049 一枚のメモ
イザヤ様の超人的な精神力でも、八千以上の数値差は耐えられなかったようです。
椅子から転がり落ちてしまったイザヤ様をどうにか床に寝かせますが、わたしが近くにいると意識はずっと回復しないでしょう。
もしかしたら数値差がありすぎてイザヤ様の息の根を止めてしまったかもしれない。
そんな懸念から、イザヤ様の胸元に耳を寄せます。
ドドッド、ドッド、ドドドと、心臓は動いているようですが、聞いたことのない心音です。このままわたしが傍にいては、本当にイザヤ様を殺してしまいかねません。
わたしはすぐに離れるため、窓を開けて外へ飛び出しました。
季節は十一月。風の冷たさに、思わず両腕を抱えてしゃがみ込みます。その際に踏み荒らしてしまったのでしょうか。草のにおいが鼻に届きました。
周囲を窺うと、宿屋は柵に囲まれているようです。以前ヨークボ様から逃れるときも柵がありました。お国が変わっても施設は同じような造りなのですね。
わたしは<防御力205,219>。イザヤ様もお墨付きの数値です。絶対に体調を崩しません。
<防御力>を上げておいて良かったです。こうして、冬の夜に外にいても問題ないのですから。
……イザヤ様とずっと一緒にいたいのに、これでは無理そうですね。
イザヤ様から与えられた宿題を考えるため、イザヤ様のステータス数値に近づこうと思いました。技能牧場の仕様上、仕方なしとはいえ、一緒にいられないのはつらいものがあります。
イザヤ様の意識は、わたしがどれくらい離れたら回復するでしょうか。超人的なイザヤ様ですから、二階から一階の高さで回復しないでしょうか。
いいえ、それはわたしが望んでいるだけですね。ここからなら、声が届くだろうという期待で。
わたしはイザヤ様から離れるため、立ち上がります。どこに行けば良いでしょう。
「……リア! エミ、リア!」
ひとまず敷地の外へ行こうとしたとき、イザヤ様がわたしを呼びました。その声は痛々しく、まだ回復しきっていないと思われます。
一刻も早く、この場を離れなければ。
「まって……待って、エミリア!」
「イザヤ様。これまで大変お世話になりました」
「だから、待って……っ!?」
イザヤ様が息を呑むような声が聞こえ、見上げます。
「イザヤ様!? 危ないです、下がってください!」
「いま、メモを、渡す、から」
窓から身を乗り出してしまっているイザヤ様は、息も絶え絶えという様子です。イザヤ様は超人的なお方ですが、やはりわたしが傍にいるといけません。
しかし、イザヤ様は窓際から動かず何かをしているようです。
イザヤ様ですから、窓から落ちるということはないと思うのですが、今のイザヤ様は平常時の状態ではありません。いつ、また意識を失ってしまうか。
ハラハラしながらイザヤ様の行動を見守っていると、紐がついた紙が下りてきます。この紙を見ろということでしょうか。
見上げると、イザヤ様が窓枠に寄りかかるようにしていました。一階分離れても、まだ数値差の影響が出てしまっているようです。
わたしは紙を受け取って離れようと思いましたが、イザヤ様の手元に戻せるようにか、紐が輪状になっていました。
その紙には、自分の体の中に流れる血流を意識し、その温度を意図的に下げると書かれています。
「血の温度を下げる……どういうことでしょう」
質問をしようにも、イザヤ様は窓枠にもたれかかったまま。答えることはできません。
わたしはイザヤ様の意識が少しでも早く回復するように、宿屋の建物から少し離れました。
そして、イザヤ様が教えてくださったことを考えます。
「まずは、血流を意識する、ですね」
淑女教育の一環で文字の読み書きを覚えてから、講師の方に渡された本があります。わたしには理解できないだろうという、蔑みのお顔を添えて。
そのときに読んだ本の、知識の使い処ですね。
人間ですから、全身を血が巡っています。心臓から太い血管へ、そして毛細血管経て、また違う血管を通って心臓へ戻ります。
血液を循環させるということは、体の隅々にまで栄養を運ぶこと。老廃物を回収すること。体温を調節すること。
他にも様々な役割がありますが、この体温調節を意識すれば良いのでしょうか。
「すぅーーーーーー」
大きく息を吸い込み、冬の冷たい風を肺へ送り込みます。この、冷たい空気を、体全体へ巡るように。
両手を広げ、腕を体から離し、足も横に開き、全身で冷気を感じるようにします。
首や顔、手先など肌が出ている部分に冷気を感じられました。
何度も深呼吸を繰り返しながら、体温調節だけを考えるようにします。
「っ、これは!」
スーッと、まるで体の中に冷たい水を流したような感覚になりました。それが全身を巡るように感じた後、急激に体が冷えていきます。
まるで真冬に冷水を浴びたかのような、そんな寒さ。
その寒さに耐えられず、わたしは体を丸めて両腕で抱きしめます。
「エミリア! 両耳を外に引っ張って!」
纏う空気の調整に成功したようです。
イザヤ様の元気なお声が、上から聞こえてきました。
わたしは寒さで震える体をさすりながら、交差している腕を耳元へ持っていきます。そしてイザヤ様のお言葉通りに、両耳を引っ張りました。
効果はゆっくりと現れます。何度か両耳を引っ張っていると、次第に体が温まってきているような感覚になりました。
体が温まるということは、血流が冷えていないということ。またイザヤ様の命が危ないかと、恐る恐る見上げました。
「すごいね、エミリア。空気の調整、できているよ!」
イザヤ様が嬉しそうです。そんなお声を聞けて、わたしも幸せな気持ちになりました。
わたしは部屋に戻ります。途中で誰にも会わなかったのは、<幸運326>のおかげでしょうか。
「おめでとう、エミリア! これで乗合馬車にも乗れるよ!」
「ありがとうございます。イザヤ様のご教授のおかげです」
「いや、エミリアの理解力と想像力の高さだよ。おれはメモを一枚渡すだけで精一杯だったから」
「いいえ! その一枚が、わたしを成長させたのです」
イザヤ様が笑顔を見せてくださいます。
わたしはまるで、一大事業を成し遂げたような達成感があり、感謝の気持ちを伝えるためイザヤ様の両手を掴みました。
「本当に、ありがとうございます!」
「エ、エミリアっ。手、手っ……」
「あぁ、すみません。つい、嬉しくて」
イザヤ様に指摘され、すぐに離しました。
それでもわたしの中の晴れ晴れしい気持ちは、まだ落ち着きません。全身に力が漲っているような気がします。
「エミ、リア……」
「あっ、申し訳ありません!!」
少々、興奮しすぎたようです。
先程会得したばかりの、血流の温度低下を怠ってしまいました。
これからは、常にこれを意識しなければいけません。イザヤ様と一緒にいるためにも。
明日は金曜日です。
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