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『八咫の楔(やたのくさび)』 ー揺れないー  作者: fudo_akira


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2/8

第一幕:農業の揺れ ― 食料の根が折れる

大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。

気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。

忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。

この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。

誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。

冬の朝は、いつもより静かだった。

不動は、深根会の会議室の窓際に立ち、

まだ温度の残る紙コップのコーヒーを片手に、

街の輪郭をぼんやりと眺めていた。

ROOT-LINEに届く通知が、

机の上で小さく震えている。

彼はすぐには手を伸ばさなかった。

外の光は薄く、

どこか乾いた黄色を帯びていた。

その色は、彼の共感覚が示す“揺れ”の色と同じだった。

扉が静かに開き、

農業担当の枝・三浦が入ってきた。

肩にかかった髪が湿気を含んで重たそうだった。

彼女は何も言わず、

資料を机に置いた。

不動は視線だけで合図した。

三浦は椅子に腰を下ろし、

深く息を吐いた。

その仕草に、

昨夜ほとんど眠れていないことが滲んでいた。

「……種子の輸入が、止まりかけています」

言葉は淡々としていたが、

指先がわずかに震えていた。

不動は資料を開く。

数字の並びが、

彼の視界では乾いた黄色に染まっていく。

「農薬の供給も不安定です。

来年の収穫……読めません」

三浦は言葉を切り、

窓の外に視線を向けた。

そこには、

彼女が毎朝作っている弁当の材料が、

来年は手に入らないかもしれないという現実があった。

不動は、資料の端に指を置いたまま言った。

「農業ロボットの特許が外資に買われた件は?」

三浦は小さく頷いた。

「……ええ。

国内で開発していた技術が、

気づいたら別の国の名前になっていました」

彼女は笑わなかった。

笑える話ではなかった。

「農地の買収も進んでいます。

地元の農家さんたち、

“もう続けられない”って……」

言葉の最後が、

かすかに揺れた。

不動は、

彼女の声の色が“薄い灰”に変わるのを感じた。

疲労と諦めが混じった色だった。

彼はゆっくりとコーヒーを置き、

言った。

「食べ物を作る力を失うことは、

国の“根”が腐ることだ」

三浦は、

その言葉に反応するように顔を上げた。

目の奥に、

何かを堪えるような光があった。

「……分かっています。

だから、怖いんです」

不動は頷いた。

彼女の恐れは、

母親としての恐れでもあり、

一人の生活者としての恐れでもあった。

たくまが会議室に入ってきた。

彼は資料を手にしていたが、

開かずに机に置いた。

「……嫌な感じがします」

それだけ言って、

椅子に腰を下ろした。

不動は、

たくまの“初動感覚”が働いていることを理解した。

理由はまだ言語化されない。

だが、立ち止まるべき時だということだけは分かる。

三浦が、

たくまの横顔をちらりと見た。

そこには、

言葉にしない問いがあった。

――あなたも、怖いの?

たくまは視線を落としたまま、

資料の端を指でなぞった。

その沈黙が、

彼の答えだった。

不動は、

ROOT-LINEに指示を送った。

『農業の揺れは外側から来ている。

太陽・水・時間で育つ作物を守るため、

深根会として楔を打つ準備を』

既読が静かに増えていく。

三浦は立ち上がり、

資料を抱えた。

「……行ってきます」

その声は、

母親としての声でもあり、

枝としての声でもあった。

不動は彼女を見送った。

扉が閉まる音が、

会議室に静かに響いた。

たくまが、

不動に視線を向けた。

「……間に合いますか?」

不動は答えなかった。

代わりに、

窓の外の乾いた黄色を見つめた。

その沈黙が、

答えだった。

三浦が会議室を出ていったあと、

扉の向こうの足音がしばらく続き、

やがて消えた。

不動はその音が消えるまで、

一度も視線を動かさなかった。

彼の中で、

三浦の背中にまとわりついていた“色”が、

まだ揺れていたからだ。

乾いた黄色に、

薄い灰が混じっていた。

それは、

「諦め」と「責任」が同時に存在するときの色だった。

たくまは資料を閉じ、

机の端に置いた。

その動作はゆっくりで、

どこか迷いを含んでいた。

「……三浦さん、

ひとりで抱えすぎていませんか」

不動は答えなかった。

代わりに、

机の上のコーヒーを指先で押し、

わずかに揺らした。

その揺れが、

彼の答えだった。

たくまは視線を落とし、

自分の手の甲を見つめた。

そこには、

何も書かれていない。

けれど、

“何かを失う前の感覚”だけが残っていた。

「……僕、

あの人の気持ち、分かる気がします」

不動は、

たくまの言葉に反応するように

わずかに顔を向けた。

たくまは続けた。

「守りたいものがあると、

選べないんですよね。

選んだ瞬間に、

何かを失う気がして」

その言葉は、

誰に向けたものでもなかった。

ただ、

自分の胸の奥に沈んでいたものを

そっと取り出しただけだった。

不動は、

たくまの声の“色”を見た。

淡い青に、

かすかな赤が混じっていた。

迷いと、

後悔の色だった。

不動は言った。

「……選ばなかったことも、

選んだことになる」

たくまは目を閉じた。

その沈黙が、

彼の答えだった。


■ 三浦の現場

三浦は、

農業支援センターの薄暗い廊下を歩いていた。

蛍光灯の光が、

彼女の影を長く伸ばしていた。

センターの奥の部屋では、

農家の男性が書類を前に座っていた。

60代後半。

手は土で荒れ、

爪の間にはまだ土が残っていた。

三浦は静かに椅子に座り、

書類を見た。

「……売るんですか」

男性は、

少しだけ肩をすくめた。

「続けられんよ。

息子も娘も、

帰ってこない」

三浦は、

その言葉に反応しなかった。

反応すれば、

涙が出そうだった。

男性は続けた。

「土地を守るってのは、

もう俺の時代の話だ。

今は……

生きるだけで精一杯だ」

三浦は、

机の上の書類に手を置いた。

その手が、

わずかに震えた。

「……分かります」

男性は、

彼女の顔を見た。

三浦は視線を落としたまま、

言葉を続けた。

「私も、

子どもを育てながら働いています。

守りたいものがあると……

選べないんです。

選んだ瞬間に、

何かを失う気がして」

男性は、

ゆっくりと頷いた。

「そうだな。

選ぶってのは、

何かを捨てることだ」

三浦は、

その言葉を胸に刻んだ。


■ 不動の“色”の揺れ

その頃、不動は会議室に残り、

農業データを再度読み込んでいた。

数字の並びが、

乾いた黄色から、

さらに濁った色へと変わっていく。

「……外側からの圧力だけじゃない」

不動は、

画面に触れた。

「内側の疲弊が、

色を濁らせている」

たくまが顔を上げた。

「内側……?」

不動は頷いた。

「農家も、

行政も、

技術者も、

みんな疲れている。

その疲れが、

揺れを増幅させている」

たくまは、

その言葉をゆっくりと飲み込んだ。

「……じゃあ、

僕たちは何を守ればいいんですか」

不動は、

窓の外の乾いた黄色を見つめた。

「“作物”じゃない。

“作る力”だ」

たくまは息を呑んだ。

不動は続けた。

「太陽と水と時間で育つものを、

人が諦めないようにする。

それが、

深根会の楔だ」

たくまは、

その言葉にゆっくりと頷いた。


■ 第一幕の終わり

三浦はセンターを出て、

夕暮れの空を見上げた。

空は、

乾いた黄色から、

少しだけ柔らかい橙に変わっていた。

彼女は、

胸の奥に沈んでいた重さが

ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。

選べないままでも、

立ち止まったままでも、

それでも前に進むしかない。

彼女はスマホを取り出し、

ROOT-LINEに短く送った。

『農地の件、

まだ終わっていません。

でも……

続けます』

既読がつく。

不動からの返信はなかった。

けれど、

それで十分だった。

沈黙が、

彼の答えだった。


大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。

その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。

けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。

ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。

読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。

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