リッカルドの最後
第91章
「やっと安心したようだね」
キプロス王は無事、キプロスのヴェネツィア商館で保護したという速報を聞いたマリアンヌの顔を見て、リッカルドは少しからかうように話しかけました。
「まだ話せるうちにマリアンヌ、あなたに話しておきたいことがある。長い間あなたの看護を受けてここまで生き延びることができたが、もうそろそろだろう。」
リッカルドは元首宮内の二人きりの病室で、マリアンヌにこれから告白することを書き留めてくれ、頼んだのでした。それは懺悔とも遺言ともとれるような内容でした。
「マリアンヌ、天に召される前に、いや、私は果たして天国へゆけるのかな。きっと天国の門前で追い返され、奈落に突き落とされるかもしれないな。これから言うことは、一切質問はなしで聞き取ってくれ。
私はこの60年の間、祖国の繁栄と安寧のために全身全霊をかけて努めてきたと自負している。その点について後悔はないし、この国に歴史に書き記されて残るのだろう。
ひとつだけ気がかりなのは、その裏で行ってきた私的ともいえる活動のことだ。私の父が、ある国を巻き込んだ計略の波紋に、私は長い間対処し続けてきた。父が差配したその計略は、サンマルコ共和国の利益のため正当な理由があると私自身も信じていたから、父の指示に従い、積極的に協力もした。しかし、こんなに長き渡り、多くの人生に影響するとは予想していなかったのだ。
人を政争の道具扱いしてしまった。
そう、エレノア様のことだよ。事の発端は当時、陸上輸送時の関税問題だった。輸入した商品をイタリア半島の各地やフランス、神聖ローマ帝国領地などで交易をしていたヴェネツィア商人にとって、内地で輸送時にかかる関税が大きな負担となっていた。そのため隣国一帯をサンマルコ共和国の衛生国家として取り込むことが、喫緊の課題だったのだ。
マリオ・フォスカリ殿の父上と私の父と、どちらが計画の首謀者なのかは分からないが、当時近隣諸国で一番勢力のあった領主、あのフランソワの父王に、関税引き下げに関する取引を行う材料として、息子の嫁として美しい娘、エレノア様を差し出し、彼女の出生の秘密を握らせ、相手国をコントロールするという下劣だが効果的な手段を用いたのだ。私は当時まだ若く、父にいち早く功績を認められたいと必死だった。
ただ、初めてエレノア殿を拝見したときから、私から彼女への想い永遠になった。彼女への思慕は、陰ながら彼女が傷つかないように守りたい、不幸にしてはいけないという強い想い、そして自分ができる限り彼女の子どもたちを守らなければという想いになっていったのだ。
マリアンヌ、かつてあなたをフランソワのもとに愛人として送り込んだのも、政治的な計略だったとはいえ、エレノアからフランソワを引き剥がしてやりたいとう私情が挟んでいたのかもしれない。キリスト教徒としては、あまりに愚かなことをした。」
ここまで話して、何かを思い出すような顔つきになったリッカルドはしばらく黙ったまま、宙を見つめていましたが、マリアンヌは何も質問せず相ずちも打たず、そのまま彼が話しを再開するのをそっと待ち続けました。
「そう、以前、きみは私に質問したよね。なぜ私が、身内でもないフィリップ殿をそんなに守ってあげようとするのかと。あの純粋でまっすぐな青年、自分の母エレノアを守ろうと必死になっていた青年を手助けできるのは、私の喜びでもあったのだ。
私を信頼してくれるようになったフィリップ殿が、将来ヴァティアンの中枢に、そしていずれ法王の座についてくれれば、ヴェネツィアとしても外交交渉が円滑に進むという目算があったのは当然だが、それ以上に、フィリップを支えたいという個人的な感情があったことは否めない。エレノア様の、あの人の周りがますます複雑な難しい状況になればなるほど、その想いは強くなっていったのだ。
幸いなことに、直接会えないときでも、サンマルコ共和国の情報網はつねに素晴らしい水準で機能していたからね、適切なタイミングで手立てを打てることができた。
フィリップが幽閉され、フォーフェンバッハに洗脳されて心を閉ざしてしまった後、マリアンヌ、あなたがフィリップの元に訪ねにいって誤解を解いてきてくれたときは、本当に感謝したよ。私は元首という身の上、本国から動けなかったからね。ジェローム王を連れて行ったことも実は知っていた。
最後のお願いが2つある。本当にこれが最後だ、マリアンヌ。今私が話したこと、フィリップ殿に私がしてきたことを書き留めてくれたね。それをフィリップに渡してくれ。最後の署名くらいならまだ出来る。
ああ、それにしても、ジュリエットとロバート殿が結婚か。嬉しい想定外だった。二人を結びつけたのは君だね。マリアンヌ。マリアだけでなく、エレノア様も天国で喜んでいることだろう。」
「ジュリエットは一族の中でも一番エレノア様の面差しを受け継いでいるわ。」
黙っているつもりだったマリアンヌは、思わずそう口にしてしまいましたが、リッカルドは微笑むだけでした。
「そしてもう1つ、マリアに渡して欲しい手紙をかいておいた。ただし私が逝って、マリアが落ち着いてからにしてほしい。私は立場上、生前彼女には話せないことがたくさんあった。精神的に強くない繊細な彼女にはいろいろ気苦労や心配をかけてしまったと思う。私亡き後、彼女の心の支えになるような手紙になればいいが。」
それまで穏やかな口調で話していたリッカルドが急に、いつもの冷静沈着な声で突然マリアンヌに問いかけました。
「まだロバード殿が幼い頃、彼を治療して体調を快復させたのは君だったね」
「何を今さら?あなたが私を推薦して宰相の家に入り込ませたんじゃないの」
「これからの交渉相手は彼だよ。彼が帝国の司令塔になるはずだ。フィリップ殿に手紙を渡すとき、そう言い添えてくれ。ロバートの動きから目を離すなと。」
「安心して,リッカルド。ジュリエットによれば、フィリップとロバートはすでにしっかりした信頼関係が出来ているようよ。」
やるべき仕事はすべて終えたというリッカルドの安堵の気持ちを感じたマリアンヌは、あふれ出てきそうな涙を必死にこらえて話しかけます。
「ねぇ、リッカルド。私は好き勝手な人生を自由に生きてきたと思っていたわ。そのためにあなたに協力したり利用したりしてきたつもりだった。でも違ったわね。あなたの掌の上で遊ばされていただけだったみたい」
「では、そういうことにしておこう」
「リッカルド、もしかして私はあなたのことを誰よりも信用していたのかもしれないわ。そう、誰より心を許していたのかもしれない。」
「それは、愛の告白かな?」
「そうね。愛していたのかもしれない」
「ふふ、そうか、カルロスよりもジェロームよりも?」
「やだ、本当にあなたの諜報網は恐ろしいわね。そうね、カルロスは幼友達ね。ジェロームも愛していたかもしれないけれど、私はヴェネツィア女よ。恋愛感情より信用を大切に考えていることはご存じでしょ」
リッカルドの訃報は公式な通知が来る前に、マリアンヌの手紙で、フィリップの知るところとなりました。
リッカルドはジュリエットの結婚式に参列することもなく、その結婚式をフィリップが司祭として執り行ったことも知らずに、息を引き取ったのです。




