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今回ちょっと長いです。
「アイラ! 危ないよ!」
「ひゃあああ!?」
ばさばさばさ! と音が耳元で鳴り、身体全体に痛みが走る。が、思っていたより耐えれる痛みに不思議に思って目を開けると、唇に触れるやわらかい感覚に気付いて。至近距離に見えた薄茶の、琥珀みたいな瞳にびっくりする。
「うわわわわ! ご、ごごめんなさいサフィルにいさま!」
「……っ、だ、だめじゃないか、アイ……おじょうさま、怪我はありませんか」
「……アイラでいいのに」
ぷくっと頬を膨らませて、慌てて彼の身体から降りる。どうやら、落ちた私を彼がキャッチしてくれたようだ。その際、なんか彼のほっぺたにき、キスしてしまったような気がするが今のはキノセイって事で!
「お嬢様にキスしてもらっちゃったな、あとでガイアスとレイシスに自慢しようかな?」
「さ、さふぃるにいさま!!」
真っ赤になっただろう私の顔をみて、くすくすと笑うサフィルにいさまは最近大人がいなくてもなかなか「アイラ」と名前で呼んではくれなくなった。
十二歳になったサフィルにいさまは剣術の稽古も順調で、優秀なんて言葉では収まらないと私の父が喜びまくっていた。父の秘書も務めるサフィルにいさま達のお父さんが剣術の指導をしているのだが、そろそろ本格的に師をつけるべきか悩んでいるらしい。
背も高くなり、しかしがっちりした体格ではないサフィルにいさまは、まるで少し前に読んだ童話に出てくる王子様のようだ、と思う。うん、まさかほんとに美少年になるとは。私の美少年護衛フラグはしっかり生きていた。
「それにしても、なぜ木の上になんか登っていたの?」
うっ。少し怒った雰囲気を纏ったサフィルにいさまが、逃げようとした私の背に手を回して自分の足の間に私の身体を閉じ込めた。ちょ、近い! なんで向かい合ってこの距離なんだサフィルにいさま! 慌てて彼の胸に手をあてて押してみるも、離れない。鼻血かかっても知りませんよ!?
「……精霊さんが、上で困っていたの。ほら」
指を上に向けると、サフィルにいさまは小さく「ああ」と頷いた。
「リスのせいかな? 僕には精霊は見えないけれど、精霊はリスを怖がっているの?」
「違うわ。リスさんは心配して来ているだけ。あのリスさんの丁度前にある葉っぱが、病気にかかっているみたいなの」
視線を動かしたにいさまは、少しだけ目を大きく開いた。
「それはわからなかった。それで木の精霊は困っているんだね。すごいな、そんな事もわかるんだね、『エルフィ』は」
驚いている彼に、へへ、と笑って見せる。
この一、二年の間に私の力もめきめきと成長していた。
エルフィ、とはこの世界の、ある能力をもつ者の総称だ。精霊を認識し、話すことや力を借りる事ができる能力。それがエルフィと呼ばれる人達で、多くは遺伝による為に種族に分類されたりもする。
他にも、吸血鬼のような種族とか獣人のような種族もいるらしいが、我が国に一番多い種族、能力といわれるのはエルフィだ。その為特に迫害されるようなこともなく、むしろ貴重な力として国では大切にしてくれるらしい。
私の母が『緑のエルフィ』と呼ばれる力をもつ一族の出で、私達は植物の精霊と話すことを得意としている。
もちろん一般的な学問も勉強しているが、計算方法等は前世の世界と大差なく、そこは前世の記憶が役にたつ場面も多く順調すぎる程で(強くてニューゲームみたいとか言わない)、私はもっぱらこのエルフィとしての能力を上げるための勉強に時間を費やしていたおかげで今では普通に、人と話すように精霊と会話する事も可能になった。
「何も怖い病気じゃないみたい。あそこの葉っぱだけ切り取っちゃえば後は自分達でなんとかするって言ってるから、とってあげようと思ったのだけど」
「だから登ったの? 危ないよ、そういう時は人に頼むようにして?」
首を傾げて覗き込まれて、私は赤くなった顔を隠すように俯く。光に透けるような美しい髪が、さらさらと目の前で流れた。綺麗、とついまじまじと見てしまい、苦笑されてはっと意識を戻す。
「そ、その綺麗だなって!」
「そう? 僕は……アイラは、桜って知ってる?」
唐突に言われた言葉に、へ? と間抜けな声を出す。さくらって、桜だよね? 私この世界に来てまだ見ていないのだけど。
「この前父と王都に仕入れに行った時にね、桜っていう木を見たんだ。この国では王都の公園にしかないそうだけど、とても美しかったんだ。……アイラの髪は、とても綺麗な桜色だと思うよ」
「さくら、いろ……」
ごめん、見たことないからわからないよね、と言ってにいさまは笑うけれど。
私の顔はたぶん今さくらんぼ色だろう。
桜は、大好きだ。前世で唯一、病室の窓から春に見えたあの桜。今年も見れたと毎年ほっとしていたせいか、少し大きくなってから病室以外で見れるようになってもほっとしていたものだ。
今の私の髪は薄いピンク。母譲りなのだろうが、母よりほんの少し薄い。確かに、桜色なのだろう。
微笑んで私を見ていたサフィルにいさまだったが、目が合うとその顔を困ったようなものに変える。
「それで、僕が注意したことは覚えてくれるのかな」
「……ごめんなさい」
「わかったら、ほら。お願いして?」
「え、ええ!?」
もう私の願いはわかっているだろうに、言わせようとするサフィルにいさまの顔を思わず見つめれば、彼は穏やかに笑んで私を見つめて待っていて。
「……サフィルにいさま。あそこの葉っぱ、切り落としてほし、い」
目を斜め下に向けつつお願いすると、苦笑したサフィルにいさまはすっと体勢を変えた。抱きかかえられた状態は恥ずかしかったのに、離れた事にわずかな寂しさを感じていると……目の前で片方の膝だけを地面につき、私の手を握るとその甲に小さく口付けを落とす。
「畏まりました、アイラお嬢様」
「っ!」
ばっと飛びのいた私に笑みを一つ向けると、サフィルにいさまは腰の剣に手を伸ばす。
すっと少しだけ姿勢を低くした、瞬間の事だった。
ひゅっと頬が風の流れを感じたかと思うと、目の前をゆっくり、ひらひらと、色素の抜けた病に蝕まれていた葉が数枚落ちていく。
「うわぁ……」
ぱっとサフィルにいさまを見ると、かちんと音を立てて剣を鞘に収めたサフィルにいさまがこちらに優しげな笑みを向けていて。
「さあアイラお嬢様。部屋に僕が王都で見つけてきた美味しいお菓子とお茶を用意してもらったんだ。一緒に戻ろう?」
文句なしの、王子様だとこの時私は思ったのだった。
それは、突然やってきた。
「おい! アイラ、おまえにーちゃんにキスしたんだって!?」
「はぁ!?」
部屋で怒られないようにこっそりお菓子を楽しみつつ、植物辞典を開いて気になる薬草を調べていた私は、そんな事を大声で叫びながら部屋の扉をばたんと大きく開けて入ってきたガイアスに危うく辞典を投げそうになった。
せっかく食べていたビスケットがよく味わう前に胃に落ちていってしまった。なんてことなの、この世界では貴重な甘味が! ……本見ながらお菓子食べていた私が悪いです、はい。ってそれどころじゃなくてだな!
「な、何言って!」
「お兄ちゃんが、この前アイラちゃんにキスしてもらっちゃったって言うんだ。本当?」
飛び込むように入ってきたガイアスの後ろから、眉を寄せたレイシスも現れる。「きーす!」と高い声が聞こえたと思ったら、サシャも一緒だ。
っていうよりキスってなんだ。私そんなこと……あああ! 数日前のあれか、木から落ちてほっぺに当たっちゃったあれか!
「ち、ちが!」
「おまえ顔真っ赤だぞ! キスだなんて、アイラやらしいんだ!」
おいこら待てこのやんちゃ坊主め! どこでやらしいとか覚えてきたんだ! 私がぎっとガイアスを睨み今度こそ分厚い辞典を投げつけると、おっと、と小さく声をあげたガイアスは両手を前に突き出し、それを弾いて見せた。
「ま、魔法なんて卑怯だばかー!」
「辞典投げるほうが卑怯だろ!」
「そっちがその気なら私だって!」
「ガイアスもアイラちゃんもやめなよ、サシャびっくりしてるよ?」
おっといけない。ついヒートアップしてしまったとサシャを見ると、涙を溜めて私を見ているサシャと目が合って、私は慌てて手を振った。
「だ、大丈夫怖くないよサシャ。ほら!」
ぱっと私が手を上げると、サシャの周りにひらひらと花びらが現れる。
これも魔法だ。ガイアスは生意気にも防御魔法ととても相性がいいらしく、かなりの上達を見せているらしい。対する私は、植物と会話できる『緑のエルフィ』なだけあって、植物を操ったりと自然に馴染んだものが得意だ。
「わぁ! おはなだ!」
「これはどうかな」
喜んだサシャに、こんどはレイシスがふわりと周囲に柔らかな風を起こしてその花びらを舞わせた。色とりどりの花びらがサシャの周りを舞い、サシャが手を叩いて大喜びする。
「おにーちゃんたちすごい!」
レイシスは風の魔法が得意だ。みんなめきめきと魔法の力を伸ばしてきていて、お母様なんか魔法学校へ入れるべきかしら、と嬉しそうにしている。
魔法が根付いている世界ではあるが、この国は基本的に魔法学校と呼ばれるものに入学するのは貴族ばかりだ。才能がある者は国から魔法学校へ入るように通達が来るが、魔法の授業はお金がかかる。つまり平民はほとんど入学する事はないのだ。
ふと、視線を下げたサシャが、下を指差して「おはな!」と叫んだ。
私がガイアスに投げつけた辞典がそこには転がっていて、綺麗な薔薇のページを開いていた。
「アイラちゃん、何か調べものしてたの?」
「ああ」
そこで私は思い出してその辞典を拾い上げる。
「庭の木の精霊がね、街の方で珍しい病が流行ってるって教えてくれたの。とても痛いみたいだから、痛み止めの薬草とかあるのかなって」
「さすが『緑のエルフィ』だな、将来は薬師か?」
ガイアスが関心したように頷く。緑のエルフィは、その特徴から薬師や錬金術師になる人が多い。といっても、普通の人に比べればエルフィの数は圧倒的に少ないのでそうでない薬師も大勢いるわけだが。
「流行り病なんて怖いね。でも、クレイおじさまがいるでしょう?」
「クレイおじさまね、なんか王都に呼ばれてて今いないみたいなの。この街には他に緑のエルフィの薬師はいないから、いつもの痛み止めの薬草が切れそうなら他に何かないかなって思って」
「精霊に聞いたらどうだ?」
「うう、お話はしてもらえるけど、新しいお薬の知識とかはまだ教えてもらえないんだもの」
ぱらぱらと手にした辞典のページを捲る。精霊は、いくら緑のエルフィといえどそう簡単に仲間の居場所を教えない。それができるのはたくさん勉強をして、精霊と心を通わせる事ができる人だけだ。また、知識を貰う場合対価として魔力を少し差し出さねばならない。まだ小さい私は、精霊達が逆に心配して貰おうとはしない。世間話程度に、病が流行っているとかは教えてくれるけれど。
前世で病気に苦しんだせいか、私はこの緑のエルフィの力は将来医療に使うのだと、それが当然だと考えていた。きっと、役に立てるはずだ。一人でも多くの人を笑顔にしてあげて、あんな病気と苦しむ辛さから解放してあげたい。そう考えるのは自然な事だった。
いつか立派な薬師、もしくは医者になろうと決意し、ぐっと辞典をもつ手に力を入れる。
ごくり、と乾いた喉を潤す為にお茶を飲んだその時だった。
「ああ! お前達ここにいたのか!」
焦った様子でカーネリアンを抱き上げた父と母が部屋に飛び込んでくる。
「いいかい、お前達絶対この部屋を出るんじゃない。いいね」
父はそう叫ぶように言うと、母にカーネリアンを預けて部屋をまた飛び出していく。
母はそっとカーネリアンをソファに座らせると、両手を挙げて何か呪文を唱え始めた。
「……お母様? どうしたの?」
険しい表情だった父に、辛そうな顔をしている母を見て、嫌な予感しかせずに私がそう声を出したが、母が呪文を唱え終えた瞬間、部屋中の壁という壁に緑の蔦がしゅるしゅると伸びていくのに驚いて息を呑む。
「奥様、いったい何が……」
不安そうにレイシスが尋ねると、母は何かを耐えるような表情をしたあと、小さく声を出した。
「メイドのフローラと……サフィルの二人が、流行り病で先ほど倒れたの。ここの空気は浄化するから、あなたたちはここにいなさい」
「……にーちゃん!?」
さっと顔を青ざめたガイアスが外に飛び出そうとするが、母がぐっとその手を掴んだ。
「ダメよガイアス! 小さな子はひとたまりもないわ、お願いだから、信じて待ってあげて。今あなたの父上が街にお医者様を呼びに言っているわ」
「そんな、お母様!」
固まったガイアスの代わりに叫んだ私に、しかし母は小さく首を振った。
「ここにいるのよ、みんな」
あっという間だった。
まだ若いメイドと、そしてサフィルは、その日の夜を待たずにその目を二度と開ける事なく静かに深い、深い眠りについたらしい。
医者は、間に合った。間に合っていたのだ。それなのに、治療は受けさせてもらえなかったと、使用人が涙ながらに話していたのを聞いた。
「貴族の専属医だから見れないと、そう言ったそうですわ……! 旦那様がいくらでもお金を出すから診てくれと懇願しても聞いてくださらなかったそうです」
「奥様の兄君のクレイさまはどうされたのです!」
「何でも、王都の医師会から専属医の打診がきていたとかで、お断りするために不在だったそうで!」
「なんてことなの! 今回の流行り病はすぐに治療を受ければ助かるとの話でしたのに!」
サフィルにいさまは、あの空の向こうへいってしまったのだ。
「どうして……」
医者がいるのに診てもらえなかったというのか。目の前にいたのに、ダメだというのか。にいさまは病気と闘うことすらさせてもらえなかったというのか。
屋敷では弔いの準備がされている。今日ばかりは、そっと抜け出しても誰にも見つからなかった。
ついこの間助けたばかりの木の葉の下に隠れる。
「ふっ……くっ、サフィルにいさま……!」
雨は一層激しく、葉を打ち鳴らした。