父を亡くした令嬢は継母に辺境の残虐伯へ嫁がされました――どうしてあなたは毎晩、寝室の扉を叩いて「入っていいか」と聞くのですか?
トントン……トン
規則正しい靴音が止まると、硬質な音が響く。
私の心臓は飛び上がる。
「――入っていいですか?」
低い声がする。
「はい、どうぞ――オーディン様。」
静かに寝室の扉が開くと、暗い廊下から背の高い精悍な人影。
私はまともに顔も上げられない。
「すぐに出ます。」
そう言うと、私にゆっくりと近付いてくる。
ツンと薬品臭が漂う。
私は、差し出された手にそっと自分の手を乗せる。
ようやく見上げたその人の顔は、
――包帯でグルグル巻きにされていた。
***
私、フリッグが、首都から二つ山を越え三つの大河を渡った先にあるこのノルドに来たのは七日前。
この男性、オーディン・エーシル様に嫁いだのだ。
――継母による事実上の「追い出し」である。
実家のヴァンヴィーク侯爵家は五年前に父が死んでから、
継母フレイヤが取り仕切り、まさにやりたい放題だった。
義弟ヨルドと自分のために財産を使い込み、
ヨルドの一つ上の私には陰湿な嫌がらせをし、
十七歳になったヨルドに富裕な伯爵令嬢との縁談が持ち上がった瞬間、
どこから持ってきたのか、
「残虐伯」と恐れられる辺境伯との縁談をそそくさと成立させた。
十八歳になる姉が屋敷に留まっていること自体が、
ヨルドの縁談の邪魔になると思ったのだ。
実際、私が母の形見の宝石を荷物に入れようとしたら、
「宝石を持ち出す盗っ人!」
「お前がいるとヨルドが不幸になる!」
「一秒でも早く目の前から消えろ!」
と大声で騒ぎ立てた。
私は怒りの余り自分の顔から血の気が引いたが、
自分の人生上、最も美しいカーテシーを残して、胸を張って馬車に乗った。
御者しかいない、粗末な馬車に。
***
長い旅の末に到着したエーシル家の屋敷は、予想を遥かに超えて勇壮な造りだった。
遠く丘の上に見えたときはこんなところに隣国の王城があると思ったくらいだ。
しかし、屋敷に到着すると、誰の出迎えもなかった。
私は荷物一つを抱えて降り立ち、
馬車はさっさと首都に戻って行った。
守衛に「届け物か?」と聞かれたとき、
――仮にも侯爵令嬢である自分が、
どうしてこんな運命になったのか、
継母の罵詈雑言に耐えて胸を張ったことも、
馬車の固い椅子に耐えたことも、
首都から出る不安も、
本当は、残虐伯と呼ばれる方であろうと、
自分の唯一人の旦那様になる人に会えることを、
心のどこかでワクワクしていたことも、
全てが音を立てて崩れ落ち、
私は屋敷に背を向けると、
必死に坂道を駆け下りたのだった。
***
どこまで走ったのか、歩いては走り、走っては止まり、
顔も服も、涙と土でぐちゃぐちゃだった。
今、私を侯爵令嬢だと、
継母に揉み消されたが、一度は王太子との縁談話もあった令嬢だと、
誰が分かるだろうか。
とうとう私は、しゃくり上げて泣き出した。
噛みしめた唇から、泣き声が止まらない。
私はこのまま泣いていたら、きっと天の御使いが、
お母様の下に連れて行ってくれると思った。
「お母様……お母様……」
そのとき、自分でも思いがけない名前――まだ見ぬ旦那様の名前が転がり出た。
「オーディン様……」
「はい。」
そのまま数秒泣き続けたが、カサリと枯れ草の音がした瞬間、
私は泣くのをやめた。
「失礼。貴女はフリッグ・ヴァンヴィーク嬢ですか?」
「は……はい。」
恐る恐る顔を上げた瞬間に、私は目を見開いて固まった。
天の御使いではなく、
顔も身体も包帯が巻かれ、ところどころ血が滲んでいる地獄の亡霊が目の前にいたのだ。
しかし、私の心はかえって鎮まった。
今のこの悲惨な状況からすれば、
迎えをよこしてくれた地獄の方に、まだしも自分の居場所があると思えたのだ。
私は急いで涙を拭くと、立ち上がってお辞儀をした。
「ごきげんよう。フリッグ・ヴァンヴィークでございます。」
「ああ――よかった。」
地獄の亡霊は、低く、よく通る声で言った。
「私はオーディン・エーシル。貴女を迎えに参りました。」
私はそのまま気を失ってしまった。
***
「一か月先ではなかったのか?」
「確実に一か月先の日程でした。ご覧ください。」
「本当だな……急な敵襲で私も留守にしていたし……可哀そうなことをした。」
「も、も、も、申し訳、ご、ございま、せん!!!」
『せん!!!』
「泣くな、泣くな!男が三人で泣くな!」
「まだ泣いております!七……九人……」
「数えるな!――分かった、分かったから。」
ぼんやりとした頭に入って来る声は、
残虐伯というには穏やか過ぎるし、
貴公子というには明瞭過ぎる。
私が身動きをすると、「大変だ!大変だ!」と走り回る音がして、
すぐに部屋が静かになった。
また世界に取り残されたと思った瞬間、気まずそうな咳払いが聞こえた。
「お目覚めですか?」
急いで上体を起こすと、ベッドサイドの椅子に地獄の亡霊……ではない。
オーディン様が腰かけていた。
しかし、今はスカーフで顔の大半を覆っていて、
包帯や血の跡が見えなくなっている。
その心地よい声で、オーディン様と分かったのだ。
「はい。私は……
こちらに嫁ぐことで……間違いないでしょうか?」
「ええ、もちろんです。」
慌てたようにオーディン様は私の手をとる。
包帯を巻かれた手からはツンと薬品の匂いがする。
社交界では、様々な貴公子に手を取られてダンスをする機会があった。
でも、こんなにもゴツゴツした男性の手は触ったことがない。
この手が残虐に人を血祭りに上げる。
首都では魔王のように恐れられている。
でも、そんなことなどどうでもいい。
この手は、私の旦那様になる方の手なのだ。
私はただただ恥ずかしく、どうしていいか分からなかったが、
とにかく、今心にあることを絞り出した。
「私の手を乗せて、お手は痛くはないのでしょうか。」
「手?」
一瞬、包帯の奥から灰色の瞳を見開いて私を見つめたが、
その瞳の光はおかしそうに煌めいた。
「こんなもの痛くも痒くもありません。
素振りをすれば治りますよ。」
私は心底驚く。
「まあ!かえってひどくなりますわ!
――あら、違うのでしょうか、強い方は……」
「強いかどうかは横に置いて、ひどくなんかなりませんよ。」
オーディン様はバンバンと思い切り自分の包帯の腕を叩く。
私が驚いてオーディン様の腕を守ろうとしたため、オーディン様の手が私の手にパァンと思い切り当たってしまった。
「ああ、大丈夫ですか!?」
その瞬間に泣いていた衛兵たちが入って来て、
「オーディン様、何をなさるんです!」
と猛然とオーディン様に飛び掛かり、
「違う!違う!おい!!」
「違います!私が!」
と叫ぶオーディン様と私の声で部屋中大騒ぎとなった。
***
その夜。
トントン……トン
規則正しい靴音が止まると、寝室の扉が叩かれる。
「――入っていいですか?」
私は緊張と不安で、踏みしめている床が波立っているように思う。
結婚式はまだだけど、
間違いなく嫁いできたわけで、今夜から――?と心が忙しかったのだ。
私が扉を開けると、薄暗い廊下に立ったまま、手に持ったガラスの器を私に見せる。
「これは、異国のお菓子なのです。一緒にいかがですか。」
それから、寝室のソファで異国の話を聞いた。
どうして、自分が私を迎えられなかったのか――その経緯も。
改めて近くで見ると、オーディン様の大きさに驚く。
首都の貴公子たちも剣技を習得して鍛えていたと思うが、
全く質が違うように思う。
戦闘のために鍛え、戦闘の中で作り上げられたからなのか……
野性の猛獣のように分厚くて、鋭い。
その方が、大きな手の中に、小さなガラスの器を持って、
遠慮がちに私にお菓子を勧めてくれている。
私はくすぐったい思いに身を任せながら、
そっと宝石のようなそのお菓子を口に運ぶ。
「まあ!なんて美味しいのでしょう!
十八年の人生でこのような不思議な味は……」
私は声を上げた。
ハッとしたようにオーディン様が私を見るが、私は夢中で続ける。
「それに……一つ一つが、小さな宝石のようですわ。」
「良かった。」
スカーフと包帯の奥から安心したような声。
その身体は「残虐伯」の名にふさわしいが、
穏やかな声がその看板を静かに包み込んでしまうようだ。
「失礼ですが、今、貴女がお召しのその服は……
うちのメイドの服ではありませんか?」
「――はい。着ていたドレスが汚れてしまいましたので、お借りしております。」
「他のドレスは……」
私はオーディン様の視線に耐え切れずにうつむいた。
が、オーディン様は明るい声を出した。
「すぐに、首都から仕立て屋を呼びましょう。それで……」
「あの、こちらで仕立てていただけませんか?首都ではなく……」
「……」
オーディン様は一瞬沈黙すると、「そうしましょう。」とじっと私を見つめた。
「お昼にお会いしたときは泣いていたから……その……なんだか、今、ようやく、
貴女のお顔を見た気もします。」
私はまたもうつむく。
顔から火が出そうで、胸の鼓動が早い。
しかし、オーディン様は、「長居をしてしまいました。」と立ち上がると、
「おやすみなさい。」と一言残して、部屋を出て行った。
私は、自分の顔があまりにも熱くて、ソファに突っ伏して、しばらく動けなかった。
***
「――そうなんだ、アンナ。」
「名門ヴァンヴィーク侯爵家の、まあまあ!お若くて、まあまあ!……」
廊下を歩く声が近付き、
トントン……トン
硬質な扉を叩く音と「入ってもいいですか?フリッグさん。」というオーディン様の声。
そこからは、仕立て屋アンナさんの独壇場だ。
「まあまあ、なんて可憐なお姫様でしょう。
フラックスブロンド……亜麻色の御髪とダークブルーの瞳……まあまあ、
ええ、そうですね、ええ……
まずは、こちらとこちらのドレスを合わせていただいて……
ちょっとまあ!オーディン様!どこに行かれるのです?!
えっ?私のいる場ではない?
何をまあ!お座りください、ええ、そこに、はい、結構です。
ほら御覧くださいませ、この青いドレスなどいかがでしょう?まあまあ、よくお似合いですわ。
オーディン様!
えっ?よく似合っている?
もっと大きな声をお出しなさいまし!奥様に聞こえません!
聞こえないのは言っていないのと同じでございます!
ええ、あらあら、あとは奥様に合うようにお仕立てさせていただきますね。
それでは、とりあえずはこの三着はお渡しします。
一着は早速お着替えしましょう。
まあ、オーディン様!お部屋を出てくださいまし!
レディのお着替えでございますよ!」
と、こんな様子だ。
私は驚くよりもおかしくて、おかしくて、
令嬢として何とか笑いを堪えねばと必死になっていたが、
最後にオーディン様が部屋から閉め出されるときには、
たまらず笑ってしまい、
つられてオーディン様も笑い、
結局、部屋にいる皆で大笑いしたのだった。
***
その夜も、その次の夜も、またその次の夜も、
オーディン様は寝室の扉を叩いて、「入っていいですか?」と低い声で尋ねて、
何かお菓子や本を携えて入っていらっしゃる。
一日ごとに、包帯の巻かれている場所が少なくなっていく。
貴公子とは異なる、よく焼けた浅黒い肌に目を見張る。
七日目の夜、私はワイシャツの袖から覗く大きな傷に驚いた。
「この傷は今回の戦いで……?」
「ああ、そうです。」
オーディン様は頭を掻いた。
その頭と顔にはまだ包帯が巻かれている。
「ヴァンヴィーク家の御令嬢がいらっしゃるのに、こんな格好でお迎えすることになるとは。
敵など蹴散らして、傷一つなく帰って来れたら格好よかった。
お恥ずかしい限りです。」
「まあ、とんでもないですわ!」
私は手にしていたティーカップを置いた。
やり切れない思いが身体中を渦巻く。
首都の華やかな社交界、
平和を享受するくせに、オーディン様を残虐伯と嘲る貴族、
私だって、あんな家にいるくらいなら残虐伯の方がまだましだ、などと思ったのだ。
命懸けの戦いの最中にのこのことやって来て、
出迎えがないと泣いたのだ。
「私……私こそ、恥さらしですわ!」
私は思わず叫んだ。
オーディン様が目を丸くする。
「オーディン様が、こんなに傷だらけになってお国を守ってくださっているのに、
私は……私は……!」
「フリッグさん……」
私は顔を覆った。そして、勇気を振り絞った――
「オーディン様、私はオーディン様が思っていらっしゃるような令嬢ではございません。
五年前に父が亡くなってからは、豊かな暮らしもしておりません。
令嬢としての教育も……他の方のように十分なものでは……」
継母は、三年前に王太子との縁談が来たときから、
もともと私に行われていた令嬢教育を取りやめたのだ。
義弟ヨルドの講義を盗み聞きしたり、
人が寝静まった夜に書庫に行ったり、誰もいないホールでダンスを練習したり……
そんなことしかできなかった。
「オーディン様、それをもうご存じなのでしょう?
だから――だから――いつも、扉を叩いて……叩く……だけで……」
「フリッグさん、違います、フリッグさん……」
「私は、オーディン様にふさわしくありません。
オーディン様にはもっと素敵な御令嬢が……」
「フリッグさん!!!」
急に私は、大きな身体に力強く包まれた。
洗いたてのシャツと、薬品と、草原の香りがする。
恐ろしく早く鼓動する胸の音が、
オーディン様のものなのか、自分のものなのか分からない。
私は、抱き締められるということは、
こんなにも熱くて、こんなにも嬉しいものなのかと狂おしい気持ちになる。
「違います。違うんです――」
オーディン様の熱い吐息が、私の額にかかる。
「今は国境付近が荒れています。私自身、いつ命を落としてもおかしくない。
結婚は諦めて、養子でも迎えようかと……」
私は思わずオーディン様のワイシャツの胸元を握った。
「そう知人に話したら、そのつてで話があったんです。
ヴァンヴィークの分家で、私と同じ年の、その……
社交界で悪い噂が立って結婚できない女性がいるから……と。」
私は驚いて、思わず身体を離した。
オーディン様の灰色の目が、スカーフと包帯の奥から光っている。
「そうです。でも、来てくれた女性は全然違った。
お目に掛かったとき、私は何の行き違いかと思いました。
フフフ……涙と泥まみれでしたが、あまりにも可憐で、上品で……」
言ってから、照れ臭そうにオーディン様は鼻を掻いた。
「しかも十八とおっしゃる……私は三十二ですから。」
今度は私が目を見開いた。
「……驚かせましたか。そうですよね、二十代ですらないんですから……」
「いいえ、私は……オーディン様は五十くらいの方かと……」
「エッ?」
「首都では……そういう噂だったものですから……申し訳ございません。」
私は、噂ばかり信じていた自分が恥ずかしくて小さくなる。
「どうか謝らないで。」
そう言ったかと思うと、オーディン様は急に立ち上がって、
ぐるぐると部屋中を回り始めた。
私は呆気に取られてオーディン様の精悍な姿を眺める。
「いや、そうすると……え?」
「オーディン様?」
「え?いや、もしかすると……」
「――オーディン様?」
「いやいや、まさか……」
「オーディン様!!」
私はとうとう立ち上がった。
「ちゃんと……ちゃんと、私にお話しくださいませ!」
「はい。」
オーディン様は、叱られた大型犬のようにトコトコと私の前にやって来て、
私の目を遠慮がちに覗き込んだ。
「フリッグさん、貴女は、私の妻になってくださるのですか?」
「もちろんですわ!」
私の目から涙が溢れる。
「オーディン様は……!」
「フリッグさん、私は、私は……ああ、どうすればいいんだろう!」
「オーディン様は私が妻にふさわしくないと……」
「まさか!フリッグさん!」
急にオーディン様は私の両肩をがっしりと掴み、私の目を凝視する。
「フリッグさん、貴女のような素晴らしい女性を妻にできるなら、
私の人生でこれ以上に幸福なことはない。
私は本当に――貴女を妻にしていいですね?」
「はい……」
「ああ……最高に幸せだ……」
オーディン様は私を抱き締め、何度も包帯まみれの顔を、私の頭にこすりつける。
「貴女をなるべく早く解放してあげなくては、と思ったんです。
――でも、ここ数日間があんまりにも幸せで、私は、
貴女がいないこの屋敷で生きていけるんだろうかと思っていた。」
私は顔を上げた。
私の頭にこすられた包帯が、ずれてほどけかかっている。
私はゆっくりと包帯をほどきはじめた。
「朝、貴女と天気の話をして……」
濃い茶色の髪がサラサラと流れ出す。
「昼の仕事中、ふとした時に、今日の夜は何を貴女に持って行こうと考える……」
耳やこめかみの傷が生々しい。
「夕飯のときに目の前に女神がいるから、飯の味はほとんどわからない……」
額にかかる包帯が外れると、くっきりした茶色の眉毛が見える。
「貴女の寝室に向かう暗い廊下は、これから訪れる別れの道のようで苦しかった……」
高い鼻から頬にかけて刻まれた長く、大きな切り傷。
「扉を叩いて、『入っていいか』と聞くと、貴女の可憐な声がして、そして、
――その寝室に、フリッグさん、貴女がいる。」
その瞬間にパッと全ての包帯が解け、
オーディン様の顔が私の目の前に広がる。
私は言葉も出ない。
なんという爽やかな、
美しい青年なのだろう。
切れ長の灰色の瞳が、気恥ずかしそうに私を見ている。
「傷がひどくて、驚かせましたよね……?」
私は急いで首を横に振る。
「命懸けの日々を送っていても、首都では残虐伯なんて呼ばれてるでしょう?」
青年は――オーディン様は、遠慮がちに私の頬に触れる。
「裕福で爵位があっても、ふと虚しくなるときはありました。
――でも、命懸けで国を、首都を守ることで、実は私は、貴女を守っていた。
――首都で、辛く、望まない暮らしを送っていた、小さく、気高いフリッグさんを。」
私は思わずオーディン様を見つめた。
「ここ数日で色々と調べました。」
オーディン様は静かに言うと、私の頬を手で包む。
「フリッグさん、国境の状況が落ち着いたら、いずれ、首都で結婚式を挙げましょう。
――思い切り盛大な!」
オーディン様は驚くほど若々しく、茶目っ気たっぷりに笑う。
私も惹きつけられて笑顔になる。
が、次の瞬間、オーディン様の顔が近付き、私たちは蕩けるような接吻をした。
しばらくして唇を離すと、オーディン様は顔を火照らせて、
囁くように言った。
「神の前での結婚は、明日済ませましょう。そうすれば……
――もう、
毎晩、
貴女の寝室の扉を叩く必要はない。」
***
数か月後、オーディン様はその言葉のとおり、首都で私との盛大な結婚式を挙げた。
そのときに聞いたのは、
義弟ヨルドの縁談は破談になったということ。
友人からの借金が返せず継母は社交界で追放状態だということ。
後で知ったのは、
「残虐伯」への結婚を拒否した令嬢方が歯噛みして悔しがったこと、
恥も外聞も捨てて、オーディン様に援助を申し込みに来た継母が、
オーディン様に取り付く島もなくきっぱりと拒否されたこと。
私は嬉しかった。
――オーディン様が迷いなく、私を守り抜いてくれたことが。
帰りの馬車は、フカフカの上質のソファが設えられた上等の馬車。
オーディン様は外を眺めながら、ソロソロと手を伸ばし、
私の手に触れると、左手にリングを嵌めた大きな手で握りしめ、自分の膝に乗せる。
「フリッグさん――フリッグ……さん……フ、リグ……」
「はい……?ご気分でもお悪いのですか?」
「いや、貴女を呼ぶとき……」
とそのとき、
「オーディン様!オーディン様!!」
と呼ぶ兵士の声がする。
即座に馬車が止まり、オーディン様は窓から「どうした!」と鋭く問いかける。
「北東10キロのグリムル丘陵に敵兵を確認!」
すぐにオーディン様は馬車を出て指示を飛ばし、兵士は駆け去って行く。
オーディン様の前に馬が準備される。
私は血の気が引くのを感じたが、滑るように馬車を出て、
背筋を伸ばし、胸に手を当てた。
オーディン様は軽々と馬にまたがると、軽く頷いた。
「必ず帰ります――リグさん。」
馬が風のように走り出す。
「『さん』をつけてしまいました!!」
爽やかな声と逞しい背中が遠のいていく。
私は分かっている。
必ず、オーディン様は約束を守ってくださる。
きっとすぐに、
遠慮がちで、
規則正しくて、
爽やかで、
あの愛おしい、
――寝室の扉を叩く音が聞こえることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もう少し長い物語を読みたい方へ。
完結済長編『神鼠の大王は猫を愛せない―僕を食べようとする猫の少女に恋をした』も公開しています。
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