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「春ですわねぇ」
のんびりとしたおねえさまの声と同時に、開けた窓からふわりと舞い込んだ風が薄紅色の花びらを教室内へと運び込んできて、思わずそれに手を伸ばす。
学園内では至る所で見かける春に咲く花。ふわりと甘い香りが広がって、そっとそれを机の上に置いた。
「今日から三年生ですねー、はやいなぁ」
「いよいよって感じだけどね。君達は全員医師志望かな?」
トルド様の声におねえさまが「そういえば今日発表ですわね。騒がしくなりそう」とさりげなく反応を返してくれる。おねえさまありがとうございます。
学園に希望は伝えてあるし、能力に見合っていないと判断されなければ希望はそのまま通り選択授業が決まるが、聖騎士についてはまだ詳細が明らかにされていないのだ。というより、誰がどの授業を受けることになるかの発表自体今日の昼なのである。
どこから漏れたのか、今年は聖騎士の授業があるらしい、というのは既に生徒の間で噂になっている。その噂が広く学園内で騒がれているのは、ルセナの存在が原因だ。
史上最年少で入学した天才少年と言われるルセナは、普段大人しいので二学年までの在学中あまり話題に上ることはなかったが、そもそも騎士科において相当な実力者だ。
そしてその天才といわれる所以である彼の強みは防御魔法で、彼の為に復活したのではないかと噂は持ちきりである。私やフォルの話は微塵も出ていない。レイシスと、ピエールもなぜか話題に入っている程度である。
ピエール、普段のおばかさんっぷりのせいで忘れてたけど騎士科ではトップクラスの実力者だったね……。
午前は私達は簡単な挨拶のみで終了し、それぞれ自習時間となっている。今は恐らくホールでは入学式が行われているだろう。
相変わらず、というべきか、去年と同じく卒業式なんて在校生にはまったく縁がなく、さらりと過ぎ去ってしまった。この国では卒業式とやらはあまり盛り上がらないらしい。まあ、そんな私も現状何も変わっていないので、まったく「先輩達が卒業した」という実感はないが。
なんと、聖騎士授業の教師である第一騎士団隊長と学園とのやり取りでの補佐に、フリップ先輩が就いていたのである。フリップ先輩は、一年間第一騎士団の補佐として入団し学園在学中の王子との接触を保ちながら、将来的には伯爵家を継ぎ王子の傍に仕える所謂政に関わる貴族となるようだ。
王子の目的が現在の政に深く関わる高位貴族の中で「膿」となる部分の一掃であるから、フリップ先輩は最初の新しい風となるのだろう。……いや、「風」は他にもいるのかもしれない。例えば、パストン家とか。カーネリアンが王子に目をつけられている気がするのも気のせいではないだろうし。
それに私たちの屋敷には現在、グラエム先輩がまだ残っている。それも、こっそりと、だ。
どうやらグラエム先輩が地元に戻るよりは、王都に留まっている兄の補佐をしたほうがいいのでは、という話になっているらしい。王子達が関わっている政はどうなっているのか私にはわからないが、屋敷が安全だと判断されたのならいくらでもいていいのでは、とは思う。地元に帰ってルブラに狙われたら意味が無い。
まあ相変わらず、部屋から出てこないけれど。
ハルバート先輩やファレンジ先輩は卒業して正式に王太子付きになったようだから、これから屋敷への出入りもあるだろう。他に接点があるとすれば、グラエム先輩となぜか仲のいい槍使いのヴァレリ・べラー先輩だが、彼は兵科を優秀な成績で卒業しなんと王都内警備を担当する騎士団への入団を果たしたらしい。こちらもまた、会う機会はあるだろう。
それに……今日の入学式に、我が弟、カーネリアンもいるのだ。予定通り紳士科に入学したのである。きっと今年も賑やかだろう、とは思う。サシャは入学することはなかったが、カーネリアンの補佐としてカーネリアン在学中は王都のベルティーニの店舗から仕事の手伝いをするらしい。
ほとんど変わらないどころか、むしろ知り合い増えたよね。そんなことを考えながらアニーたちと話をしていると、「あの」とどこからともなく聞きなれない声が届いた。机に置いた花びらが、再び風に乗ってふわりと飛び去っていく。
声のするほうに顔を向けて、思わず顔が強張りそうになるのを何とか堪えて笑顔を貼り付ける。淑女の笑み、淑女のほほえみ! お母様直伝の笑みを思い出せ……!
和やかに挨拶の言葉を続けてかけてきたのは、医療科の二人。一人は去年一度話して以来な気がする。
私達によくない噂があるからフォルに近づくなと宣言してきた少女、ヴィヴィアンヌ・プロヴェン。子爵令嬢だ。
去年のあの時以来話す機会もなかった彼女であるが、今日話しかけてきた用件はなんだろうか。……ローザリア様大好きの彼女の一歩後ろに立つのはローザリア様本人だ。まさか彼女が去年のような自分の友人の暴走とも取れる行動を、目の前で許すとは思えない。なにせ、ここにはフォルもいるのだ。
おねえさまやアニーも去年は私と一緒に彼女に思いっきり非難された二人である。笑顔ではあるが、警戒はしている、と言ったところか。対し無表情のフォルと、笑顔でどうしたの、と話を振るトルド様。
ん? フォルが無表情って、珍しい。むしろ顔はあげているのに、視線が向けられていない。どこか警戒した様子を見せているのは、どうやら女性陣だけではなかったようだ。
……何かあった、のだろうか。ローザリア様とフォルの間で何かがあるのはわかっているし、フォルが婚約したいと思っていないのはもちろん今はわかっている。予定があるのに私に心を打ち明けてくれるような行動をする不誠実な人ではない。
だがここでふっと一つの疑問が浮かび上がる。私は、フォルの気持ちに答えられなかった。ということは、また婚約の話が出ている可能性もあるわけで……。
な、なんだろう。気まずい。
思わず視線が泳ぎそうになるのを必死に耐え、ヴィヴィアンヌ様を見つめる。彼女が次に口を開いた瞬間落とされた爆弾は、予想以上の衝撃を私にもたらしたのだが。
「明日より同じ班での活動になりますのでご挨拶をと思いまして。どうぞよろしくお願いいたしますね?」
「私も同じく、先生よりお話を頂きましたの。よろしくお願いいたします」
ヴィヴィアンヌ様とローザリア様の言葉に、トルド様も含めて全員が驚いて一瞬表情を崩してしまったのは言うまでもない。
「これは驚いたな。僕も後発組だけれど、この班の研究と授業の進み具合は追いつくのは一筋縄ではいかないから、別な班を結成するのかと思っていた」
「そう、だね。僕もそう聞いていたんだけど」
トルド様の言葉にフォルも頷き、私たちも顔を見合わせる。聞いていない。私たちの班に入るのならば、去年進めた研究や授業内容を纏めて後で入ったメンバーが自力で追いつけるように資料を用意するなど準備もあるのだけれど。
トルド様だってぎりぎりフォローできる範囲だっだのだ。今年いきなり班に加わっても、彼女達はどこまで進んでいるのかという話だけで大混乱レベルだと思うのだが。そもそも、普通の生徒が医療科三年で習うべき授業の殆どを、私達は既に終わらせている。
少し遅れたアニーへのフォローだってあるのに、どうしてまた急に? それが正直な感想だ。ローザリア様はもちろんヴィヴィアンヌ様も優秀ではあるが、さすがに私達が何の準備もせず迎え入れていきなり同じスタートラインには立てないだろう。警戒心があったとかそういうことを抜きにしても、困った事態、である。
「……まぁ。ヴィヴィアンヌ様ってば。皆様ご心配なさらないで、いきなり皆様と同じ事を学ぶのではなくて、先生のお話では新しい研究や薬剤調合などがあればたまに参加させてもらって、基本的には私とヴィヴィアンヌ様で皆様の後を追うような授業になると思いますの」
「ということは、たまに合同で行うけれど一応班は別って考えでいいのかな」
「そうですわね」
トルド様とローザリア様の会話で、明らかにヴィヴィアンヌ様は少々機嫌を損ねたようだ。すぐに笑みが戻ったが、どうやら同じ班扱いして欲しいらしい。これは恐らく、しばらく私たちの班は彼女らの指導係だ。
先生、先に教えてくださいよ……。
「ま、まぁでも、皆様も殆どが選択の科目は医師志望でございましょう? ご一緒する時間は多いかと思いますのでよろしくお願いいたしますわ」
にこりと少しばかり引きつった笑みを浮かべるヴィヴィアンヌ様と、後ろで花のように微笑むローザリア様。ローザリア様は先程から少し心配そうにフォルを気にしている。儚げな美少女の健気な姿に、遠巻きに見ている医療科の男子生徒数人が頬を染めしかし悔しがってるという背景が非常に彼女とは合っていなくて、教室内はある意味混沌とした空気だ。美少女の視線の先は無表情もいいところだし。
しかも、医師志望、に関しては間違いではないが、彼女達が最も関心を寄せているであろうフォルは医師の授業ではなく聖騎士の授業を受けることになる。これはまた、発表の時が怖い。
そんなことを考えた瞬間、無情にも開かれた教室の扉から、紙の束を抱えた医療科の教師が現れた。タイミングが悪すぎである。
選択授業の振り分けを発表する。そう先生が告げ、一人ずつ名前が読み上げられていく。
わいわいと楽しげに仲間と発表を聞く生徒、惜しくも希望する授業が受けられず第二希望である授業に決まって嘆く生徒と教室は賑やかであったが、一人、また一人と呼ばれていくにつれ、次第に視線が私達の班へと集まりだす。
トルドは薬師志望なのか。あの班の授業レベルを考えたら医師かと思ってたよ、とか。
ヴィヴィアンヌ様とローザリア様が先進授業の班に選ばれたことで、選択授業も医師に選ばれたことを当然ですねと賞賛する声とか。
アニー様はやはり医師志望ですのね。またフォルセ様と同じ授業で点数を稼ごうとでも思っているのかしら、男爵家の娘が、という酷い嘲笑交じりのひそやかな声とか。
おねえさまが名前を呼ばれると、先に医師の授業を受けることに決まっていた男子生徒たちが喜びの声をあげていたり、とか。
そして、いつまで経ってもなぜか呼ばれない私とフォルの話、とか。
先生が私とフォルの名前以外を呼び終わり、医療科の振り分けは以上だ、という発言をした直後。当然ながらあれほど騒がしかった教室をしんと鎮める程度の衝撃があったようだ。
「せ、先生? ちょっと待ってください、二名ほどまだ振り分けが済んでいないようですけれど……?」
思わず、といった様子で控えめに手を挙げ、しかしはっきりと疑問を口にしたのは、ヴィヴィアンヌ様だった。先生はそれに気づくと、はぁ、と小さくため息を吐き、そうなんだよねぇと苦笑する。
「君達も今年聖騎士の授業が復活されるという噂は聞き及んでいるだろう。実はフォルセ君とアイラ君はそちらにと指名されていてねぇ、医療科ではなく騎士科の授業を兼任することになったんだ。しかしこれは医療科でありながらその実力を認められた名誉あることだ。私も非常に残念だが快く送り出さなければならないなぁ」
先生の言葉を聞いた医療科の生徒達は、一拍置いた後悲鳴をあげた。貴族が多い学園といえど、まだまだ学生であったのだと身に染みた瞬間だ。これは、しばらく注目されそう……。
覚悟していたはずだとすべてを諦めて、私は様々な意味の込められた好奇の視線を大人しく受け止めたのだった。




