009 外の世界は甘くない
動きやすい服装に着替えました。そしてエレノラが小屋を訪問するたびに隠していた、木製の梯子を持ち出します。
林から蔦を拾いそれらしく使って太い枝を縛りました。強度はわかりません。ですが長さは、本邸を囲む塀を越えられるぐらいあります。
使用人の方が通る扉を使えれば早いのですが、わたしは鍵を持っていません。他の方々を危険に晒したいわけではないので、すぐ横の塀から逃げます。
最後の一段でバキッと不穏な音がしましたが、どうにか塀を越えられました。
塀から着地することだってお手の物です。
淑女教育の一環で、周囲の地理を学びました。
ウォルフォード辺境領は、隣国フスラン帝国との境にあります。
両国を隔てるのは、ネレピス山脈。山越えは少々難儀ですが、十年間で体力をつけたつもりです。
手続きをせずに隣国へ行くのはいけないことだとわかっています。ですが、国内ではウォルフォード家の追っ手から逃げることはできません。
……わたしに、追いかけるほどの価値があるとは思えませんが。
とにかく、山を越えるために足を動かします。今日中に山の麓辺りまでは進んでおかないといけません。
日が傾き、周囲が暗くなってきました。
進んでも進んでも、今日の目標の山の麓までは全然近づいていません。
あんなに大きく見える山だから、すぐに行けると思って行動したのは誤算でした。
まだ近づけない。
そんな後ろ向きな考えのせいで、急に体力を持って行かれたような気がします。足の付け根が痛くなり、進む速度も下がってしまいました。
進む内に暗くなり、街灯もない場所を進んでいるためにだんだん心細くなっていきます。
わたしは一人で生きていく。
その決意すら、揺らいできます。
それでも前に進むため、足を動かしましたが。
「っ……」
背後から、誰かの足音がしたような気がします。まさか、わたしにも追っ手がかかるような価値があったのでしょうか。
いいえ、ここで足を止めてはいけません。
わたしは、わたしの自由な選択のために一人で生きていくと決めたのです。
「……」
足を止め、背後を確認してしまいます。
少し先の道の形すら曖昧になってきた夜道。わたしと同じ方向に進んでいる足音は、だんだん近づいてきているように感じます。
わたしは痛む足を叱咤して、駆け出しました。背後の足音も、同じ時機に走ります。
わたしはいよいよ怖くなって、無我夢中で足を動かします。
「きゃあっ」
ズデンと、何かに足を取られて足を滑らせました。受身を取れなくて顎の辺りに痛みがあるような気がしますが、わたしは立ち上がって前に進みます。
ですが、足に何かが絡まってきました。いえ、巻きつかれています。
意思を持った何かが、わたしの足を締め上げます。
ぎゅう、ぎゅう、と締め上げられるわたしの足は、どんどん血の気が引いているような気がします。
わたしは、ここで死ぬのでしょうか。
そう、思った矢先。
パッと、目を開けていられない閃光弾が夜空へ打ち上げられました。
わたしの見間違いでしょうか。今、イザヤ様がいたような……。
夜の暗さに慣れてしまった目は、なかなか状況を把握できません。
ひとまず、わたしの足を締め上げていた何かは、力を失っているようです。
恐る恐る、足に巻きついていた何かを取ります。あれだけ力強かったことが嘘のように簡単に取れたそれは、蛇のような輪郭が見えました。
どうやらこの蛇は、気絶しているようです。
先程の閃光弾の影響でしょうか。
なぜわたしを襲ってきたのかはわかりませんが、知らぬ間にこの蛇の縄張りに入ってしまったのかもしれません。
気絶した蛇を手が届く範囲で道の端に置きます。きっと目を覚ましてから、自分の家へ戻るでしょう。
わたしと同じ方向へ向かっていた足音は、今は消えています。
ということは、蛇からわたしを守ってくれた方が、あの閃光弾を放ったということでしょうか。
わたしの見間違いでなければ、それは見知ったお方。
「エミリア。大丈夫?」
「イザヤ様! どうしてここに」
「あ、いや、えっと、おれも故郷に用事があって帰っていたんだけど……いや、言い訳はしない。エミリアが心配で、ウォルフォード家を見ていたんだ」
「なるほど。そこへ、わたしが飛び出したと」
「付け回すようなことをして、エミリアは怖かったよね。ごめん」
シュンと項垂れるような姿が見えるほど、目が慣れたようです。
イザヤ様に助けていただいたお礼をせねばと立ち上がろうとして、できませんでした。
「どうしたの、エミリア」
「申し訳ありません、イザヤ様。安心して、腰を抜かしてしまったようです。お手をお借りしてもよろしいでしょうか」
「おれにも責任がある。エミリアが行きたいところまで運ぶよ」
「い、いいえっ! イザヤ様にそんなことをしていただくわけにはいきません!」
「エミリアに触れる許可をもらえるなら、どうかさせてほしい。罪滅ぼしだと思って」
「い、いえ、ですが……」
腰が抜けていることは事実。
ですが、それを理由としてもイザヤ様に運んでもらうわけにはいきません。
「エミリア。そもそも、どこへ行こうとしていたの」
「えっと、それは……」
追っ手が来る様子はありませんが、来るかもしれません。
わたしが行きたい場所を知らなければ、イザヤ様が問われることもないでしょう。
だから口を噤みます。
「家には戻りたくないんだよね? それなら、どこか寝る場所を捜さないと。誰かに見られることを心配しているなら、野営でよければ準備できるよ」
「イザヤ様……どうして、そこまで気にかけてくださるのですか」
「言ったでしょ。エミリアには幸せになってほしいって」
「ですけども……」
「とりあえず、今夜寝る場所を捜そう。そこまでは背負って行くよ」
イザヤ様がわたしの前で、背を向けてしゃがんでくださいました。そこまでさせておきながら、拒否はできません。
わたしはイザヤ様の背におぶってもらいまいした。
「うっ」と小さなうめき声が聞こえたような気がします。
「エミリアは軽いね」
「そ、そうでしょうか」
「そうだよ」
それじゃあ動くね、と声をかけてくださったイザヤ様は、ゆっくりと動き出します。
「ネレピス山脈の方へ向かっていたように思うけど、とりあえずそっちの方向で良いかな」
「はい。よろしくお願いします」
イザヤ様の背は広く、温かいです。
わたしを気遣うように歩いてくださるから、その揺れがとても心地の良いものに感じます。
温かく、心地良い揺れ。
それは睡魔の訪れを早めます。
わたしはつい、そのまま目を閉じてしまいました。
本日、もう一つ更新します。