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「ある、アルくん……」
唖然として口から名が零れ落ちたのは耳に届いてはいたが無意識だった。
その存在を探そうと視線を動かすたびにこみ上げる感情と胃からせり上がる何かに蹲って口を押さえる。襲い来る吐き気に息を乱すと、驚いたフォルの声が聞こえてすっと胸元が楽になり、そしてまた吐き気がこみ上げた。おそらく治癒をかけてもらったのだろうが、原因が目の前にあるのだからどうしようもない。
医療科の生徒だ。こんなの慣れている、……とは言い難い光景だった。傷ついているのは全て、ただでさえ幼く見える事が多い精霊たち。こんな、切り刻まれた光景が広がる事なんて、人間の魔法に巻き込まれないよう身を隠す彼らなのだ、通常ではありえない。……それだけではない。彼らの周囲をうねる虫のように這い回る黒い影。這って精霊に触れる度にその身体が刃のように蠢いて切断していく。今も、なお。
はっきり言って、医療に携わるものですら耐え難いような地獄絵図だった。虫を殺そうにも数が多すぎる。どうすれば、いや、腐っても治癒術士だと詠唱を開始したが、精霊たちの治療に通常の対人間用の魔法でこの惨状、どこまで通用するのか。……ほぼ、死んでいるのではないのか。
「アイラ、どうしたんだ!?」
『無理もない、姫は見えているからな』
乱れた呼吸で見上げると、眉を顰めたフォルの石に宿る闇の精霊が悔しげに黒い剣、いや片刃の細い……黒い刀身の刀を手にして、この惨状を引き起こした女を睨み付けている。
アルくん、無事だよね。そう何度も心の中で呟きながら、ぎりぎりと手に力が入るのを止められず爪が地面を抉る。治癒魔法が追いつかない。アルくんは常より私と共にいるせいか他精霊より魔力の扱いに長け、許容量も多い。防御力だって高いはず、防御の魔法も上手いはず。
いくつもの光が見えては消え、苛立ち紛れにさらに地面を抉る。
「……王子を」
「え?」
「王子を……光魔法を、私じゃ駄目だ。這い回る闇の虫を攻撃したら、生きている精霊まで攻撃しちゃう。彼らにもう、私の魔法から隠れる力は残ってないよ」
吐き出すように言えば、私を支えようとしていたフォルが息を飲んだ。ガイアスもレイシスも、そして姿の見えないグラエム先輩も誰も動かない。わかっているのだ、今動くのはまずい、と。
少しして、地面を抉る私の手をまるで柔らかな布でも扱うように優しく持ち上げたフォルが、小さく囁く。
「精霊がたくさん、この虫の間に倒れているんだね?」
「そう、アルくんが、まだ見つけられなくて。気配があるのに、わからなくて」
「わかった」
まるでエスコートするように私に触れて立ち上がらせたフォルが視線を合わせ、にこりと笑う。何をするのだと目を瞬くと、その先にいた女がにやりと口角を吊り上げた。
「まさか、私の魔法に勝つつもりですか? ニンゲンが」
「そのまさかだよ。俺を舐めないで欲しいな」
一人称を変えたフォルが、ひゅ、と腕を振り下ろす。その軌跡を闇が辿った。フォルが一歩踏み出す。残像のように闇が残った。……フォルの身体から、溢れる程に黒い魔力が立ち上がっているのだと気付くのに遅れ、目を見開く。
「ふぉ、フォル」
確かにここに他の人影はない。だが、姿が見えないがグラエム先輩だっている筈で、精霊たちも多く倒れ、ガイアスたちだっている。これ程の魔力でいったい、何をするつもりだとい言うのか。それに……フォルは、闇の魔法の使用に躊躇いがあった筈。
情けなく震える指先で精霊たちに魔力を分けていた私の目の前で一度振り返ったフォルが、大丈夫だよ、と口だけを動かしてにこりと笑みを浮かべた。
「……闇の操り人形」
『次代様!』
ただただ静かに、さらりと短い発動呪文を口にしたフォルを見て精霊たちが目を剥いて三者三様散った。どうしたのだとその姿を追った瞬間、彼女たちは慌てた様子で周囲を飛び回っていたかと思うと私の背に隠れる。
『て、偵察しているような人間はいなかった。姫、ちょっと匿ってくれ、次代様に近づくでないぞ』
『怖いに! あの規模で力を使われたらこっちまで巻き添えくらうに!』
『さすが次代様ですぅ……』
次女さんがうっとり見つめる先で、フォルが動いた。余裕そうにしていた女が目を見開くと、精霊たちの合間に蔓延っていた虫が女に吸い込まれるように消える。女は壁を生み出そうとしたのだろう、が、それは形成される前に消え去った。おそらく散らしていた己の魔力を回収しなければならない程、フォルに押されているのだろう。
「おいまずいぞ、公園に張りなおされていた水の壁が消えた」
「あの女、わざわざ水魔法の壁を作っていたのか?」
「それより、あのフォルを見られるのはまずい。俺が炎で壁を作ると植物が燃えるし精霊が死んじまうから地属性でやるぞ。レイシス、お前も壁作れ!」
ガイアスが「まずい」と言うだけあって、今のフォルはどう見ても通常の魔法を使っている様子ではなかった。こちらに背を向け真っ黒の魔力に包まれてフォルの髪だけがきらきらと輝き、存在を主張する。魔力の色が見えるのは私だけ、だが、ガイアスたちも感じているのだろう。……底なしの闇の魔力を。
「ほら、やれるものなら俺に抗って踊ってごらん」
「……ふ、ざけ……」
フォルが挑発するように手を差し出す。女はぶるぶると震えるばかりで、目を剥き口は開いて舌を覗かせ、美しい髪も強風にあおられたかのように荒れた。
「馬鹿だね。挑発された程度で魔力の均衡を崩すくせに、一人で魔法を使っていい気になって。魔法は、精霊と人間が契約を通して生まれるものだ、一人では限度がある。最も今の君に僕に逆らってまで闇の魔力を与える闇の精霊はいないよ。闇だけは、ありえない。それ以外の付け焼刃な属性魔法でも俺に勝てるわけがない。一人で魔法を使って、格を気にしている君には無理だ」
「ぐっ、がっ……」
もはやまともな呼吸すら難しいのか、女の声は醜く掠れた。フォルはただそこに立っているだけだ。
「さあ、答えて。君は誰の協力を得て人の身体になって、どんな目的で呪いをばら撒き、どうしてジェダイを閉じ込めたのか」
歌うようにさらりと口にするフォルの前で女が先ほどまでとは打って変わって顔色を変える。余程口にしたくないのかぶるぶると首を振るが、フォルがただ黙って見つめるとだらしなく開いていた口がかたかたと動きを変えた。
「オウル、に、契約……この身体を得て、記憶は捨て……呪いは、魔力を貸しただけ、で……強い、地精霊捕まえろと、私は」
ぽそぽそと告げられていく言葉に漸く、フォルが行使している魔法が操作系統の強力な魔法であると知ってその能力の高さに閉口した。……やはりと言うべきか、フォルは間違いなく、闇使いとして上級者だ。それにしても、断片的すぎてまったく欲しい決定的な言葉が聞けない。
女が悲鳴をあげた。フォルが眉を寄せ一歩引くと、女の身体が黒い靄に包まれて掻き消えて行く。逃げるのか、と誰かが叫んだ気がしたが、その瞬間飛び出した陰が女の首を飛ばした。
「逃がすくらいなら死んでもらうぜ」
「グラエム先輩!」
さぞ恐ろしい光景が広がっているかとも思ったが、女は首を切断された瞬間身体が掻き消えてしまっていた。死んだ、のだろうか。思わず周囲を確認していると、死んだよ、と後から聞こえた。
『見えないだろうね、精霊の姿で死んでいる』
淡々とそう告げて刀を消した闇の精霊の長女さんもまた、目を伏せると姉妹たちと共に姿を消した。
ふっと息を吐いたフォルの周囲の『黒』が消えていく。ちらりと視線をそちらに動かしたグラエム先輩が、とんでもねぇ能力の使い手がいたもんだと頭を掻いた。
「見えない筈の俺にまで色を見せるとはな」
「怖がらせましたか、先輩」
「いや、まったく」
淡々とフォルとグラエム先輩は会話を交わし、すれ違って離れていく。グラエム先輩は桜の木に向かい、フォルは私の元に戻ってくると少し伺うように私を覗き込んだ。
「……ごめん、いるのはわかっても精霊の位置がわからなかったんだけど、もしかして彼女たち危ない位置にいた?」
「え、あ、そうか、姿現ししたわけじゃなかったんだ……うん、あの子たちは大丈夫。でも、ねぇフォルどうしよう、アルくんがいないの。そばにいるのなら、慣れた魔力だしわかると思ったんだけどどうしよう」
「落ち着いて。それなんだけど、アルの依り代は桜の石だ。アイラ、そっちは確かめた?」
「あ!」
慌ててポケットから石を取り出す。目を凝らすと、微かに弱々しい魔力。石の中の桜によりそうように、小さな、透き通る姿でぼろぼろのアルくんが倒れこんでいる。
「アルくん!」
「アル、いたのか!?」
駆け寄ったガイアスとレイシスに説明すれば、眉を寄せつつも二人はとりあえず見つかってよかったのだと、辛うじて声にした。ちらりと下を見ればぼろぼろの精霊たち。桜の木は枝が一部どろりと崩れ落ち、他の木々も同様だ。
「なんなの、こんな……」
「まず何したらいいんだ、精霊は俺たちには見えないぞ」
「アイラ、精霊の治療、できるかわからないけれど僕がこの一帯に治癒術をかけるよ」
「まずお嬢様は桜の木の解呪だろう。あれではここ一帯呪いで朽ちてしまう。……お嬢様」
レイシスが気遣わしげに私を見る。頷いてグラエム先輩の背を目指し歩き出すも、私は手に持ったままのアルくんの石に魔力を注ぐこと、そして閉じ込められてしまったジェダイが気がかりで、その視界に映る桜の木を見上げ、呻いた。まるで、桜の花びらを散らすように黒い雫を落とす桜の木は、泣いているように見えた。
完結が見えてまいりましたので自分に発破をかける意味での更新予告や報告、また小話を呟くアカウント作成しました。(お話関係しか呟きませんし反応もありませんが)あと少し、頑張ります。




