偶然か運命か
第96章
エドモンを教皇軍総司令官に任命した法王エマニュエルは、メディチに借りた金の買収工作で法王位に就任したものの同郷の仲間も信頼する味方もいず、法王としての組織運営が思うようにいかない状態でした。特にイタリア半島内の共和国や王国、小領主国家が神聖ローマ帝国側に就こうとする動きを引き戻したいというのが最大の目標で、唯一の味方だと考えていた、遠縁の親戚筋でもあるエドモンも、教会軍の戦闘で負傷していまい、行き詰まっていたのです。
この問題にずっと悩んでいた法王エマニュエルに、あるとき、ジェノヴァ出身の枢機卿が近づいて、「ジェノヴァ駐在の神聖ローマ帝国大使を通じて、神聖ローマ帝国側と秘密裏に交渉する場を仲介できるかもしれません。」
と持ちかけてきました。
安易にも、法王はこの提案に飛びついたのです。教皇領と呼ばれた領地は、現代のヴァティカン市国と比べものにならないほどの規模の広さで、イタリア半島内では有力な ”国家" でもありました。法王エマニュエルはその領地を拡大しないという見返りに、神聖ローマ帝国がイタリア半島内に侵攻したり、衛星国を作ろうとしない、という密約を交わすことができるかもしれないと考えてしまったのです。
外交センスのある良い側近もいなかった孤独な法王に、最近何かと好意的な態度を示しだしていたジェノヴァ出身の枢機卿は、もともとジェノヴァ駐在の神聖ローマ帝国大使フォーフェンバッハとは昵懇で、フォーフェンバッハの狙いは、あの偽造印璽を法王宮内に持ちこみ、息のかかった者に保管させよう、ということだったのです。もちろん皇帝も宰相も、法王との交渉の権限などフォーフェンバッハに与えていたわけではありませんでした。狡猾なフォーフェンバッハは、単なる口実として外交交渉の可能性をちらつかせたのだけだったのです。
ところが早速、この秘密の提案が、トゥールーズ大司教の耳に入ってしまいました。近いうちに枢機卿任命、そして法王位を狙っていたトゥールーズの大司教は、数年前からラングドック地方出身の聖職者によるヴァティカン内に諜報網を作っており、このジェノヴァ出身の枢機卿の妙な動きを察知したのです。
貿易や染料の藍の産業などで大いに繁栄していた都市であったトゥールーズの大司教の経済力は大変なもので、ジェノヴァ出身の枢機卿を金の力で自分の派閥に寝返らせ、取り込むことは簡単でした。
フォーフェンバッハの目的を知ったトゥールーズの大司教は、この印璽を入手し、法王エマニュエルと神聖ローマ帝国との交渉機会を潰し、次に自分が次の法王になったときに神聖ローマ帝国との交渉を有利に運ぶための材料にしようとしたのです。ジェノヴァ出身の枢機卿には「ヴァティカンに届く前に、輸送途中に何者かに盗まれたようだ」という言い訳を用意させました。
問題は「誰に入手させるか」ということでした。
トゥールーズの大司教とジェノヴァ出身の枢機卿の間で相談の手紙が頻繁にやりとりされ、自分たちの身の安全から、事情の知らないヴァティカンの人間に、法王宮の内部ではなく、ローマ郊外のどこかでフォーフェンバッハ側が手配した者から荷物を受け取らせようということになったのですが、ジェノヴァの枢機卿はここで、適役の人材が思いつかず困ってしまったのです。
大変重要な任務だったので、信頼できる人間に任せなければならない。しかも秘密裏に確実に遂行し、この仕事について一切口外しない忠誠心をもつ人物。さらに、フォーフェンバッハが手配した人間が脅してきたりした場合でも対抗できる豪胆な神経の持ち主・・・。
ヴァティカンに勤める聖職者で、そんな都合のよい人材はいるのかと考えたとき、トゥールーズ大司教が、突然思い浮かんだのが、アルフォンソ神父だったのです。「彼ならこちらの依頼に否とも言えず、誰にも秘密でこの任務を遂行するに違いない」と。
実は、トゥールーズ大司教は、アルフォンソがカタリ派の頭目の命を救い、娘と関係して子ども成したことを知っていたのです。
カタリ派は法王庁からは「異端」として迫害される存在ではあったのですが、実は発祥地であるトゥールーズでは、それほど迫害は受けていませんでした。トゥールーズ大司教は表では異端としながらも、裏ではカタリ派に対し、信者数も多かったので寛容な態度をとっていたのです。そのため、娘とアルフォンソの関係を知った頭目が、娘と孫の身を案じ、いざというときは密かに匿って保護して欲しい、と大司教に事情を話していたのです。トゥールーズの大司教としては、そのときは特に何も行動を起こす必要はなかったので、そのまま聞き流していたのでした。
突然、トゥールーズ大司教からの手紙を受け取ったアルフォンソ神父は驚きました。そして手紙の内容を読んで、愕然としたのです。
【・・・カタリ派の頭目の娘との間の事情は知っている。秘密を世間に暴露されたくなかったら、命令に従うことを求める。貴公もその娘の身の安全を守りたいだろう。・・・】
―この命令に逆らったら、エレノアやフィリップまでにも害が及ぶかもしれない・・。ー
アルフォンソ神父は仕方なく、ローマ郊外のエレノアの母の家で運搬してきたものを受け取ることにし、念のため護身用に、あの剣を持参することにしたのです。
ローマ郊外のどこかで受け取れという命令のため、エレノアの母が住む家を受け取り場所に指定したのですが、彼女に面倒をかけたくなかったので、家の中では受け取ることはせず、家の外に出てしばらくしてから受け取り、もし相手と何かトラブル発生したら相手を剣で脅し、ひるんでいる内に逃亡しようと考えました。それで、アルフォンソ神父は久しぶりに、宝物庫に預けてあった宝剣をレオナルドに依頼して持ち出したのです。
ジェノヴァの枢機卿がトゥールーズ大司教に寝返ったことを知らないフォーフェンバッハは、
「ローマ郊外で、こちらが手配した信用のおける法王宮内の人間が荷物を受け取りに行くので、指定の場所まで荷物を運ばせれば問題ない」というジェノヴァの枢機卿の話を受けて、何の疑いもなく、いつも彼の裏仕事を請け負っている配下に、運搬役を用意するよう指示したのでした。
そして、偶然だったのか運命だったのか、この印璽をローマ郊外のエレノアの母の家まで運搬する裏仕事を請け負ったのが、若き日のジェロームだったのです。
【参照】スピンアウト作品『ジェロームの半生』
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