八咫の楔 ― アルツハイマーと老化
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
冬の午後、
深根会の医療研究室は、
暖房の音がかすかに響くだけの静かな空間だった。
不動は、
机の上に広げられた論文を一枚ずつめくっていた。
紙の端が指に触れるたび、
彼の視界には 淡い緑の光 が揺れた。
それは、
久しく見ていなかった色だった。
希望の色。
たくまが研究室に入ってきた。
白い蛍光灯の光が、
彼の肩に落ちていた。
「……色が、違うんですね」
不動は頷いた。
「これは、
“治るかもしれない”という色だ」
たくまは、
机の上の論文に目を落とした。
“認知症の早期検知AI”
“老化細胞の除去技術”
“再生医療の臨床試験”
“生活支援ロボットの自律化”
“在宅医療の自動化システム”
どの文字も、
未来の話のようで、
どこか現実の延長線上にあった。
たくまは、
ページをめくる指を止めた。
「……これが全部、
本当に実現したら」
不動は、
たくまの言葉の続きを待った。
たくまは、
静かに息を吸った。
「人は、
“老いること”を
怖がらなくてよくなるんでしょうか」
不動は、
その問いにすぐには答えなかった。
代わりに、
論文の一枚を指先で押さえた。
「老いることは、
怖いことではない。
“支えられないこと”が怖いんだ」
たくまは、
その言葉にわずかに目を伏せた。
「……支えられないこと」
不動は頷いた。
「記憶が薄れていくことより、
誰にも気づかれないことの方が、
人は怖い」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた何かが
静かに揺れるのを感じた。
■ 研究者の言葉
医療担当の枝・高梨が、
研究室に入ってきた。
彼女は、
白衣の袖を少しだけまくり、
髪を後ろで束ねていた。
40代前半。
親の介護が現実味を帯びる年齢だった。
高梨は、
机の上の論文を見て言った。
「……これらの技術、
全部“人の手”を減らすためじゃないんです」
たくまは顔を上げた。
高梨は続けた。
「人の手が足りないから、
“人を支える仕組み”を作っているだけ。
誰かを置き去りにしないために」
不動は、
その言葉に静かに頷いた。
「老化は“避けるもの”ではなく、
“支えるもの”に変わる」
高梨は、
その言葉を噛みしめるように目を閉じた。
「……そうなればいいですね」
その声は、
希望というより、
祈りに近かった。
■ たくまの記憶
たくまは、
論文の文字を見つめながら、
ふと自分の祖母のことを思い出した。
夕方になると、
同じ話を繰り返すようになった祖母。
名前を呼んでも、
一瞬だけ迷うような目をした祖母。
たくまは、
そのときの自分の無力さを思い出した。
何もできなかった。
ただ、
隣に座っていることしかできなかった。
不動が、
たくまの沈黙に気づいたように言った。
「……立ち止まったのか」
たくまは、
ゆっくりと頷いた。
「ええ。
あのときの自分を思い出しました」
不動は、
たくまの言葉を否定しなかった。
「立ち止まることは、
弱さではない。
“揺れを拾う力”だ」
たくまは、
その言葉に静かに息を吸った。
■ “未来の実”の芽
高梨が、
机の上の論文を一枚持ち上げた。
「……これ、
まだ実用化には時間がかかります。
でも、
“芽”は出ています」
不動は、
その言葉にわずかに目を細めた。
「芽が出れば、
実になる」
たくまは、
その言葉を胸の奥で転がした。
芽。
実。
未来。
「……未来の実、か」
不動は頷いた。
「そうだ。
深根会が守るのは、
“今”ではなく、
“未来の実”だ」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた重さが
少しだけ軽くなるのを感じた。
研究室の窓の外では、
夕暮れがゆっくりと沈んでいた。
光が薄くなり、
影が長く伸びていく。
高梨は、
机の上の論文をそっと閉じた。
その動作は、
何かを弔うようでもあり、
何かを守るようでもあった。
「……老化って、
“失うこと”だと思っていました」
たくまは、
その言葉に静かに耳を傾けた。
高梨は続けた。
「記憶が薄れて、
身体が動かなくなって、
できていたことができなくなる。
そういう“減っていく人生”だと」
不動は、
その言葉に反応するように
わずかに視線を向けた。
「減ることは、
悪いことではない」
高梨は、
その言葉の意味を測るように
ゆっくりと息を吸った。
不動は続けた。
「減るからこそ、
“支える余白”が生まれる」
たくまは、
その言葉に胸の奥が静かに揺れた。
余白。
失うことの中に生まれる、
誰かが入り込める場所。
高梨は、
机の端に手を置いたまま言った。
「……支える余白、か」
その声は、
どこか遠い記憶を思い出すようだった。
■ 老化の意味
たくまは、
祖母の手を思い出していた。
皺が深く刻まれ、
骨ばっていて、
けれど温かかった手。
あの手は、
何かを失いながら、
何かを残していた。
たくまは、
その記憶を胸の奥でそっと抱えたまま言った。
「……老いるって、
誰かに“預ける”ことなのかもしれません」
不動は、
その言葉に静かに頷いた。
「預けることは、
弱さではない。
信頼だ」
高梨は、
その言葉にわずかに目を伏せた。
「……そうですね」
その声は、
涙をこらえる声ではなかった。
涙すら出ないほど、
長い時間をかけて受け入れた人間の声だった。
■ 支える技術の本質
不動は、
机の上の論文を一枚持ち上げた。
「AIも、
ロボットも、
再生医療も、
全部“人の弱さ”を守るためにある」
たくまは、
その言葉を胸の奥で噛みしめた。
「……弱さを守る」
不動は頷いた。
「強さを守る技術は、
いらない。
弱さを守る技術だけが、
未来を作る」
高梨は、
その言葉に静かに息を吸った。
「……だから、
私たちは研究を続けるんですね」
不動は頷いた。
「そうだ。
未来の実を育てるために」
たくまは、
その言葉に胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
■ 深根会の決断への橋渡し
研究室の空気が、
ゆっくりと変わっていった。
揺れはまだ続いている。
けれど、
その揺れの中に
“支える力”が確かに存在していた。
不動は、
窓の外の夕暮れを見つめながら言った。
「老化は、
避けるものではない。
支えるものだ」
たくまは、
その言葉に静かに頷いた。
高梨は、
机の上の論文をそっと重ねた。
「……未来は、
もう始まっているんですね」
不動は、
その言葉にゆっくりと頷いた。
「始まっている。
だからこそ、
深根会は“楔”を打たなければならない」
たくまは、
その言葉の重さを理解するまで
少し時間が必要だった。
「……楔」
不動は、
たくまの方を向いた。
「未来が折れないように。
人が孤独で折れないように。
国が静かに腐らないように」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた重さが
静かに形を変えるのを感じた。
「……僕も、
その楔の一つになれますか」
不動は、
その問いにすぐには答えなかった。
代わりに、
たくまの目をまっすぐ見た。
「もうなっている」
たくまは、
その言葉に静かに息を吸った。
揺れは続いている。
けれど、
その揺れの中に
確かな“未来の実”が芽吹いていた。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




