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悪かったよ、で済む話ではないことを淡々と穏やかな声で告げる男がぐいと手を上に持ち上げるような動作をした瞬間、ぶわりと周囲に魔力が満ち、気づくと横たわるベリア様の身体が浮く。
「なっ、待て、ベリア!」
グラエム先輩が叫んで手を伸ばすが、その手はベリア様に届かず、次の瞬間グラエム先輩の姿がその場から掻き消えた。え、と目を疑った時すぐに動いたレイシスがその場を飛び上がり、どうやら一瞬で真上に投げ飛ばされていたらしいグラエム先輩の身体を引き寄せ受け止める。
背を冷たいものが走り抜ける。
まずい、かなりの手練れだ。
触れただけで「まずい」と理解するほど濃密な魔力に息を飲む。
ひどい衝撃を喰らったのか、息することもままならずおかしな声を漏らすグラエム先輩の目の前で、ベリア様はまるで物のように男の左肩に担がれた。
「彼女には参りました。夏にたまたま出会ってからというもの、こちらに想い人がいると告げても引いては頂けなかったから。ある意味、その強さは参考になったけれど……さすがにここまで追ってこられるとは」
誰とはなしに話し始めた男は、私達が何も言えずにいる中で一歩、こちらに足を踏み出す。
「彼女には少し知られすぎた上に勝手に怒って攻撃してきたようなのでやり返しただけです。故意にやったわけではなくこちらも正当防衛で。ということで、冷静に取引をお願いしたい。フォルセ・ジェントリーに前に出てもらおうか」
相変わらず場違いな程穏やかな声で男がそう告げると、私達を掻き分けて前に進み出たのはアーチボルド先生だった。
「ふざけるな、まずその子を離して貰おうか。学園の依頼で呼び出したということは、その子もここにいる数人も俺の生徒だとわかっているんだろう!?」
「ええ」
「なら俺がその取引とやらの話を聞こう。教師が任務に同行するのは危険から守る為なんでね!」
「困ったなぁ、そんな熱い先生だとは思わなかったんですが」
少し離れた位置にいる男は、ベリア様を抱えたまま僅かに首を捻ったようだ。
相変わらず顔を露にしない男は特徴が掴めないが、何かが私の心の中で引っかかる。……先生を知っている、というのは間違いなさそうだ。だって、先生がやる気がないように見えるのは、普段の先生を知っているからこそなのでは。
「彼女は渡しません。取引に必要ですから。相手は先生で構いませんが」
「……生きて、いるのか?」
「そう見えますか? 野に打ち捨てられるよりはいいでしょうから取引に使うだけです」
平然とひどいことを口にするくせに、口調は穏やかなままだ。異常なほどに感情が滲んでいないその声音にぞっとする。
「てめぇ……っ!」
漸くまともに息ができるようになったらしいグラエム先輩が唸るように声をあげる。先輩にとっては、身内……しかも双子の姉弟だ。
心臓が妙に鼓動を主張し、がくがくと手足が震える。ここに来るまで私は、怖いとは思っていなかったはず。きっと勝つと、なのにこんなのって。
お嬢様落ち着いて、と隣にいるレイシスが小さな声で心配そうに声をかけてくれるが、到底落ち着けるような精神状態ではないと自覚している。視線の先で物のように担がれた少女の短い黒髪が風に揺れる様子は、まるで本当に人形のようだ。必死に目を凝らしても魔力の流れを感じない。
「さて、取引ですが。こちらからは最近の一連の事件の情報を提供しましょう。要求は、そちらの情報」
「情報交換か……何を望む?」
先にベリア様を返して欲しい。そうは思うが今は相手の言うとおりにするしかないのか。
一斉に攻撃をしかけたとして、ベリア様を助け出せるかどうかは怪しい。負ける負けないではなく、盾にされる可能性がある。
いくら生気がなくても魔力の流れを感じなくても、僅かであろうと「生きている」という希望を捨てきれない。今治療をすれば間に合うのではないか、そう考えるととても手が出せない。
この世界の医学的にも、今の状態で「死」を否定する条件はまだある。実際に手を当てて魔力の流れを感じないと、胸に手を当ててその鼓動を、口元の呼吸を調べないと、試せる方法すべて試さないと納得がいかない。
ああ、なぜ見つけた瞬間に助けにいかなかったんだろうと悔いても遅い。それにあの時点でレイシスが私を止めていたところをみるとおそらく、助けようと飛び込むことができないよう敵が既に見張っていたのだとはわかっている。それでも、胸を占めるのは後悔ばかりだ。
先生もベリア様の状態をわかっているからこそ、あれほど拳を握り締めて耐えているのだろう。
なんとかしないと、と頭が急速に働きだす。恐怖に縛られてる場合じゃない、落ち着け、アイラ・ベルティーニ! と気合を入れ周囲を見つめる。
ハルバート先輩達の援護の騎士は、合図をすれば来ることになっている。暗部もそのはず。だが合図をしてあいつを刺激したくないし、グーラーたちがいるということは迂闊な事はできない。獣は敏感だ、増援が来たとなればすぐに気づくだろう。
「こちらが欲しい情報は、王太子とフォルセ・ジェントリーの婚約者について」
「……は?」
先生がぽかんと口を開き、私たちも驚いて目を見開く。婚約者……?
少し考えて、質問の意図がわからず首を捻る。王子の婚約者が発表されなかったのは、ルブラの動きがあったせいではなかったのだろうか。
それに今日ここにおねえさまがいない時点で、呼び出した彼はおねえさまが王子の婚約者だと気づいているのでは? それにフォルに至っては婚約者はいない……筈、だ。
「何を言って……」
「それで、取引は応じる? 応じない?」
また一歩踏み出した相手の急かす言葉に、先生がちらりとフォルを見る。フォルが構わないといった様子で頷くと、先生は再び前を見据えた。
「わかった、答えられる範囲で」
「答えられる範囲、ね。上手いな、いいんだけど」
足を止めた男は相変わらずゆったりと応じる。ごくりと息を飲むと、ほとんど布に覆われた男の視線が一度こちらに向けられた気がした。
感情が篭らない声音は安定しない口調は何かを押さえつけているような、隠しているような。
ふと先ほどの「夏に出会ってから」というベリア様のことを語った言葉を思い出す。必死に考えて、それがいつだったかベリア様が言っていた男なのではないかと思い至り、はっとした。
確か、ベリア様は夏に行方不明になった私たちを助けようと王都を出て、素敵な男性に会ったと話していたはず。
それだ、と気づいて、必死にベリア様の話を思い出そうと唇をかみ締め考える。なんと言っていた? デューク殿下とは違う、ような話をしていた。何が……?
しかし集中して考えようにも、今まさにその思い出そうとしている男が目の前にいて、取引と言ってこちらから情報を引き出そうとしているのだ。私が考えている間にも、会話は進んでいってしまう。
「特別にこちらから話そう。さて、最近の件だが、少しこちらの組織の中で意見が対立していてね。あ、組織の事はどうせ調べているんだよね? そこまではサービスしない」
ぴりぴりとした緊張感の中、抑揚のない声が雪の中に響いていく。後ろに控えたグーラー達がまるで動く気配を見せず、私たちの目の前に広がる光景は異様だった。
「そんな中でリドットが勝手な行動をしたんだ。当然一部がお怒りになってしまって。しかも、せめて上手く終えればよかったものの失敗して君達に露見する始末だ。そうなれば、もうこちらも情報を流される前にやるしかなくてね」
「……仲間内で口封じの為にってことか。つまりリドットは」
「組織の仲間だった。もっとも、あそこの子息は何もしらないコドモだ。国に教育されて育つだろう次代相手では組織じゃ使えないし、もう侯爵家は用済みだね。娘は使い物にならないようだし」
「なっ」
使い物にならない、という言葉が突き刺さるように耳に届き、身体が震えた。
同時に、早くあんな男のそばからベリア様を助け出さないとと思うのに、見れば見る程隙がない男の様子に逆に気圧される。
そんな男から私たちを庇うように立つ先生の精神力に恐れ入る。ベリア様を見て先生だって動揺しないはずがないのに。
「フォル……ベリア様は」
そっとそばにいるフォルに小声で声をかける。
「生きていたとしてもあの状態が続くのは……」
同じく小声で返してくれたフォルの言葉に、同じ判断をしているのだと今回ばかりは悔しく思う。
「ま、そういうわけでああなった。アニー・ラモンについては、勝手をやったリドットが情報を入手していると思われる範囲を潰したくてね。何も関わってないようだから、悪いことをしたね?」
また、ちっとも悪いことと思っていない口振りで男は語る。その瞬間、それまで黙っていたガイアスが吼えるように叫んだ。
「待て。リドットと繋がりのある貴族なんて山ほどいるだろうに、何でアニー・ラモンだったんだ!?」
「……簡単だよ。こちらが潰したかったのは、君達につながる情報を与えていた協力者だ。リドットが敵対視していたのは君達の仲間。だけど、君達は危険だ。強いからね、学園の特殊科に関わる連中には下手に手を出すなと言っていた筈だったんだよ」
「は?」
「そういうこと。さて、そっちの情報を教えてもらおう。王太子の婚約者はここにいない彼女で決まりだね? じゃあ、フォルセ・ジェントリー、君婚約する予定は?」
思わぬ情報にこちらが驚いている間に強制的に質問の時間を打ち切られたようで、まだ聞きたい事はたくさんあるのに、と皆が躊躇う様子を見せた。が、男は左手に担いだベリア様を私たちに見せつけるようにして、急かす。
「早く。あまり時間がないんだ」
「……いない! 僕には婚約者はいないし現時点で候補もいない!」
「そう、わかった。王子も発表できないようだしね。どっちももたもたしてるようで何よりだよ」
「はぁ!? お前らが……っ!」
先生がぐっと拳を握り締め前に出る。しかしはっとその敵の手の中の彼女を思い出したのか、それより、と先生が言い手を伸ばしかけると、男はそれまで動かしていなかった右手をすっと上げた。その瞬間、どこからか剣が現れその手に収まる。
思わず「なんで」と声を出しかけて慌ててグリモワを手にした。情報交換と言っておいてやはりやる気か。
全員がほぼ同時に魔力を高めた瞬間、男が静かに告げる。
「では、取引が終わったということで立ち去らせてもらおう。ああ、この子は貰っていくよ、初めから渡すなんて約束はしていないし」
「ふざけんな!」
とうとうグラエム先輩が剣を抜き、そのまま風の力を借りて飛び出して行く。はっとしたガイアスがすぐに後を追い、レイシスがフォローに入るために詠唱を開始した。
もうこうなればやるしかない!




