そうか
今日も帰りの電車内に奴はいた。いつからだったのだろう。もう覚えていない。一日の記憶も曖昧になるほど、俺は日々の仕事が忙しいのだ。
そのカラスは前の座席にとまっていて、吊り革につかまる俺を見上げていた。黒色の羽は光の加減で紫色に近く、それが禍々しさを醸し出しているようだった。漆黒の瞳は俺をとらえ続けている。
「やれやれだな。今日は疲れた」
俺はカラスにそれだけを言った。いつからだったろうか。このカラスを見かけるたびに、俺はこの言葉だけを言うようになっていた。
「そうか」
カラスの返事はそれだけだ。毎回それ以上でも、それ以下でもない。その間もカラスの瞳は、真っ直ぐ俺に向けられている。その瞳を見ていると、そこにある漆黒の闇に吸い込まれてしまいそうな気がしてくる。
毎回のことだが、電車内にカラスがいるというのに、周りの乗客には何の反応もない。カラスと話している俺に目を向ける者もいない。それがいつも不思議だった。
まるで自分とカラスの周囲には見えない壁でもあるかのようだった。そんな埒もない考えを頭から振り払うように俺は首を左右に振る。
やがて電車は少しの揺れを伴って最寄りの駅に着こうとしていた。
その日もカラスはそこにいた。
「やれやれだな。今日は疲れた」
「そうか」
会話はいつもと同じで、一日の記憶も変わらずに曖昧だった。あまりに忙しいため、体が記憶を拒絶しているのかもしれない。
いよいよ限界なのかもしれない。そろそろ精神科に相談すべきか。
そんな言葉を頭の中で泳がせながら、大きくため息を吐き出したときだった。わずかな揺れを伴って、電車が最寄りの駅へと着いたのだった。
駅から自宅までは徒歩十分だ。一人目の子供が生まれたのを機に購入した戸建てで、ローンもあと三十年近く残っている。
そのローンを返すためにも、俺は記憶が曖昧になるぐらいに働いているのだ。家の扉を開けると、三十五歳になる俺と同じ歳の妻が現れた。
気のせいだろうか。俺を見るその顔は青白く感じられた。そういえば最近、妻の顔色が悪いような気がする。体調を崩してしまったのだろうか。
妻に続いて五歳になる娘と、三歳の息子も奥のリビングから姿を見せた。その顔にはわずかに怯えの色がある。子供たちは妻の背後で隠れるように立っていた。
なぜだろうか……。
特に何かで叱った覚えもない。妻がそんな子供たちに振り返った。
「さあ、明日は月命日だから、朝から出かけるのよ。だから、早く寝る準備をするわよ」
優しい声で妻が子供たちに語りかけている。
「月命日? 誰の?」
素朴な疑問だった。俺の両親も、妻の両親も健在だった。ここ数年、身内に不幸なんてない。それとも遠い親戚や、知人関係で何かあっただろうか。
そんな問いかけに妻が青い顔を俺に向けた。
「誰の?」
そう言った妻の声が震えている。
「あなたの……月命日でしょう?」
そのとき、背後で唐突にカラスが鳴いた。後ろを振り返ると、開け放たれたドアの先にある道路にいつものカラスがいる。
カラスはもう一度、鋭く鳴いた。俺はそんなカラスに向かって、ゆっくりと口を開く。
「やれやれだな。今日は疲れた」
「そうか」
カラスはいつものように言ったあと、羽ばたいて飛び去っていった。黒い羽根が一枚だけ静かに路上へと落ちていく。
俺は妻と子供たちを見つめた。
「そうか……」




