少年の過去と赤毛の青年との邂逅
俺の成長環境はとても正常なものとは言えなかったのが正直なところである。いや、正しくは、本来は正常なもの、であったはずなのだ。
俺には面倒見のいい歳の離れた姉がいた。美しく優しい母がいた。働き者で努力を忘れない父がいた。どちらかといえば裕福な家に育った俺は、幸せなこどもだった。そう、俺が七歳になるまでは。
俺が小学校にあがったとき、西方の大国で大不況がおきた。その煽りは俺の住む国にも及び、たくさんの会社が倒産した。父親の会社も、倒産した。
父は荒れた。あんなに努力を忘れなかった父はそれまでの貯金を使いギャンブルとタバコと酒に溺れるようになった。お金が尽きると借金をし始めた。そうして膨らんだ借金に精神が追いやられはじめると、そのぶんの鬱憤はすべて俺達子供にぶつけられはじめた。
殴る蹴るだけならまだよかった。包丁で切られたことも、刺されたこともあった。焼いたり、傷口をえぐることもされた。俺はただただ、苦痛と恐怖のみを与え続けられた。母は俺を庇って、あらんかぎりの暴力を受けていた。姉だけは父親に表面的には甘やかされていたが、俺は知っている。姉は、深夜、父親に親子ではやってはならないことを一方的にぶつけられるようにその身に受けていた。……母親はそのことを知らなかった。
やがて金を貸してくれる金融機関もなくなると、父はとうとう自棄を起こした。家族全員を巻き込んだ無理心中を図ろうとした。自宅に火を放ったのだ。思い出のつまった我が家が焼け落ちるさまは今でも、いやというほどに覚えている。煙にやられ逃げようとした俺を見た父は、俺の心臓を目掛けナイフを振り下ろした。どすん、という衝撃が走った。しかし、痛みはなく。見上げると、母が、俺を庇うようにして覆いかぶさっていたのだった。母は、ごめんね、と薄く笑った。その背中には、ナイフが深々と突き刺さっていた。
父は舌打ちをして母の体からナイフを抜き、それから何度か刺し直したようだった。やがて、いよいよ俺に向かってそれを振り下ろした。ああ、死んだ、ただの感想のように俺は思った。恐怖はすでに、一切感じることはなかった。――しかし、ナイフが俺の体を引き裂くことはなかった。父は振りかぶった姿勢のまま、一瞬ぴたりと固まり、そしてナイフを取り落とすと、前に倒れた。ドサ、とせつない音を立てた。その背後には、灰皿を手にした姉が立っていた。――煙の頭に回っていた俺の意識は、そこで完全に暗転した。
「……助けられませんでした。申し訳ありません」
「いいえ……秋人だけでも、助けていただいて、感謝しております」
「……そうですか。それでは彼の扶養は……」
「今、親戚で話し合っている最中です。ご心配なさらず……」
目を覚ますと、俺は病院のベッドの上に寝ていた。体を動かそうとすると、ひりひりとした痛みが身を襲った。夢だったのかもしれないと思った。家が燃え。目の前で両親が倒れ。夢としか思えなかった。
「あ、……! おきた! おきましたよ!」
横から、声が聞こえた。そちらを見ると、何歳か年上の、小さな男の子が居た。
その向こうには、行事の時に見た親戚の人が数人。そして――ひとり、見覚えの無い男。
親戚のお姉さんが俺に涙ながらに話しかける。
「秋人ちゃん! よかった……みんな心配してたのよ。どこか痛いところはある?」
「……え? あ、あの」
「どうしたの、秋人ちゃん」
「……みんなは? 父さんと、母さん、姉さん……」
ぎくり、と親戚の人々が動きを止めた。
そして言いづらそうに誰ともなく呟くのだ。
「……みんなね、遠いところに行ったのよ。大丈夫よ。秋人ちゃんは私達と一緒に……」
親戚の俺を気遣う声に、ああ、そうかと悟る。
親戚が撤収した後、あの知らない子供と男が残った。人形のようにかっこいい男だ、と思った。……人形とは、かっこいいんだろうか。その男が、笑いも怒りもしていなかったので、同情をしている様子すらなかったので。──そこに表情などありはしなかったので、人形のようだ、という印象が強かったのだろう。
男は、俺を炎から助け出してくれたらしい。消防隊よりもはやく、誰よりもはやく俺を助けてくれたらしい。
「……あの」
俺は男に話しかけた。
「俺の家族は。死んだんですよね」
男は明後日の方向を向いたまま、ゆっくりと頷いた。俺は下唇を噛みしめて、吐き捨てるように言った。
「……優しいお母さんでした。仲のいいお姉ちゃんでした。……気さくで面白いお父さんでした」
俺は俯いて恨み言を言う。
「……貴方がもっとはやく助けにきてくれてたらみんな助かったかもしれないのに」
当然。彼が悪いのでは無いというのはさすがに分かっていた。そのままでは、俺も一緒に死んでいただろうし、自分だけでも助けてくれたというのだから彼を責める道理は自分にはない。……そもそも、彼らは煙にいぶされて死んだわけでもなければ、火に焼かれて死んだわけでもないのだから、瀬のない話だ。しかし、俺の口は止まらなかった。そして、彼はそれを静かに聞いた。口をはさむ気配すら見せず、ただ聞いた。今思えば、そいつは、けっこう優しい男なのかもしれない。……それも錯覚かもしれない。よくわからない。
「確かに俺、お父さんは怖かった。最近、ずっと……でも、昔は優しくて真面目な……」
下唇を噛んだ。血が滲んだ、鉄の味が口に広がる。――ああ、なんて、悲しいんだ!
「……なんで俺だけ助けたんですか。いっそ俺も殺してくれたらよかったのに! お父さんもお母さんもお姉ちゃんももういない。もう、俺しかいない! ……こんなの、もう死んだ方がましだ!」
俺のベッドによりかかった少年が居心地悪そうに身をよじった。
静寂が流れる。
怒りと悲しみに支配された俺は、じっと男を睨んでいた。
やがて男はゆらりと立ち上がり、一言。
「じゃあ、お前も死ぬか?」
どこからともなくナイフを取り出し。俺の首筋にピタリとくっつけて言うのだ。
自分をベッド脇から観察していた少年が動揺したように目を丸くするのにも、まったく動じる気配がない。
「死んだ方がましだと言ったな。お前が本当にそう思ってるなら、今ここでお前を殺すこともできる。どうする?」
さらり、と。まるで日常会話でもするかのごとく、男はただただ、『提案』をしてくる。俺はごくりと唾を飲み込んだ。不思議と、怖くは、なかった。でも、悲しかった。死別したのは悲しいが、自分が死ぬのもまた、悲しかった。しばらくそのままの状態が続き、ふいに男がナイフを下ろした。
「……なんてな、嘘だよ。自分で助けた命、自分で消してどうすんだって、なぁ」
俺は目を瞬かせた。彼の言葉が、殺すといったその目が、嘘だとは思えなかったのだ。きっと俺が死にたいと思えば彼は躊躇いなく俺を殺したろう――そう思うと、なんなんだこのひと、という思いが頭に過ぎる。その金色の双眸と目が合った。病院の、白い灯りに照らされている瞳は言いようもなく昏かったのを覚えている。
「……何か、用事があるんでは?」
なんとなく聞いてみると、ふと男は、ああ、と声を上げた。
「そうそう、それ」
男は思い出したようにぽんと手を叩く。
「お前、魔学って知ってるよな」
魔学。学校で習った概念の名称だ。実在するのは常識だ。とはいえ、それは科学が発展するに従って派生した大きな科学技術のある一つのグループである、という話なのだが。やってることがゲームの魔法とかに近いので、魔学、と呼ばれている。……見たことはない。周りに使える人はいなかった。そういう体だからだ。素質がある人間にしか魔学は使えない。俺も素質はないと言う話だ。
そういうと、彼はそうかと頷き、そして、残念だがと呟く。
「お前、たぶん魔学使えるようになってるから」
「は?」
「詳しいことは言えないが、まあ多分……ごめんな。俺が助けたから」
「え?」
俺の声を聞き流し、一年後またくるよと言い捨て、部屋から出ていった。部屋の外から、思い出したような、伊織、という声が聞こえると、少年があわててお辞儀をしてついていった。
ひとり残った俺は。──色々なことに混乱してしまって、再び意識を手放してしまった。
後日、家族の葬儀が営まれた。両親だけの葬儀であった。姉はどうしたのかと葬儀を執り行った親戚に問い詰めてみれば、姉は遺体は疎か、遺骨さえ見つからず、『行方不明』とされたらしかった。そういえば、なぜあの男は姉を助けなかったのだろうか、あの時点では、別に怪我もしていなかったはずなのに。いや、むしろ……父親を殺したのは。……やめておこう。――来年本当にあの人が来たら聞こう。
やがて俺の引き取り手が決まった。引き取り手の親戚の人達は女の子と男の子を二人、子に持つ若い夫婦で、よそ者の俺を優しく迎え入れてくれた。すごくよくしてくれた。漫画では親戚にひきとられた子がいやがらせを受けるのが常套だが、そんなことはなかった。本当の父や母と遜色ないくらいに、かわいがって、愛してくれた。
新しい家で、新しい苗字で、新しい人生が始まった。
それが俺の人となりだ。
そして数年後、気をつけろといった男の言葉の意味を知ることになるのだった。
……まさか見知らぬ少女に命を狙われるとはな。
読んでくださってありがとうございました。
誤字脱字がございましたら教えてくだされば幸いです。