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準備室で準備を終わらせ、ぎりぎりに教室に飛び込んだ私達が席につくとすぐ、教室に医療科の教師が現れた。
いつも通り穏やかな声で授業が始まり、普段通りに見えるのに、どこか違う教室内。
レディマリア様の家のことはもう噂になっているのだろうか。
この学園内では、緊急時以外は伝達魔法が使えない。それはある意味外部からの情報が遮断されていると言ってもいいが、使用人に朝一情報を貰っている貴族子息もいるだろうし、人の口に戸は立てられぬって言うしなぁ。
「今日は随分ぎりぎりだったのね、大丈夫?」
班の皆だけで準備室に移動すると、アニーがきょとんとした様子でそんな質問を私達に向けながら、薬の最終仕上げの為に手を動かしている。アニーはどうやら何も知らないらしい。
いつもは準備がある時は早めに来ているのだから、そう言われても仕方ない。
ちらりとトルド様を見ると、トルド様の方はなんだか真剣な表情で部屋の隅でフォルと話している。教室では何事もなかったように先生が授業を行っているが、先生はさすがに聞いているだろう。
授業開始前にちらちらと生徒達から感じた視線はいつものものなのかそうでないのか私には判断がつかなかった。それでも直接声は聞こえなかったから、まだあまり噂は立っていないのかもしれない。
「ごめんなさいアニー、遅くなって準備の負担をかけてしまって」
「こちらは大丈夫」
「私達も大丈夫ですわ、今は」
「今はって……ラチナ、なんか不吉な言い方しないで」
アニーがおねえさまの言葉に身震いしつつ、心配そうにしているのがわかる。が、私達が自ら情報を開示して噂を立てるわけにもいかない。
「不吉といえば、今日は寮が朝少し騒がしかったんです。何かあったのかしら」
「え」
私達は知らない寮の情報に目を丸くすると、苦笑したアニーが「詳しいことは何もわからないの、ごめんなさい」と小声で言う。
不安になるが、ここで動揺してはいけない、とおねえさまと一緒になんでもない風を装いながら必死に手を動かす。
話をしていたフォルとトルド様も参加し、薬は無事に調合を終えた。最近研究されている子供でも飲みやすいように改良中の解熱剤だ。この季節には重要なもの。あとは先生にチェックしてもらって、報告書を書いて……。
「あ」
ふと窓の外に目を向けると、ちらちらとまた雪が降り始めていた。
「また雪だ。これは積もるかな」
なんだか嫌そうなトルド様にフォルが「嫌いなの?」と尋ねると、トルド様がむっと口を尖らせる。
「雪は嫌いじゃないよ。ただ、冷えたせいか朝寮の入り口の前が広範囲で氷ってつるつるでさ。しかもその上に降った雪が少しだけ積もってたせいで気づかなくてね」
「……転んだんだ」
「まったく、あんなものは嫌がらせだよ! 薬の名前の一つか二つ飛んで行ったんじゃないかと思った。自分が医療科で学んでてよかったと思った瞬間だね、治癒魔法最高」
とんとんと軽く机を叩きながら力説しているトルド様がおどけて見せ、真剣に聞いていた皆が笑い出す。
「私は雪、好きですわ。小さい頃はよくおにいさまと雪だるまを作りました。大きな雪だるまがいい、なんて言って困らせてましたけれど」
「私も好きです。実家のラモンの領地にある湖が雪に彩られるのを見ると、寒いはずなのに心がほっと落ち着いて暖かい気持ちになるんですよ」
にこにことおねえさまとアニーが話し出す。そういえばアニーの領地には綺麗な湖があるんだっけ。うちの領地もすごい雪が積もるほうだけど、どちらかというと私達の住んでいた場所は豪雪なせいで彩られて美しい景色を地元住民がしっかり堪能できるか微妙だ。
「アイラは? 雪、好き?」
フォルに覗き込んで聞かれて、頷く。
「おいしそうだよね、雪」
「……その発想はなかったな」
なぜか若干頬を赤らめたフォルが目を逸らしつつ笑う。トルド様に「意外と色気より食い気だよね」と突っ込まれて、慌てて「綺麗ですもんね!」なんて付け加えても時既に遅しでさらに笑いを誘ってしまったけれど。
でも絶対、カキ氷を知っている人なら一度は雪にシロップをかけてみたいとか思った事、あるはず……ない? まあ、実際にやったらおなか壊しそうだけど。
それにやっぱ雪はマシュマロだしな、とか以前の夢ネタを思い出しながら机に報告書を広げる。
私達だけの準備室は、薬が無事できあがったこともあってか穏やかな雰囲気だった。
時折雑談が混じるものの、基本的に用紙にペンを走らせる音だけが室内を満たしていた。そんなところに僅かな乱れがあれば、もちろんすぐに気づく。……私は。
アルくん。
うろうろと飛び回るアルくんを見て目を細め、ちらりとアニーとトルド様を見る。二人は報告書に集中しているようだが、この距離ではおかしな動きをすればすぐに気づかれるだろう。
目だけでアルくんに合図すれば、アルくんは私にだけ聞こえる声で話し出す。
『レディマリアの件、紳士科と淑女科で話題になりはじめているよ』
その言葉に、やっぱり、と少しだけ目を伏せる。
アルくんの話では、寮ではなく王都内の別宅から通う生徒にリドット侯爵邸の近所に住む生徒がいたらしく、そこから話が広がり始めているらしい。
もうこうなってしまえば、噂はあっという間に広がるだろう。何せ相手は侯爵家、そして侯爵令嬢だ。
とりあえず、リドット家のことが広まったとしても、重要なのは『なぜ捕まったのか』『誰が捕まえたのか』であろう。
表向きは王子がうまくやってくれるはず。私やグラエム先輩が動いたとばれなければいい。大丈夫、昨日の男は捕まえているし、私達はあと朗報を待つだけでいいはず。
「……アイラ?」
そっと小声でフォルに声をかけられて、見つめられる。その銀の瞳がまるで見透かしているようで……いや、きっと気づいてる。
フォルは私がぼんやりしている時は、精霊と話している時だときっともう気づいている。
「……、フォル、これなんだけど」
少し視線を巡らせ、適当に調合の際に失敗した経験を書き出した文章を二人で覗き込みながら、アルくんがいる、とごくごく小さな声で告げる。
頷いたフォルは、白紙の部分を適当に指差しながら「問題ある?」と聞き返してきた。
「ううん。大丈夫」
「そっか」
短く会話して二人の距離を戻し、またペンを走らせる。
……そういえば、この世界『鉛筆』ってないな。インクが多いかも。魔力文字を書くためのやわらかい魔力を含んだ鉱石のペンとかはあるけれど、消しゴムで消して消える筆記用具がない。あ、そもそも消しゴムもない。あればこっそり筆談とか楽なのに。
さすがの私も鉛筆の作り方なんて知らないし。お父様にこんど消えるペンの相談でもしてみようかなぁ。
「終わったー!」
「さて、戻ろうか」
授業が終わると同時に席を立った私達は、アニーとトルド様にちょっと急ぐんだ、と声をかけて先生に書類を提出し、足早に医療科の校舎を出る。
今日は昼食も、レミリアたちが用意しておいてくれる予定だ。まっすぐ屋敷に戻らないと。そういえば朝先生にもらった石の精霊についても、ジェダイに後で何か気づくことはないか聞いてみないと……うーん、忙しい。
ぱたぱたと屋敷に戻り、無事にいつもの部屋にたどり着くと、どっと疲れてソファに座りこんだ。やっぱり、気を張っていたようだ。
すぐに騎士科の四人も戻ってきて、今日の午前の情報交換をする。
「アルくんが、紳士科と淑女科でレディマリア様のことが噂になり始めてるって言ってました。医療科ではよくわからなかったけど、校舎が一緒だから侍女科に広まるのも時間の問題かもしれません」
そう伝えると、はっと目を見開いた王子がアルくんを呼ぶ。
「アル、ちょっと付き合え。話を聞かせろ」
そう言って退室した王子を目で追っていると、入れ替わりにアーチボルド先生がやってきて。
「お前ら食ったら騎士科の稽古場一部屋借りたから移動しろよ」
「ということは、午後は魔法練習か何かですか?」
顔をあげたルセナが先生に尋ねると、先生はにやりと笑う。
「昨日の話は聞いた。鍛えなおしてやる」
先生の視線が向けられた先にいるのは、私と……レイシス。
「えっ」
「……はい」
二人で驚きつつも顔を見合わせ、なんだかいやな予感に口にしたからあげを租借する前に飲み込みかけ、咳き込む。
驚いたレイシスが慌てたように私の背に手を当て、しかし迷ったように少し力が抜けた。が、すぐに思い直したのか暖かな手がさすってくれる。
「ありがとレイシス」
「いえ。……良く噛んでから食べてくださいね?」
「なんか子供に戻った気分」
差し出されたお茶を飲み、ほっとする。何も言わずに王子と戻ってきたアルくんが猫の姿で私の膝の上に乗ってきた。なんだか呆れたような視線を向けてきている気がするが、とりあえず目の前の食事を済ませようと次は慎重にから揚げを口に入れる。
じゅわりと肉汁が口に広がり、この味はきっと私が昔教えたとおり再現してくれるレミリアのお手製だな、とぼんやりと考えて、私は午後の授業の為にしっかりと食事を完食した。




