(葉月桃香から見た、冷泉院桜子)
「ちょっと待って、下まで一緒に行こう」
桃香は呼びかけてから、桜子を追って廊下に出たのだが、そこに彼女の姿は無かった。
「あれ? 桜子……?」
走って階段まで確認するけどやはり居ない。
先に帰ってしまったようだ。
「大丈夫なのかなぁ……」
不安になった桃香は思わず口に出してしまった。
冷泉院桜子とは今日知り合ったばかりだ。
だけど驚くぐらいに危なっかしいので、目を離すと不安になってしまう。
電車の中でシンに抱き上げられた時、尻を捕まれてたのにまるで無反応だったし、保健室で寝ている時、接近した空が腰の上に手をやってたのにこちらも完全に気にしたそぶりを見せて無かった。
男に対する警戒心が全く感じられないのだ。あれではまるで幼稚園児か保育園児だ。
歩く時だって、今にもスカートが捲れ上がってしまいそうな大股で、見てて気が気じゃない。
あんな無防備でセクハラされてもセクハラだと気がつけないような子では、いつ危険な目にあってもおかしくない。
それに、なんだか、行動が支離滅裂なのも気になる。
突然「嫌い」と言い出されたときは心底驚いた。平気なふりして切り抜けたけど、かなり傷ついた。
なぜあんな事を言い出したのか謎すぎる。
桜子に対しておせっかいな真似をしている自覚はあった。
本気で嫌われているなら、素直に受け止めて自分の振る舞いを正すだけだが、どう見ても桜子が自分を嫌って居るとは思えない。
「何か訳有りなんだろうけど……」
本人が話してくれるまで待つべきだろう。
それにしても小さくて可愛い子だ。
時折思い出したかのように目尻をきつく吊り上げるけど、桜子は大抵、困ったような、戸惑ったような、思わず抱き締めたくなってしまう心細げな顔をしている。
笑うときも、「この子の味方は私しかいないんじゃないか」と錯覚させるような、全開の笑顔で微笑むから堪らない。
ジュースとお菓子を渡したときの嬉しそうな顔ったら無かった。写真に収めて飾っておきたいぐらいだ。
女の自分でさえ猫可愛がりしたくなるんだから男共など一溜まりもないに違いない。
「桃香、桜は?」
聞きなれた声に振り返る。銀色の髪と赤目。そして女性じみた風貌の義弟だ。
「帰っちゃったよ。桜子に構わないでって言ったでしょ」
「友達になる、だけ」
桃香は目を細くして同じ年の義弟を見やった。
両親が再婚してまだ三ヶ月。この義弟と同じ屋根の下で暮らし初めたのも同時期だ。
さして人となりを知っているわけではなかったが、何となく、きな臭い男だ。
女の子と言っても通用するような可愛らしい風貌で、生まれは日本だが母親の仕事の都合で海外を転々と移住しつつ育ったので、子供のような片言で話す。
容姿もあいまって、懸命に単語を綴る様子が可愛くさえ写る。だけどどうにも、油断ならない気がする。
そもそも入学の代表に選ばれるのは入試の成績がもっとも優秀な生徒だ。
もちろん国語の成績だって高くないと選ばれない。
筆記で点数の取れる人間が、日常会話が不自由だとは少々考え難い。日常会話を片言に喋るのは演技、もしくは面倒くさいからではないだろうか。
「あれ? 桜子ちゃんは?」
「もう帰ったわ」
桜子の事を聞いたのは桃香の幼馴染でこの学校の生徒会長でもある男、神崎シンだ。
「そうか……。あの子、危なっかしいから送っていこうと思ったんだけどな……」
「抱き上げたアンタも充分危ないわよ」
「いやー、まさかあそこまで無抵抗だとは思わなかったんだもん。お兄さんもびっくりしちゃったよ。……連絡先聞いたか?」
「まだ。聞きそびれちゃって」
「早めに交換しとけよ。なんかあった時すぐお前に連絡できるようにさ」
「言われなくても判ってるわよ」
唐突に、シンが空の頭にチョップを落とした。
「い!」と空が悲鳴を呑む。
「なに、する」
「お前、新入生挨拶ぶっ千切って、しかも先生の呼び出しからも逃げただろ。入学早々目ェ付けられてどうするんだ。ほら、生徒指導室行くぞ」
空は牙を剥く様な表情でシンを睨んでいたが、シンの視線が逸れた途端に横面目掛けたハイキックを繰り出した。
空の身長は165程度なのに、180のシンの顔に届く高い蹴りだったが――。
――――バン!
死角から放ったはずの攻撃をシンの掌に止められてしまう。
「う……」
「いきなり蹴りはひでーんじゃねーの? 足癖悪ぃな全く……」
「嫌だ、離せ。助けて、桃香!」
シンに腕を引かれ、踏ん張って抵抗しつつ助けを求めてくる義弟に、桃香は首を振った。
「お説教食らってきなさい。保健室に運ぶって言ってくれた先生を振り切って桜子を保健室まで連れて行った上、保健室の柱にしがみ付いて戻ろうとしなかったんでしょ? あんたがそうやって抵抗してる間、ずーっと、私達は起立で待たされてたのよ。自業自得」
義姉の助けが無いと悟り、空は益々腰を落として両足で踏ん張った。
「離せ、でか男」
「いいからほら、悪いこと言わねーからお兄さんの言うこと聞きなさいって。駄々っ子かよお前は」
「離せ!」
「あーもう面倒くせぇな」
シンは銀髪の頭を鷲掴みにすると、ゴッと柱に叩きつけ脳震盪起こさせてからズルズルと引っ張って行った。
「お手柔らかに頼むわよ。そんなでも私の義弟なんだから」
「ならちゃんと躾けとけよ」
疲れた声を出す背中に苦笑して、桃香もまた、下校するために階段へ向かった。