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「さむ……」
思わず口からそんな言葉が零れ、手を擦り合わせる。
朝は随分と冷えたようで、気づけば景色もすっかり秋に変わっているなと気づく。木々を彩る葉は黄色や赤に染まり、かさかさと乾いた音を立てる。空気は冷たく、焦げ付くような日差しは懐かしいとすら感じた。
今はアルくんがお手伝いしてまわっているらしいが、そろそろ本格的に植物の精霊たちで冬越えがつらそうな子たちが助けを求めにくるかもしれない。
ポジー少年が襲われたあの日から忙しくしていたせいか、日々移り行く景色にまで気が回らなかったようだ。
「大丈夫ですか? お嬢様」
レイシスが近寄ると、寒さが僅かに和らいだ。恐らく風を抑えてくれたのだろう。まったくそんな素振りは見えなかったけれど。
相変わらず、レイシスの風魔法はとても穏やかで繊細だ。
「確かに、ずいぶん冷えたな」
「なんか夏を過ごした気がしねぇ」
「それは王都にいなかったからじゃ」
皆もそんな話をしながら、身を震わせたり空を仰いだり。授業の前に冷たさで目は冴えた気がするが、やる気はダウンだ。こんな日は部屋でこたつに入ってみかんたべたい。こたつ、この世界で見たことないけど。
あれから、私とレイシスは騎士に当時の事情を少し聞かれたりしたが、特に変わりのない日々を送っている。表面上は。
もちろんポジー少年から聞いた薬の件を放置はできず、騎士科組はさりげなく使用者がいないか兵科の補習でチェックしたり噂を調べ、私達医療科組は薬の情報をできるだけ集める為に裏で奔走している。もっとも、どちらもあまりいい情報を得てはいないのだけど。
わかったのは、どうやらポジー少年を襲ったあの若い男が、売人であった可能性が高いという事だ。あの後ポジー少年に事情を尋ねに来た騎士の前で、彼は「はじめに、妙な事を聞かれた」と言っていたのだ。
『お前は何の酒が好きだ?』
そう聞かれたらしいポジー少年は、いきなりの質問につい「お酒は苦手」と答えたらしいが、一緒にそれを聞いていた私とレイシスはそれが合言葉だったのでは、と判断した。
男に関しては王子が手を回し、捕まえた罪状以外の余罪を調べさせているらしいが何も出てこないらしい。本人も、ポジー少年のような人間が裏路地に迷い込んでいるのは珍しくてからかったらやりすぎた、などと証言しているらしく進展はなしだ。
もっとも、もともと喧嘩やらなんやら騒がせていた奴らしく今はまだ拘束しているらしいが、長くは持たないだろうし。何か進展があればいいのだけど。
「じゃあ、また午後に」
ガイアス達と手を振って別れ、おねえさまとフォルと一緒に医療科の校舎へと向かう。
少し早いせいか同じく校舎に向かう生徒は少ないが、今日は大事な実験の準備があるのだ。気を引き締めてかからないと、と手順を頭の中で何度も確認する。
今日の実験は体内に回りきった毒の解毒作業である。しかも、本当に人体を使った実験だ。といっても、実際に体内に悪い毒を回りきった状態にするわけではなく、特殊な実験用のアルコールを使う。特に害はないが、今日そのアルコールを摂取する役目はトルド様だ。
二年にあがってからは解毒の練習は何度もしたし、調べつくした。大丈夫な、筈。
「なんだか今日は緊張しますわ。毒抜き、苦手ですのに」
「解毒は難しいよね」
おねえさまとフォルの会話に頷きながら、教室へと入る。解毒の授業は私達の班だけなので他の生徒のいる教室とは違い、人がおらずシンとしている。
そういえば、とふと以前のことを思い出す。
ルソードの芽を採りに行く任務で、罠ではないかと疑っていたのに見事に誘拐されるという失態を犯してしまったあの時。
魔力分解の毒に侵されたフォルを思い出し、教室内は暖かい筈なのに少しだけ体が冷えた。あの時は、本当に怖かった。目の前で弱っていくフォルに対し、道具も薬もないからと解毒ができなかったのだ。
それ以前にもレイシスが魔物の血の猛毒を浴びたことがあったが、あれはまだ手の打ちようがあった。毒の種類もわかっていたし、魔物の血液の毒に関する知識なんて基礎的なものからびっくりするほど詳しい内容まで、教科書を開けばすぐ出てくる。
だがフォルが毒に侵されたあの時は、簡単な解毒魔法は使えたが、既にかなり回ってしまっていた新種の毒に太刀打ちできなかった。実力不足だったのだ。
犯人は、ルブラ。
ぞくりと肌が粟立ち、ほぼ無意識に腕をさする。そういえばあの時の敵も、魔力を増幅させる薬を使っていたんだったか。イムス家の……。
「アイラ? 教室、まだ寒い?」
フォルに覗き込まれて、慌てて首を振る。思い出していたせいか、急激にあの時の赤い瞳のフォルを思い出して、なぜか頬に熱が集まった。そういえばあの時初めて血をあげたんだっけ、……フォルの気持ちも考えずに。
すぐになんだか落ち込んでしまったが、ふふっと小さな笑い声が聞こえて、慌てて顔をあげる。
「アイラ、百面相」
「えっ」
「可愛いけれど、どうしたの?」
直球でそんなことを言われて、目を瞬くが言葉が出ずに固まってしまう。そこで「おーい」と割り込む声が聞こえた。
「フォルセ、君、こんなところで口説くなよ。教室入りにくい」
「ああ、おはようトルド」
「教室の入り口で聞いていたのならいいではありませんか。私なんて、真横だったのですけれど」
アニーと一緒にやってきたらしいトルド様が教室の入り口で呆れたような声をかけながら入ってくるのを見て、おねえさままでからかってくる。慌てて挨拶を口にするが、声がひっくり返った。だって、トルド様の後ろを歩くアニーが顔が真っ赤なのだ。……聞かれてた。
くすくすと隣で笑うおねえさまの声で、むっと口を尖らせる。たぶん、顔は、アニーにつられて真っ赤なのだろうけど。
小さく誰にも聞こえないように、フォルの馬鹿、と照れ隠しで呟けば、「うん、ごめんね?」とちっとも悪いと思っていないだろう顔でフォルが言う。……こっちも聞かれてたか。
なんか最近フォルが意地悪だよおかーさん、と頭で考えながら授業の準備をしようと立ち上がると、すっと屈んだフォルが耳元で小さく呟く。
「もう毒にやられたりしないから」
「え」
「解毒の話してるとき、僕のことずーっと見てたの気づいてなかった?」
くすくすと笑われて、私は今度こそ自覚を持って顔を熱くさせた。
「アイラ様、すごいね」
目を丸くしたトルド様に、苦笑を返す。私的にはもう少し早くできれば、とあまり納得していないけれど。
「たぶん、一番はやくて丁寧だったと思う。フォルもはやかったけど、なんていうかアイラ様の魔力は患者を安心させてくれるな。安定率が高いのかも」
「よかった。頑張った甲斐があった」
ほっとして、肩の力を抜く。チャレンジしたのは私が最後だったが、どうやら出来はよかったらしい。若干べた褒めすぎる気がして落ち着かないが、納得できない部分はまたあとで練習しよう。
「アイラ、解毒はすごい熱心に勉強していましたものね」
感心したようなアニーの言葉を聞いてなんとなく誤魔化したくなり、どの授業も熱心だよ!? と叫んだところでばっちりとフォルと目があってしまった。うう、気まずい。
「そうなんだ。僕ももっと練習しないとな」
優しく微笑むフォルの顔から目を逸らし、先生に提出する書類を書く作業に没頭する。
ええっと、チェック項目……毒の種類の特定、体内を回る速度から症状……ああ、落ち着かない!
「……アイラ?」
少し不思議そうなおねえさまと目が合って、私はとりあえず「集中したら疲れちゃった」とその場を誤魔化す。が、次の瞬間私の身体はぴたりと動きを止めることになった。
「アイラ様なら、三年にあがったらすぐ専属医の話とかきそうだね。専属医なら卒業してもすぐにまた勉強漬けだから研究に没頭できるかも」
「……え?」
僕も研究職につけるように頑張らないと、とトルド様はすぐに教科書に目を落としてしまったが、私はそのまま動けなかった。
専属医……?
フォルが、無言で私を覗き込む。心配そうに寄せられる眉に、大丈夫だと言いかけた唇が戦慄いて音にならない息を漏らす。
私は、そんなものになるつもりはない。
しかし現実問題、それを考えなければならない時期はもうすぐそこまで来ているのだ。
ふっと、おじさんの顔が過ぎる。
クレイ伯父様。与えられるべき知識を受け取る事よりも、民間医であることを選んだ……私の師匠とも言うべきお医者様だ。今では医者の落ち零れなんて噂されているが、学園に入る前にもかなりたくさんのことを教えてもらった、とても優秀なお医者様だと思う。
王子とフォルは、この専属医という現状ひどい制度と成り下がってしまっている決まりを、きっと変えてくれる。でもそれより先に私は選ばなければならないのかも。
賢いのは、王子とフォルを信じて協力し、変化が訪れるまで専属医でいることだろうか。そうでなければ、特殊科でありながら医療を極めている生徒が国を裏切ったなどとおかしな噂をたてられて、私の立場はすぐに悪いものになるかもしれない。
……でもその為に、私は目の前に瀕死の平民である患者と軽症の貴族がいたら、迷わず貴族に魔力を使うだろうか。……否、だろう。
私が目指したのは、そんなものじゃない。……なら、私は。
「頑張ろうね、フォル」
「……もちろん」
ふわりと微笑むフォルに、しかし私は具体的にどうすべきか悩んで、手を止めたのであった。




