたの尻といい腰といい、あんまりいい眺めだから」
「……君みたいな堂々としたスケベは嫌いじゃないけどね。もうちょっと遠慮してくれないかな」
イチは魔法で青いワンピースを纏うと、ロイヒテンに指先を向けた。天を仰いでいるその股間に、腹いせとばかりに緑の葉が貼り付いた。
「おぉ……。うん、俺はこれでも構わないぞ」
堂々と頷いたロイヒテンに、イチは額に手を当てて溜め息を吐いた。
「君は筋金入りね……」
「ま、上に行けば服くらいいくらでもあるだろ」
ロイヒテンはニヤリと笑うと、不意に表情を改めた。
「イチ」
「何?」
「……悪かった。ありがとう」
そう言ったロイヒテンに、イチは僅かに目を見開き、ロイヒテンを凝視した。ロイヒテンはイチから目を逸らして俯いた。
「……俺のせいで、あんたを酷い目に遭わせちまった」
イチは一瞬驚いたような顔をして、それから苦笑を浮かべた。
「私はいいのよ。あのジェイクって奴にも、もちろん君にも、ちゃんとやり返すから。それより、ちゃんとカナタに謝ってね。あの子は奴隷なんかじゃない。私の大切な友達よ」
「あぁ……すまん」
「ロイヒテン」
「ん?」
「悲しい時は、泣いてもいいと思うよ。リズちゃんのこともお母さんのことも、君はきっと大好きなんだから」
「…………」
ロイヒテンは心底驚いたように目を見開くと、そのまま口元に半笑いを浮かべ、首を横に振った。
「冗談やめてくれ。リズはともかく、あんな母親くそったれだ」