010 これからのこと
ひんやりとした冷たさに、わたしは目を覚ましました。
わたしが寝てしまった間に、イザヤ様が全て整えてくださったのでしょう。天幕の中で寝かされていました。
ぼーっとしていた頭は、相棒のように一緒にいてくれる青黒い蝶がわたしの鼻の上に止まったことで目覚めます。
わたしの意識が覚醒したことがわかると、また定位置に行きました。
外を見ると、森の中のだとわかります。あれから歩いて、山の中まで移動してくれたのでしょうか。少し開けている場所のようです。
はっ、はっ、と、イザヤ様の息づかいが聞こえます。
朝から訓練とは、さすが魔王軍の魔獣を倒した英雄様です。体を鍛えることに余念がありません。
天幕の中から出ると、ちょうど日が昇る時間のようでした。イザヤ様に後光がさしているかのように、朝日に照らされています。
剣を振り体を動かすイザヤ様は、肌寒い朝にも関わらず、動く度に汗が飛んでいました。真面目に取り組むその姿は、思わず魅入ってしまいます。
わたしはイザヤ様の訓練の邪魔をしないように、そっと見守ります。
また救われ、お礼もできないまま一夜を明かしてしまいました。何かお礼ができないかと考えます。
ですが、わたしは何も持っていません。
改めて、あまり考えずに行動してしまったのだと痛感しました。
あのときイザヤ様が駆けつけてくれなかったら、わたしはきっと、道端で倒れていたでしょう。
「っし。終了!」
訓練が終わったようです。わたしはイザヤ様に駆け寄り、手巾を取り出しました。
「お疲れ様です」
「エミリア!? ごめん、うるさかった?」
「いいえ。イザヤ様の勇姿を見守っておりました。わたしにはこれぐらいしかできませんが、どうぞこの手巾をお使いください」
「え、そんな、悪いよ。汗臭くなっちゃう」
「汗を拭うために使っていただきたいのです」
「そんな、エミリアが持っていた手巾だなんてっ」
「逃げないでくださいまし」
あわあわと目を泳がせているイザヤ様の手を取り捕まえます。少々強引かと思いましたが、イザヤ様の汗を拭うためにお顔へ手を伸ばします。
シャキーンというような表現が合うような、頭の先から足まで真っ直ぐにしているイザヤ様。緊張しているようにも思えますが、どうされたのでしょうか。
汗を拭い終わるまで微動だにしなかったイザヤ様は、わたしが仕舞おうとした手巾を奪います。どうか洗わせてほしいと。
そんなことまでしていただくのは気が引けましたが、後生だからと言われてしまっては拒否もできません。
イザヤ様は持っていた革の水筒から水を出し、優しい手つきでもみ洗いしてくださいました。
その手巾を乾かすため天幕を張る縄へかけた後、急にイザヤ様が纏う空気が変わります。
水筒を持ち、少し恐れを抱くような気迫あるお顔で、わたしを睨みます。
「イザヤ様?」
「エミリア。そのまま動かないで。サファッラを刺激すると危ないから」
「さふぁっら? 何でしょうか、それは」
真剣な眼差しのまま、イザヤ様は水筒から水を出して手を濡らします。その手を、わたしへ――わたしの少し上の方へ向けました。
……もしかして、青黒い蝶へ何かしようとしていますか?
イザヤ様が見ているのは、わたしの頭の右上。わたしと一緒に来てくれた蝶がいる場所です。
「あの、イザヤ様。説明をいただけないでしょうか」
「ごめん。今は緊急事態だ。サファッラは飛んでいるとき、鱗粉で火の粉を散らす。そうなる前に、討伐しないと」
「ま、待ってください! この子は敵ではありません!!」
「……? ごめん、エミリア。ちょっと意味がわからない。青黒い生き物は、魔獣だ。全て討伐しないと」
「待ってください!」
わたしは十年も一緒にいてくれる友を救うため、イザヤ様の濡れた手を握ります。
「エエエエエエ、エミリア!?」
「落ち着いてくださいまし。この子は、敵ではありません」
「わわわわわ、わかった。話を聞く。とりあえず、手を離して!?」
先程までの気迫がなくなり焦っているかのようなイザヤ様から手を離します。
そして、蝶との出会いを話しました。
「なるほど……。いや、でも、ありえるのか? まさかエミリアがテイマーだなんて」
「ていまー? 何でしょうか、それは」
「テイマーっていうのは、調教するというような意味があるんだ。この場合は、魔獣を調教し指示を聞かせるという感じかな」
「調教……そんな酷いことはしておりませんわ。十年前の雨の日に、助けただけですから」
「テイマーのことはよくわかっていないんだ。隣のフスラン帝国なら、テイマーが活躍しているんだけど」
イザヤ様が、わたしの右上を見ます。いつもの定位置に大人しく止まっているだけですが、それが不思議なようです。
「なぜアラバス王国ではテイマーが普及していないのでしょうか」
「それは……」
イザヤ様は言いづらそうに言い淀みます。
きっと何か理由があるのですね。
「テイマーは、冒険者の中の職業にありますか」
「あると思うけど……この国では止めておいた方が良い」
「先程も言い淀んだ内容でしょうか。もしこの子が仲間としてずっと一緒にいてくれたら、心強いと思ったのですが」
わたしの問いに、イザヤ様は難しい顔をされます。
話題を変えましょうか。
「イザヤ様。わたしには冒険者としての資質があると思いますか」
「エミリア、冒険者になるの? 婚約解消、できたんだ」
「あ、いえ……耐えきれずに逃げ出してしまいました」
「え。それは大丈夫なの?」
「どうでしょう。追われていると思って逃げていましたが、イザヤ様しかいなかったので、もしかしたら追う価値なしとされたかもしれません」
一夜が明け、ウォルフォード家ではわたしがいないことに気づかれたでしょうか。
もし捜されたら、イザヤ様に迷惑をかけてしまうかもしれません。
「エミリアが冒険者になるなら、おれとパーティーを組んで! というか、家を出たなら逆に、冒険者登録をしておかないと駄目だと思う」
「なぜですか?」
「今まで街へ入るときは家の馬車に乗っていたと思うけど、今後は難しいでしょ? 街へ入るためには身分証が必要なんだ。冒険者証は、その代わりになる」
「そうなのですね。それは確かに、冒険者として登録をしなければいけません」
「冒険者は大変な面もあるけど、優遇されていることもあるよ。ネレピス山脈の端に関所があるんだけど、冒険者証を見せると通れるんだ」
イザヤ様は、わたしが向かおうとしていた場所をご存じなのでしょうか。
いえ、確かに、考えればすぐにわかります。ウォルフォード領は隣国との境にあり、アラバス王国の最北東に位置しています。
ネレピス山脈の先には、フスラン帝国しかありません。
にっこりと微笑むイザヤ様は、その身に降りかかるかもしれない危機にすら対応してくれそうな気がします。
確信犯ですね。
それほどまでわたしを気にかけてくださる理由が、わたしに幸せになってほしいからというのは、贅沢なような気がします。
ですが、だからこそ、わたしは告げなければいけません。
「イザヤ様のお気遣いは、大変嬉しいです。しかし、わたしは一人で生きていかねばいけません。これ以上は、イザヤ様のお手を煩わせるわけにはいきません」
「どうして? どうして一人で生きないといけないの?」
「それは……昔、わたしの力不足で親しい人を失ってしまったのです。そんなわたしが、誰かと行動を共にするのは……」
不安を口にするわたしに、イザヤ様は満面の笑みを浮かべます。
「あの、イザヤ様?」
「ああ、ごめん。ちょっと、嬉しくて」
「嬉しい? なぜですか」
「だって、エミリアはおれが死んじゃうかもしれないって思ってくれたんでしょ?」
「そ、そうです! いけませんか」
思わず力んでしまったわたしに、イザヤ様は長袖を捲って左手首を見せてくれます。
そこには、イザヤ様の手首にぴったりと密着しているプラチナのブレスレットがありました。
「おれが冒険者だって話したでしょ? これはその証。冒険者証だね。一応、一番上の等級なんだ」
「え……イザヤ様は、そんなにすごい方だったのですね」
「王都に襲来した、魔王軍の魔獣を討伐しているからね」
「そうでした。イザヤ様は、アラバス王国の英雄様でしたね」
初めて見た場所が王宮だったのに、忘れていました。
いえ、初めて? イザヤ様とは、他で会っているような気がするのですが……どこでしょうか。
疑問に思いましたが、最上の等級のイザヤ様と一緒にパーティーを組むなどと畏れ多くなります。
改めて断ろうかと思いましたが、イザヤ様からニコニコと嬉しそうな笑顔を向けられてしまっては、その言葉も出せません。
いや、わたしは一人で生きていかねばいけないのです。
ですけども……。
死んでしまっては元も子もありません。冒険者として活動を始める最初の方ぐらいは、お力をお借りしても良いでしょうか?
わたしの意思を伝えると、イザヤ様は大変喜んでくださいました。
010をお届けしました。
まだまだ続きますので、ブックマーク登録をしてお待ちいただけると幸いです。




