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「アイラ」
部屋をノックされる音に気づいた時、聞こえた声が大切な人のもので思わず顔を上げる。
いつもよりのんびり部屋にいたのだが。今日は休日だ。
扉を開けるとやはりそこにいたのは銀糸のような髪をさらさらと流しながら私を覗き込もうとするフォルで。部屋の中に入ってきたフォルは、少し怒っているような、困っているような表情をする。
「フォル……?」
「ちゃんと、眠れてないね? アイラ」
「……寝たよ? ちょっと夢見が悪かっただけで」
少し顔を隠すように俯きながら笑う。……そんなの通用するはずがないのだけど。
ああ、そうか。フォルは昨日、私がグラエム先輩の言葉に震えてしまったのを知っているのだ。心配してくれたのだ。
そう気づくとじんわりと胸に熱が広がって、そして少し寂しい。心配されるようなことをしてしまったのだ。フォルだって間違いなく忙しいし、昨日の件に思うところがあった筈なのに。
ふわりと優しく頬に触れたフォルの手に僅かに力が込められ、顔をあげると銀の瞳に見下ろされる。
「今日の予定は?」
「あ……調査、しようと」
カルミア先輩のこと? と問われて、躊躇いがちに頷く。フォルはやっぱり、と笑うのだから、お見通しだったのだろう。
「うん、おやすみしようか。ちょっと今日は僕に付き合って?」
ね? と覗き込まれて言葉に詰まる。動けない私を見て、フォルは笑った。
「アイラは、やれることがあると絶対やらないといけないって思い込んでいる節があるね。アイラ、十分だ。君はもう大会の結果でも、この学園で騎士科のレイシスと並んで三位なんだよ? 少しくらい力を抜いても大丈夫だから」
「え?」
「いつだったが、デュークにのし上がるって約束してたよね。もともと頑張り屋な節はあったけど、君は十分なんだ。夏の大会では同じ女性の、王太子妃になるラチナより上に進んだし、現段階で学園に在籍する女性の中でもあの時の赤組でも優勝者。医療科でもトップだし、ベルマカロンは順調。カレーのお店も、アイラがご両親と動いているおかげで注目度高いよね? 知っている? 医療科トップクラスの生徒が手がけた栄養料理ってことでもう開店前から注目を集めてる。誠意があって人柄も良く慈愛に満ちた人物って有名なんだ、アイラ。君を知らない貴族はいない。仲がいいと知られたアネモア・ロッカス嬢にはアイラに引き合わせて欲しいという願いも多いんだよ、十分すぎる。ベルティーニ家の娘はその母親より有名だ」
「……え? 待って、フォル。どうしてお母様? っていうか私そこまで目立ってる? 誠意とか慈愛とか意味が分からないしそれって貴族お得意の社交辞令の過大評価でしょう!? それに私そんな頑張ったかな。まだまだ、デューク様にもフォルにも追いついてない」
私を見下ろすフォルの瞳は優しくて、しかしどこか幼子をあやすような、困ったな、という笑みになんだか申し訳なくなる。
手を引かれたかと思うとベッドの上に促され、二人で端に腰掛ける。
以前も似たような場面はあった筈なのに、今はやたらと緊張するから不思議だ。ただ、隣に座っているだけなのに。
「調査は、僕も全力をあげてる。……デュークも探してる。だけど、実はカルミア・ノースポールの所在が今わかっていない」
「……え?」
「数日前から行方不明。事件に巻き込まれたと見るか、僕たちが気づく前から自分に捜査の手が及びそうだと気づいたか、それとも何らかの事情であの活動をするために騎士から離れたか」
「ならやっぱり、探さないと!」
もうデュークが探してるよ、と頭を撫でられる。眉を寄せた私を見下ろして、フォルが真剣な表情で告げる。私は動くな、と。
「彼はエルフィで、こちらのエルフィの存在に気づいている。こちらにはグラエム・パストンだけではなくパストン家がついていることも分かってる。恐らくエルフィは警戒されているよ。アイラ、彼は王家が把握している血筋じゃない、危険なんだ。デュークからの伝言だ。今回動くのは王子と俺の動かせる騎士、暗部。それにガイアスとレイシス、ルセナの力を借りる。アイラ、ラチナ、グラエムは待機。……守れなければ相応の罰を与えるぞ、だって。ちなみにアイラの監督は僕だから」
僕の目を盗んで何かしようとしないこと。そう笑うフォルが、私の頬に手を触れながら距離を詰める。
「守らなかったらお仕置き。わかった?」
「ちょ、あの、近い、フォル近い! それになんか黒い!」
「そう? 僕はもっとアイラの傍にいたいけど。まぁ、僕が黒いのは否定しないけど。アイラ、今更でしょう? 君は何もかも知ってる筈」
すぐに離れたフォルが、ひょいと肩をすくめる。何もかも、が「黒」の意味を指しているのはわかっているが、不満だ。
「私の知らないフォルもいる。フォルは基本的に秘密主義者じゃない」
少し拗ねたような、怒ったような口調になってしまい視線を落とすが、視界に映るフォルの身体は笑っているのか僅かに小刻みに揺れた。
「アイラは結構、攻めるよね。まぁ、戦闘スタイルもそうだけど」
「え、せめる?」
「押してくるねって。今のだって貴方のことがもっと知りたい、って言ってるようなものだって、意味わかってる? すごい殺し文句だよ。ほんと俺今まで何度理性を試されたか」
手を握られた、と思ったら、そのまま指先が絡み合い、ぐっと力を入れられる。身体が傾き、狙ったように枕の上に頭が落ち、見慣れた自室の天井と私の間にフォルがいた。
「困ったな。俺、ここに触れたこともないのに押し倒した経験は何度か記憶にある。何やってるんだろうね」
はは、と苦笑しながらも、フォルの少し冷えた指先が私の唇の上を何度か滑った。いや、フォルの指先が冷えているのではなくて、私が熱いのか。緊張して口を動かすこともできずにいる私の上で、フォルは優しく目を細めた。
「お願いアイラ。今日だけ休もう? きっとこれから忙しくなるし、危険が増える。今日だけ、アイラ。本当はずっと腕に囲って守りたいけれど、君の魅力はそこじゃないし、そんなことを君が望んでないのもわかってる」
だから今だけ、と繰り返すフォルの顔が近づいて、頬に、額に口付けられる。やわらかいそれが触れるたび身体が熱くなって、絡む指先だとか、本当に私を押し倒して上に乗り上げたフォルが触れている場所の体温だとかが異常に気になって、呼吸すらままならなくて。
実は、と少しだけ顔を上げたフォルが、本当に参ってるんだと呟いた。
「王太子に婚約者が決まったことで、確かに『僕』にも婚約の話が増えたんだ。けどね、アイラ。実は君の実家に君宛に届いている婚約の話が、俺以上だって知ってた?」
「……はい?」
「女性のほうが求める男性の年齢幅が広いっていうのもあるけど。僕たちの二倍以上の年齢の貴族からカーネリアンより若い男の子まで幅広く、ね。元が商人家だから貴族以外からも話が来てる。アイラ、自分に婚約話がくることなんて考えもなかったでしょう」
「……それは、だって。私は成り上がりの子爵家で……」
「リドットもイムスも崩壊している今、貴族は由緒正しい、というよりはある程度王子に目をかけられている家と繋がりたい。しかも君は将来の王妃と仲が良く、保有魔力も優秀だ。……とまぁこんなところなんだろうけど、そんなやつにアイラを渡すなんて腸が煮えくり返るね。まあ本気で好きだって奴にも渡さないけど」
珍しい口調もそうだが、心底怒っているらしいフォルの顔を見て驚く。……どちらかというと冷静な人だと思うけれど、ああ、やっぱり私はフォルの事をまだまだ知らないのだ。
それなのに、指先は優しく絡んだ私の指先を撫で擦り、時折頬にキスしてくるのだからたまらない。どうしたらいいのか、わからない。
「……ノースポール家からも君に縁談の話が来てたんだよ。カーネリアンが朝僕にぐしゃぐしゃに握りつぶした文を持ってきたけどね。怒ってたみたいだけど」
「ちょっと待ってフォル。カーネリアン情報早すぎじゃない? っていうかなんで私じゃなくてフォルにもってくるの?」
「さあ、どうしてでしょう?」
「ひゃっ」
耳元に唇を寄せられて声が裏返る。……駄目だ、刺激が、強い!
ふぉる、と情けない声を上げた私を見下ろして、フォルが困ったように笑う。
するりと私の上から降りたフォルが、そのままベッドから足を下ろし立ち上がって、つられたように上半身を起こした私の目の前で……フォルが、床に片膝をついて私に手を差し出した。
「アイラ・ベルティーニ嬢、僕と生涯を共にして下さい。……アイラ、好きだよ。どうかこれからは頑張る時も、休む時も、悩む時も、俺と一緒に」
前回からはまた意味の少し違う目の前の光景に、準備が整ったのだと理解する。こういった時、差し出された手に、手を重ねるだけだというのも分かっている。
けれどわけも分からず視界が歪み、頬を熱が滑り落ちて縋るように両手を伸ばす。
ベッドから飛び降りて、差し出された手を握りこんで強く引き、そのまま両腕を近づいた彼の背に回した。
保持した記憶からおかしい、特殊な血を持った浮いた存在であると自覚はしていたが、気にしていないと思っていた。それが「一緒に」というただそれだけの言葉が、これ程嬉しいとは。
抱きついた私に驚いたように一瞬固まったフォルの腕が私の背に回る。お互いの熱を感じるように強く抱き合って、少しして二人の間に空気が入り込んだとき、頬にフォルの手が触れた。
「アイラ、必ず守るから、ずっと俺の傍に」
私の桜色の髪に、フォルの前髪が交じり合う。近づいた距離に目を伏せれば、柔らかく、そっと優しく、唇が触れ合った。
一瞬だった筈なのに、時が止まったのかと思うくらいそれは強烈に私の全身を支配する。握り締めた拳の上に雫が零れ落ち、顔がしっかり見える距離まで離れたフォルが、驚いて私の涙を拭う。
「困ったな、泣かせるつもりじゃなかったんだけど……嬉しいとか、俺もどうかしてる」
本当は桜の木の下で、アルにも胸を張って言いたかったんだけど。
そう言ったフォルは私の背を優しく撫でた後、傍にいるからもう一度眠って欲しいという。
察した。外に私達だけで出るのが危険な程、恐らく今私の危険度が高いのだと。フォルが今だけ休んで欲しいと言った意味も。ああでも、嬉しいのだから私もどうかしている。
「フォル、好き」
「はは、どうしよう。俺今人生で一番舞い上がってるかも。アイラ」
もう一度軽く唇を合わせて、フォルは笑う。どこか泣きそうな、そんな表情で。
少々立て込んでおりまして、次回更新を4/25~26の間とさせていただきます。申し訳ありません。
いつも応援ありがとうございます。




