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『八咫の楔(やたのくさび)』 ー揺れないー  作者: fudo_akira


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3/8

第二幕 八咫の楔 ― 高齢化の揺れ

大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。

気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。

忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。

この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。

誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。

介護施設の廊下は、

暖房の効いた空気がゆっくりと流れていた。

その温度は、

どこか「人の手が足りない場所」の温度だった。

たくまは、

事故記録のファイルを抱えたまま、

廊下の端に立っていた。

壁に掛けられた時計の針が、

静かに進む音だけが聞こえる。

彼はファイルを開かず、

しばらく指先で表紙をなぞっていた。

その動作は、

何かを思い出す前の人間の癖に似ていた。

施設の奥から、

スタッフの女性が歩いてきた。

40代半ば。

髪を後ろでまとめ、

制服の袖を少しだけまくっていた。

彼女はたくまを見ると、

一瞬だけ微笑んだ。

その笑みは、

「大丈夫ですよ」と言うためのものではなく、

「大丈夫じゃないけれど、やるしかない」という種類のものだった。

「記録、見ますか」

たくまは頷いた。

言葉は出なかった。

女性は、

事故のあった部屋の前で立ち止まり、

扉に手を添えた。

その手が、

ほんの少しだけ震えていた。

「昨日の夜、

この部屋で転倒がありました。

スタッフが足りなくて……

見守りが遅れました」

たくまは扉を見つめた。

扉の向こうにいるのは、

誰かの母であり、

誰かの妻であり、

誰かの人生の中心だった人だ。

女性は続けた。

「責められるのは、

いつも現場です。

でも……

私たちも、

もう限界なんです」

その声は、

涙をこらえる声ではなかった。

涙すら出ないほど疲れた声だった。

たくまは、

事故記録を開いた。

ページの端が、

何度もめくられた跡で柔らかくなっていた。

その柔らかさが、

現場の時間の重さを物語っていた。

「……この流れ、

前にも見た気がします」

たくまは呟いた。

女性は首を傾げた。

「どういう意味ですか」

たくまは答えなかった。

代わりに、

ページを閉じた。

その沈黙が、

彼の答えだった。


■ 不動の“冷たい青”

同じ頃、不動は深根会の会議室で、

介護関連ニュースを読み込んでいた。

文章の色が、

彼の視界では 「冷たい青」 に染まっていた。

青は本来、

落ち着きや安定の色だ。

しかし今の青は、

冬の海のように深く、

底が見えない。

不動は、

その青の揺れを指先で追った。

「……これは、

人手不足の色じゃない」

たくまからの報告を読みながら、

彼は静かに呟いた。

「買収の色だ」

ROOT-LINEに、

医療担当の枝から新しい通知が届く。

『医療法人の買収が続いています。

買い手はすべて海外資本です』

不動は、

画面を閉じた。

その動作はゆっくりで、

どこか祈るようだった。


■ 九条玲子の言葉

深根会の本部に戻ったたくまを、

九条玲子が待っていた。

彼女は、

窓際の椅子に腰を下ろし、

湯気の立つカップを両手で包んでいた。

「……どうだった?」

たくまは答えなかった。

代わりに、

事故記録を机に置いた。

九条は、

その表紙にそっと触れた。

「あなた、

“嫌な既視感”って言ってたわね」

たくまは、

わずかに頷いた。

九条は、

カップを置き、

たくまの方を向いた。

「人手が足りないのは、

現場のせいじゃないわ。

誰かが怠けているわけでもない。

ただ……

社会が変わる速度に、

人間が追いつけていないだけ」

その言葉は、

責めるでも慰めるでもなかった。

ただ、

事実を静かに置くような声だった。

たくまは、

その言葉を胸の奥で転がした。

九条は続けた。

「あなた、

“選べない”って顔をしているわね」

たくまは、

視線を落とした。

九条は微笑んだ。

「選べないままでもいいのよ。

大人はみんな、

選べないまま生きてるんだから」

その言葉は、

たくまの胸に静かに沈んだ。


九条は立ち上がり、

たくまの肩に手を置いた。

「でもね。

立ち止まった場所が、

あなたの“揺れ”なんでしょう?」

たくまは、

ゆっくりと頷いた。

九条は言った。

「なら、

そこから始めればいいのよ」

その声は、

母親のようでもあり、

戦友のようでもあった。

たくまは、

事故記録を胸に抱えた。

その重さは、

紙の重さではなかった。


会議室の空気は、

夕方の光とともにゆっくりと沈んでいった。

窓の外では、

街の灯りがひとつ、またひとつと点り始めていた。

不動は、

医療法人の買収リストを無言でスクロールしていた。

画面に並ぶ名前は、

どれも見覚えのある病院ばかりだった。

彼の視界では、

その文字が 「深い青」 に染まっていた。

先ほどの“冷たい青”とは違う。

もっと重く、

底に沈んでいくような青だった。

たくまが、

その色の変化に気づいたように

不動の横顔を見た。

「……色が変わったんですね」

不動は答えなかった。

代わりに、

画面を閉じた。

その動作は、

何かを断ち切るように静かだった。

「医療の買収は、

もう“計画”じゃない」

不動は、

机の上に手を置いた。

「始まっている」

たくまは、

その言葉を飲み込むように

ゆっくりと息を吸った。

「……どうして、

こんなに静かに進むんでしょう」

不動は、

窓の外の街を見つめた。

「静かに進むものほど、

止めにくい」

たくまは、

その言葉の意味を理解するまで

少し時間がかかった。


■ 医療買収の核心

ROOT-LINEに、

医療担当の枝から新しい報告が届いた。

『買収の資金源は、

海外の医療データ企業です。

目的は“日本の患者データ”の取得と思われます』

たくまは、

その文章を読み、

胸の奥がわずかに冷えるのを感じた。

「……人の命を扱う場所が、

数字に変えられていく」

不動は、

その言葉に反応しなかった。

ただ、

画面を閉じたまま

手を組んだ。

「命は、

数字にした瞬間に価値を失う」

その声は、

怒りでも悲しみでもなかった。

ただ、

静かな事実を置くような声だった。

たくまは、

その言葉を胸の奥で転がした。

「でも……

現場はもう限界です。

人が足りない。

支えきれない。

だから買収される」

不動は、

ゆっくりと頷いた。

「人が足りないのではない。

“人に頼りすぎる仕組み”が限界なんだ」

たくまは、

その言葉に息を呑んだ。


■ 九条の“本当の言葉”

扉が静かに開き、

九条玲子が入ってきた。

彼女は、

会議室の空気を一度吸い込み、

ゆっくりと吐き出した。

「……色が変わったわね」

不動は頷いた。

九条は、

机の端に手を置き、

たくまの方を向いた。

「あなた、

さっき“選べない”って言ってたわね」

たくまは、

視線を落とした。

九条は、

椅子に腰を下ろし、

足を組んだ。

「選べないのは、

悪いことじゃないのよ。

大人はみんな、

選べなかったものを抱えて生きてる」

たくまは、

その言葉にわずかに肩を落とした。

九条は続けた。

「でもね。

“選ばなかったこと”にも、

必ず意味があるの」

不動が、

その言葉にわずかに反応した。

九条は、

たくまの目をまっすぐ見た。

「あなたが立ち止まった場所。

そこが、

あなたが守りたいものの“入口”なのよ」

たくまは、

息を呑んだ。

九条は、

さらに言葉を重ねた。

「やりたいことが見つからない?

そんなの、生きてるのに死んでるのと同じよ」

その言葉は、

責めるためではなく、

揺さぶるための言葉だった。

「自分の好きなことが

誰かの役に立つと思えない?

視野が狭いだけ。

世界は広いの。

あなたの“好き”が必要な場所なんて、

いくらでもあるわ」

たくまは、

その言葉を胸の奥で受け止めた。

九条は、

少しだけ表情を緩めた。

「孤独に生まれたなんて嘘よ。

あなたにはお父さんもお母さんもいたでしょう?

じゃあ、

死ぬときはどうしたいの」

たくまは、

答えられなかった。

九条は、

静かに続けた。

「一人で生きるのは否定しない。

気を使わないし、楽よ。

でもね――

誰かと一緒にいられるって、

気持ちが寄り添えるって、

とても暖かいの」

その声は、

母親のようでもあり、

戦友のようでもあった。

「私たちが守っているのは、

その“暖かい日常”なの。

誰かが誰かと一緒にいられる世界を、

続けていくために働いているのよ」

不動は、

その言葉に静かに目を閉じた。

たくまは、

胸の奥に沈んでいた重さが

少しだけ形を変えるのを感じた。


■ 第二幕の終わり

九条は立ち上がり、

会議室の扉に手をかけた。

「……揺れは止まらないわ。

でも、

揺れの中で立ち止まれる人がいる限り、

世界はまだ折れない」

その言葉を残し、

彼女は去っていった。

不動は、

深い青に染まったニュース画面を見つめた。

たくまは、

事故記録を胸に抱えたまま、

静かに息を吐いた。

揺れは続いている。

けれど、

立ち止まる場所は見えていた。



大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。

その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。

けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。

ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。

読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。

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