フォスカリ家とベレッツア家
第89章
ジェローム王の左腕の切断手術後の経過も良く、二日に1回は左腕の副官が変装してヴェネツア商館に商談のふりをして来訪、ジェローム王の過ごす部屋はさながらキプロス王宮の臨時出張所の様相でしたが、母国の経済的便益を維持するためにも、信頼関係にあるジェローム王の再起を望むサンマルコ共和国としては、最大限の便宜を図ることにしていました。
ただ、そういった政治的経済的な意図とは別に、もともとジェローム王と友好な関係にあったマリオ・フォスカリは個人的にも彼の体調を気遣い、たまに彼の療養する部屋で雑談を交わすようになっていったのです。
『あと2,3日で王宮に戻られてもよろしいかと、驚異的な回復力ですな、』と診断した医師も驚いたころ、いつものようにジェローム王の部屋に様子をうかがいにきたマリオ・フォスカリに、「今回の借りはどういった形でお返しすればよいだろうか」とジェローム王が尋ねました。
「いえ、今までと同様に交易について最恵国待遇をいただければ充分ですが、可能であればヴェネツィア船用の港の補修作業に人工を割いていただけると大変助かります。」
「なるほど、王宮に戻り次第、さっそく手配しよう。その程度のことでは恩は返し足りないが。守銭奴のマリオ・フォスカリ殿には、借りはできるだけ早く返さないと、何を言われるかわかったものではないからな。」
ジェローム王の軽口に、思わず笑ってしまったフォスカリはつい、流れで、個人的な話を始めてしまいました。
「実は先日、本国の甥から連絡があり、私も個人的にかなり昔に父が交わした妙な貸借契約を精算しなくてはならなくなりまして」
「ほう、面白そうな話だな。今日は左腕も来ないから、よければ暇つぶしに聞かせてくれないか? 」
ジェローム王に促されて、フォスカリは珍しく身の上を交えた長話をしたのでした。
「フォスカリ家はサンマルコ共和国の元首を輩出したことのある古い家柄ですが、私の両親には長く子どもができなかったため、ずっと後継者問題に悩んでいたそうです。私は両親が結婚15年目にしてやっと授かった男子だったため、両親の愛情を一身に受けて大切に育てられました。父は唯一の跡継ぎである私に幼い頃から経験した様々なことを丁寧に話してくれました。
そんな子ども時代、父から聞いていた話のひとつに、アルフォンソ・ベレッツアというシチリアの貴族出身の神父の話がございました。父がまだ元老院議員でもなく一商人として活躍していた若い頃、商用でナポリにいたとき、サラセンの海賊団に襲われ格闘となり大けがをしてしまったことがあったそうです。そのとき見事な外科手術を行い、命を助けたのが、僧職に入る前の若きアルフォンソでした。
父が聞いたことには、このときのアルフォンソはフェデリコⅡ世大学を卒業し、当主の証の剣を受け継いだものの、父が再婚した女性とともに暮らすのがいやで、各地で医術を学ぶため放浪し、ナポリ女性と恋に落ちて、そこで医師として暮らしていたときだったそうです。
このときから父はアルファンソを命の恩人として感謝し「困ったときはいつでも頼ってきてほしい。」と常々彼に言っていたそうです。シチリアの屋敷で居場所がなかったアルフォンソにとって、父は、自分の父のような存在だった一方、なかなか子どもができない父にとっても、息子のような弟のような存在だったようで、手紙のやりとりをずっと行っていたと聞いています。
手紙のやりとりの中で、父がその後アルフォンソがナポリの女性と別れ、僧籍に入る決意をしたが、僧院に行く途上の宿でたまたま大きな怪我人を抱えた旅の一行に出会い、父のときと同じように無償で、外科手術を行い命を救ったことがあったことを知りました。そしてその怪我人の娘と一晩をともにしたのだとか。。
僧籍に入ったあと、その娘が妊娠したことを知り、母子の生活を守るために、ついにアルフォンソ神父は父に経済的援助をお願いしたそうです。真面目な彼はただ金をいただくわけにはいかない、これを担保に、と父に差し出したのが、「ベレッツァ家の当主の証の剣」だったとか。
この宝剣というのが、その昔、ベレッツア家のご先祖が、イスラム軍との戦いの中で敵将から奪い取ったものだそうで、戦闘用というより儀式用というべき宝石などが多数象嵌されたとても見事なものだったと聞いております。
アルフォンソから事情を聞いた父は、担保の宝剣を一目みて、これはご実家の大切な家宝なのだろうから、引き続きあなたが持っていなさい、と宝剣を受け取らず、かなりの額の援助し、それだけでなく、その生まれた娘の将来のことまで気に掛けておりました。
産まれた子が12歳になったとき、『娘の将来をどうするのか?』と父は問いかけたそうですが、アルフォンソは答えに窮してしまったようです。単なる神父である彼には、どこかの修道院に入れるくらいしか手立てはなかったからでしょう。
このとき父は、彼女を養女にしてくれる奇特な貴族の家を紹介できるのだか、と持ちかけました。いままでの経済的援助の恩もありますし、また僧籍にあるため娘の幸せな将来像を描けなかったアルフォンソ神父にとっては、この上もない良い話だったと思います。彼は父の提案に乗りました。
「立派な剣を持った神父か。そういう人物はよくいるものなのか。かなり昔の話だが、私もまだ血気盛んな十代の若い頃、聖職者のふりをして荷物を運搬するという裏の仕事を請け負ったとき、すんでのところで同行した神父から剣で斬り殺されそうになったことがある。まあこっちも変装していたから、剣を振り下ろした人間も、相手に警戒されないように聖職者に変装かもしていただけかもしれないが。」
「これも何十年も前の話で、私も父の言動から、お金を貸したというより、アルフォンソ神父に命を助けられたお礼に、父が彼に援助してあげたと理解しておりました。それがつい先日、シチリアのアルフォンソ神父の親族と思われる人物から、アルフォンソ神父と父が交わした貸借契約書についての警告の手紙が届きました。なぜ今さらと思ったら、どうもその宝剣がヴァティカンの宝物庫から見つかり、アルフォンソ神父自身のご遺体も発見されたとの連絡が、法王の秘書館長からシチリアのベレッツア家に入ったのだそうです。
「最近ご遺体が発見されたとは、穏やかではないな。」
「どうも10年以上前にアルフォンソ神父は行方不明になっていたそうで、そのこともベレッツァ家の人間は今まで知らなかったそうです。」
「そういうものなのか?いくら僧職に入ったとはいえ、聖職者が家族と全く連絡をとらなくなるとは聞いたことがないが。」
「交流がなかったようですね。警告の手紙を送ってきたベレッツァ家の現当主は、アルフォンソ神父が僧籍に入る前、ナポリで医学を学んでいるいたとき付き合っていた女性が母親で、その後、庶出でありながら跡継きを失ったアルフォンソの父により養子として正式に迎え入れられた人物だったようです。彼はおそらく『当主の証の剣』の存在については聞いていたのでしょう。自分の出自の引け目からか、どうしても手に入れたいのではないでしょうか。きっと以前から、己の正当性の証拠となるものを探していたのでしょうが、アルフォンソ神父と私の父との貸借契約書を見つけてしまった。ただでさえ自分の母を捨てた憎い父であるアルフォンソ神父が、宝剣を返さずに勝手に借金の担保にしてしまったという証拠を見つけて、激怒したようです。”フォスカリ家に対して、あの宝剣を担保にした貸借契約は無効であり、そもそも宝剣はベレッツァ家で受け継がれてもので本来ならば門外不出である、貸借契約をたてに宝剣の所有をヴァティカンに訴えたら、血を見ることになる”と脅してきました。」
「もうよい年齢の人物だろうに。血気盛んだな。それで、宝剣はまだヴァティカンにあるわけか。そんな高価な宝剣ならば、場合によってはヴァティカンが所有権を主張するかもしれないぞ。」
「もちろん当家としては、権利放棄しても良いのですが、いろいろと手続きが面倒そうで。こちらからも秘書館長殿に連絡をとらなければ。本国とは高速ガレー船があるのですが、ヴァティカンあてだと陸路なので手紙のやりとりに予想以上に時間がかかってしまうことがあります。」
そこまで言って、フォスカリは口をつぐみました。
-そういえば、ジェローム王はジュリエット様のご婚約をご存じなのだろうか。ジュリエット様が書かれたロバート殿との婚約報告の手紙は、自分のキプロス帰還より先に高速ガレー船で送ったはず。もしかしてまだ開封していないのか・・・。-
「フォスカリ殿、どうかされたか?」
「いえ、つい長話してしまいました。そろそろ昼食の用意ができる頃でしょう。今日のところはこのあたりでお暇いたします。」
ジェローム王の部屋を出て執務室に向かいながら、フォスカリは頭を仕事モードに気分を切り替えました。
-イエニチェリに襲われた船がコンスタンチノープルに着いて2週間になる。そろそろスルタンの動静に何か変化が現れる頃だろう。いまはその情勢に注視し、何か動きがあればいち早く対応しないといけない。お祝い事は、まあ状況が落ちついてからで良いだろう。-
【参照】スピンアウト作品『ジェロームの半生』
https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/2311827/




