八咫の楔 ― 国力とは何か
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
深根会の本部は、
夜になると静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消え、
廊下には空調の低い音だけが残る。
不動は、
会議室の窓際に立っていた。
街の灯りが遠くに揺れ、
その光が彼の視界では
淡い灰色 に見えていた。
揺れの色ではない。
濁りでもない。
ただ、
“疲れた国の色”だった。
たくまが会議室に入ってきた。
資料を抱えたまま、
扉を静かに閉めた。
「……全部、繋がっている気がします」
不動は振り返らなかった。
代わりに、
窓の外の光を見つめたまま言った。
「繋がっている。
農業も、医療も、技術も。
どれか一つが折れれば、
国は立っていられない」
たくまは、
資料を机に置いた。
その音が、
広い会議室に小さく響いた。
「国力って……
何なんでしょう」
不動は、
その問いにすぐには答えなかった。
代わりに、
窓に映る自分の影を見つめた。
「……“数”ではない」
たくまは、
その言葉を待つように息を止めた。
不動は続けた。
「人口でも、
GDPでも、
軍事力でもない」
たくまは、
ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
不動は、
窓から視線を外し、
たくまの方を向いた。
「国力とは、
“自分たちの暮らしを
自分たちで支えられる力”だ」
たくまは、
その言葉を胸の奥で転がした。
「……支えられる力」
不動は頷いた。
「食べ物を作る力。
病気を治す力。
技術を守る力。
人を育てる力。
そして……
誰かと生きる力」
たくまは、
その最後の言葉に
わずかに目を伏せた。
不動は続けた。
「人口が減っても、
高齢化が進んでも、
国力は失われない。
失われるのは……
“支える力”を諦めたときだ」
たくまは、
その言葉に静かに息を吸った。
「……じゃあ、
僕たちは何をすればいいんですか」
不動は、
机の上の資料に手を置いた。
「循環を作る」
たくまは顔を上げた。
「循環……?」
不動は頷いた。
「食料は太陽と水で育てる。
工業製品はロボットが作る。
医療はAIと人間が協働する。
高齢者は地域で支える。
技術は国内で守る。
人材は世界とつながりながら育てる」
たくまは、
その言葉を一つずつ噛みしめた。
「……全部、
“人間だけ”ではできないことですね」
不動は、
その言葉に静かに頷いた。
「人間だけでは支えられない。
だからこそ、
仕組みが必要なんだ」
たくまは、
窓の外の街を見つめた。
そこには、
誰かの生活があり、
誰かの選択があり、
誰かの後悔があった。
「……少子化でも、
豊かに生きられる国」
不動は、
その言葉にわずかに目を細めた。
「そうだ。
それが、
深根会が目指す“未来の形”だ」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた重さが
少しだけ形を変えるのを感じた。
■ 九条玲子の静かな言葉
扉が静かに開き、
九条玲子が入ってきた。
彼女は、
二人の間に流れる空気を読み取り、
何も言わずに椅子に腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙は、
誰かを責めるためのものではなく、
誰かを守るための沈黙だった。
九条は、
湯気の立つカップを両手で包みながら言った。
「……国力ってね、
“誰かが誰かを思い出せる国”のことよ」
たくまは、
その言葉にわずかに目を見開いた。
九条は続けた。
「人はね、
生まれるときも、
死ぬときも、
誰かの記憶の中にいるの。
それが国の力よ」
不動は、
その言葉に静かに頷いた。
九条は、
たくまの方を向いた。
「あなたが立ち止まった場所。
そこに、
あなたの“国力”があるのよ」
たくまは、
胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
九条が去ったあと、
会議室には三人分の呼吸だけが残った。
不動は窓際に立ち、
たくまは机の端に手を置き、
佐伯は資料を閉じたまま指先で押さえていた。
誰も話さなかった。
沈黙は、責任の重さを測るための時間だった。
やがて不動が、
窓の外の街を見つめたまま口を開いた。
「……国力は、
“支える力の総量”だ」
たくまは、
その言葉を胸の奥でゆっくりと転がした。
支える力。
誰かを、
何かを、
未来を。
不動は続けた。
「人口が減っても、
高齢化が進んでも、
国力は失われない。
失われるのは……
“支える仕組み”を諦めたときだ」
佐伯が、
閉じた資料の上に手を置いた。
「……技術も同じです。
人がいなくなれば、
技術は残らない。
でも、
人を支える仕組みがあれば、
技術は未来に残せる」
たくまは、
その言葉に静かに頷いた。
「……仕組み」
不動は、
たくまの方を向いた。
「そうだ。
深根会は“仕組み”を作る。
人が壊れないように。
人が孤独で折れないように。
人が“生きたい”と思える国であるように」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた重さが
少しだけ形を変えるのを感じた。
■ 深根会の設計図
不動は、
机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、
深根会が描いた“未来の設計図”があった。
文字は少なかった。
余白が多かった。
その余白が、
未来の可能性を示しているようだった。
不動は言った。
「食料は太陽と水で育てる。
工業製品はロボットが作る。
医療はAIと人間が協働する。
高齢者は地域で支える。
技術は国内で守る。
人材は世界とつながりながら育てる」
たくまは、
その言葉を一つずつ噛みしめた。
「……全部、
“人間だけ”ではできないことですね」
不動は頷いた。
「人間だけでは支えられない。
だからこそ、
仕組みが必要なんだ」
佐伯が、
静かに言葉を継いだ。
「ロボットも、
AIも、
技術も、
全部“人間の弱さ”を守るためにあるんです」
たくまは、
その言葉にわずかに息を吸った。
弱さを守る。
それは、
強さよりも難しいことだった。
■ たくまの内的変化
たくまは、
机の端に置いた自分の手を見つめた。
その手は、
何かを掴もうとしているようで、
何かを手放そうとしているようでもあった。
「……僕は、
何を守りたいんでしょう」
その問いは、
誰に向けたものでもなかった。
ただ、
胸の奥に沈んでいたものが
静かに浮かび上がっただけだった。
不動は、
たくまの問いにすぐには答えなかった。
代わりに、
窓の外の街を見つめた。
「守りたいものは、
選ぶものじゃない。
気づいたら、
もうそこにある」
たくまは、
その言葉にわずかに目を伏せた。
九条の言葉が、
胸の奥で静かに響いた。
――あなたが立ち止まった場所。
そこが、あなたが守りたいものの“入口”。
たくまは、
ゆっくりと息を吸った。
「……僕は、
“立ち止まる人”でいたいです」
不動は、
その言葉に静かに頷いた。
「それでいい。
深根会には、
立ち止まる人間が必要だ」
たくまは、
胸の奥に沈んでいた重さが
少しだけ軽くなるのを感じた。
■ 第四幕の終わり
不動は、
窓の外の街を見つめながら言った。
「国力とは、
人が“生きたい”と思える国の力だ」
たくまは、
その言葉に静かに頷いた。
揺れは続いている。
けれど、
その揺れの中に
“支える力”が確かに存在していた。
深根会は、
その力を守るために動く。
そして、
次の世代へ“未来の実”を託すために。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




