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純はその映画の券らしきものを握り締め、アフロヘアーが歩いて行った商店街の方へと足を運ぶ。反対方向には、ダンボールを敷いてねっ転がっている方々が多数いたのもある。日本の最下層であろう世界を目の当たりにしたくなかった。所持金50000円、来月に振り込まれる雀の涙程度の失業手当しかない事から、ダンボール生活になるのも時間の問題だと思っていた。貯金などなかった。賃貸料、生活費、各種保険料、雑貨等全て純の給料でまかなっていた。妻であるアイリは純の稼ぎの比ではないぐらい稼いでいたが、結婚生活における費用は飴玉一個ほども出さなかったのだ。
『……思い出したくない』
アイリは何故、純のような男と結婚したのか──純自身も最大の謎だった。出会いは、あるネットゲームのオフ会だった。使っているキャラや、こだわりが一緒だった事もあり意気投合した。話しも合ったし、一緒にいて疲れる女ではなかった。シンプルに好きだったからプロポーズした。ごく自然な流れだ。ただ一つ不自然な事があったが、あの頃は気にも留めなかった。
ただ一つの不自然な事──彼女の素顔を見た事がない。いつも完璧なまでにメイクアップされていた。寝る時もだ。結婚当初、営みもそれなりにあったが、顔には決して触れないでくれときつく言われていた。理由は分からない。目鼻立ちが整っていて、少しハーフっぽいアイナの顔に触れてみたかった。愛しているなら当然の欲求ではあるが、頑なに拒否されていた。
『ふざけやがって……』
仕事柄、感情を表には出してこなかった。幼少期からそうだったかもしれない。いつも一歩引いていたし、我慢し続けていた。心の中のドロドロとした台詞をずっと奥の方に閉じ込めて。
『ていうか、さっきは何かスッキリしたな』
白髪混じりのアフロヘアーとの会話は今までにない感覚だった。ある種の快感のようなものだ。純は、思っていた事を直ぐに声に出して言ったのは生まれてはじめての事だと気付く。言いたい事を割と大きな声で発する事は身体的にも良い影響があるんじゃないかと感じていた。
「お兄さん! 一杯飲んでいって!」
寂れた商店街の丁度真ん中付近で、シワだらけのお婆さんに声を掛けらる。無視しようとしたが、両手を掴まれて、初見では絶対に入らないであろう外見の立ち飲み屋に引きずり込まれた。