ジェロームの左腕
第87章
「この出血さえ止められれば・・・」
サンマルコ共和国海軍の船室の中で、マリオ・フォスカリは深手の傷を負って真っ青になって震えている男を抱きかかえ、軍医の応急処置を手伝っていました。
緊急外科処置のために、強い酒を一口飲ませようとした軍医に、苦しい呼吸ながらも「いや、このままで」と答えた壮年の鍛え抜かれた身体の持ち主は、痛みに必死に堪えて縫合手術を受け、最後に「ありがとう」と感謝を伝え、やっと安心したのか、意識を失ったかのような眠りにつきました。
「いや、驚きました。かなり強い意志をお持ちのかたですね。刀傷を受けた腕には、綺麗に治っていた昔の傷の跡がありました。フォスカリ殿、切断されかかっていた左腕が元通りになるかどうかは、まだわかりません。傷口が壊疽してしまったら、改めて切断しなければならなくなります。まだ予断は許さない状況ですが、もともと体力のある方のようなので、まずは充分に栄養を摂っていただけれるようになれば。」
そう軍医がフォスカリに説明していたときに、艦長がやってきました。
「手術は無事終了したようですね。ご苦労だった。下がってよろしい。もちろんここでの事は一切口外しないように。」
軍医を下がらせたあと、艦長はフォスカリと話しを始めました。
「いや、驚きました。フォスカリ殿の予測された通りでしたね。」
実は、ジュリエットとロバートの婚約報告を受ける少し前、元首リッカルド自身がもう先はあまり長くないと判断し、今後の方向性を協議するために密かに十二人委員会を招集していたのです。キプロスの情勢については大きな課題だったため、フォスカリも緊急招集されたのでした。一時帰国の直前に、スルタンの弟がイエニチェリの暗殺部隊を送り込んだという確定的な情報を得ていたフォスカリは、自分が不在の間、キプロスに駐留していたサンマルコ共和国海軍の艦長に、密命を与えていたのでした。それは、身の潔白を申し開きするためにコンスタンチノープルのスルタンのもとへ向かう船上で、キプロス王ジェロームがスルタンの弟から送り込まれたイエニチェリに狙われる可能性が高く、その船に追走して様子を探ること、何か異変が起きたら即対処してほしい、という内容でした。
そして実際、ヴェネツィア本国での協議を終え、急ぎ帰国したフォスカリでしたが、ちょうど帰国便の船からキプロス島のヴェネツィア専用の港で下船したときに、サンマルコ共和国海軍の船が入港してきたのです。何かいつもと違う船上での慌ただしい様子に、フォスカリはすぐ乗船させて欲しいと艦長に伝えたのでした。
「まさか、本当に船上で斬り合いが始まり、怪我人が海に飛び込むとは。3名ほどが海に飛び込んだか落ちたかしたようで、1名は重傷、1名は残念ながら救出できず、1名は軽症です。こちらは白旗を揚げたまま後方から追跡していましたが、海に落ちた人間を誰も救助しようともせず、こちらが怪我人を救出しても、キプロス船は何らこちらに攻撃をしかけることはなく、そのままコンスタンチノープルに向かっていきました。」
「艦長殿、聡明なあなたならもうおわかりになっていらっしゃると思うが、あの方はキプロス王ジェローム殿だ。」
「やはり、スルタンの弟が派遣したイエニチェリに狙われたのですね。しかし愚かなことを。あのロードス島でのことからも、スルタンにとってより忠誠心を示しているのはジェローム王なのは明白。彼の善政のおかげで、スルタンへの上納金も増え、やっかいな弟にスルタンが味方するはずもないのに、キプロス王を排斥しようと企むとは。」
「王が不在になったところで、ジェローム王の部下達はスルタンに反旗を翻すことはないだろう。スルタンの弟の側についたら、それこそスルタンから迫害される危険性が高い。それより、キプロス王の無事を信じて、経緯を報告してスルタンの指示を仰ぐのが賢明だ。」
「軽症の一人からは聞き取りが可能です。王の衛兵の一人のようです。別室にて休んでおりますが、こちらに呼びましょうか?」
「いや、万が一、スルタンの弟と通じていたとしたら危険だ。そのまま逃亡できないよう船内に軟禁して経緯だけ聞き取り、監視を続けておいてくれ。今はまだ、王宮の状況がわからない。安全だと確認できるまで、ジェローム王は商館で安全にお過ごしいただこう。」
翌日の午後になって、キプロス王宮からの使いがヴェネツィア商館にやってきました。キプロス王の副官の使いと名乗る人物が、“ちょっとした行き違い”があって、船内で刃傷沙汰に発展してしまったが、無事混乱は収まった。ヴェネツィア軍が救援活動をしてくれた感謝の意を表し、救出した人間は王宮に戻らせるように、との連絡でした。
「キプロス王殿はどうされたのか?別の船にて、無事コンスタンチノープルに向かわれたのか?」
果たしてイエニチェリの暗殺部隊は船とともにコンスタンチノープルに向かったのか、逃亡したのか、スルタンの弟の一派が王宮内まで掌握したのか判断できなかったフォスカリは、わざとそう質問を投げかけてみました。
もちろんフォスカリはジェローム王の副官と知己があり、副官は商館長であるフォスカリとキプロス王がビジネス上よく直接会談をしていることを知っています。
フォスカリの問いかけに、一瞬動揺した使いの者は「私は伝言の役目だけですので」と質問には答えず、黙ったままです。
「救出できたお二人は、まだ怪我の具合が悪く、安静が必要です。もうしばらくの間、ここで治療に専念しないと命の保証はない、との医師からの判断です。あくまでこちらの善意で身柄を確保し、助けた命ですから。そもそも敵との戦闘でもないのに彼らを救護もぜす、そちらの船は現場を離れました。怪我人を見捨てられた。今さら戻れとは、キプロス王は何を考えていらっしゃるのやら。」
「こちらの要求を拒否なされるのですか?」
「いや、救護の責任を放棄されたあなた方には、要求する権利も資格がないと申しております。」
そのまま何も言わず、王宮の使者は帰っていきました。
ーさて、ヴェネツィア本国にはこの状況をどう知らせるか。その前に、キプロスの意識が回復し、王宮の状況がどうなっているかを確かめて、正確な情報を整理だな。。とりあえず、ここに在住しているヴェネツィア人の安全確保のために、状況がはっきりするまでヴェネツィア軍の船はしばらく停泊してもらうとして、コンスタンチノープルの大使とも連絡をとらなければ。。。ー
その晩、マリオ・フォスカリの書斎は深夜まで灯りがついたままでした。




