余白の章 八咫の楔 ― 夜明け前の手紙
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
深根会の本部は、
夜明け前の薄い光に包まれていた。
廊下の照明は落とされ、
窓の外にはまだ街の灯りが残っていた。
九条玲子は、
誰もいない会議室にひとりで座っていた。
机の上には、
昨夜の会議で使った資料がそのまま残っていた。
彼女は、
その資料には触れなかった。
代わりに、
胸ポケットから折りたたまれた便箋を取り出した。
便箋は、
少しだけ角が丸くなっていた。
何度も開いて、
何度も閉じた跡だった。
九条は、
便箋を開き、
静かに読み返した。
それは、
深根会に入る前の自分が書いた手紙だった。
――「誰かの役に立ちたい」
――「でも、何をすればいいのか分からない」
――「選べないまま、時間だけが過ぎていく」
九条は、
その文字を指先でなぞった。
若い頃の自分は、
何かを選べなかった。
選べないまま、
いくつもの大切なものを失った。
けれど今、
彼女は静かに思う。
選べなかったことは、
弱さではなかった。
ただ、
“立ち止まる場所”が分からなかっただけだと。
九条は、
便箋をそっと閉じた。
そのとき、
会議室の扉が静かに開いた。
たくまが立っていた。
「……九条さん、まだ帰ってなかったんですね」
九条は微笑んだ。
「帰れなかったのよ。
少しだけ、昔の自分を思い出していたの」
たくまは、
その言葉の意味を測るように
ゆっくりと椅子に座った。
九条は、
便箋を机の上に置いた。
「あなたも、
いつか“選べなかった自分”を思い出す日が来るわ」
たくまは、
便箋に視線を落とした。
九条は続けた。
「そのとき、
あなたはきっと気づくの。
選べなかった時間も、
全部あなたをここに連れてきたって」
たくまは、
その言葉を胸の奥で噛みしめた。
九条は、
窓の外の薄明かりを見つめながら言った。
「未来の実ってね、
“選んだ人”が育てるんじゃないのよ。
“選べなかった人”が、
それでも歩き続けた先に実るの」
たくまは、
その言葉に静かに息を吸った。
「……僕にも、
実りますかね」
九条は、
たくまの目をまっすぐ見た。
「もう芽が出てるわよ。
あなたが気づいていないだけ」
たくまは、
その言葉にわずかに目を伏せた。
九条は立ち上がり、
コートを羽織った。
「さあ、帰りましょう。
夜明け前は、
一番寒いけれど……
一番、未来に近い時間よ」
たくまは、
ゆっくりと頷いた。
二人は会議室を出て、
薄い光の差し込む廊下を歩いた。
揺れはまだ続いている。
けれど、
その揺れの中に
確かな“未来の実”が芽吹いていた。
深根会は、
その実を守るために動く。
そして、
次の世代へ静かに託す。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




