二度目の密談
第71章
ロバートが法王フィリップとの会見を前に控えの間に入ったときでした。数名の修道女たちが出入りしていたのですが、その中にジュリエットがいたのです。
「ジュリエット、なぜここにいるんだ? どこにいるかわからなくて、何度もヴェネツィア大使に問いただしたんだぞ。マリアンヌに尋ねても、教えてくれないし。」
何も答えられないジュリエットに、その場にいた別の修道女が代わりに答えました。
「あの、お人違いではないでしょうか?ロバート様。このアガタ修道女見習いは病気が元で、口がきけなくなってしまったのでお答えできません。それ以上責めないでくださいませ。」
アガタ?いやあれはジュリエットに違いない。どういうことなんだ?
動揺するロバートでしたが、そのとき法王の謁見の間に呼び出されたので、まずは特使としての任務を果たさねばなりません。後ろ髪をひかれる思いで、ロバートは謁見の間に入室しました。
謁見の間には、穏やかな表情のフィリップが待っていました。ロバートは心を落ち着かせ、法王就任のお祝いと、無事ヴェネツィア経由でキプロスとの錫の取引が始まったこと、地中海の安定のために今後もフィリップを支持する旨を述べました。
「ロバート殿、来てくださって本当に嬉しい。お父上が御帰天なされたことについては、しばらくの間、うかつにも存じ上げなかった。さそやお辛かったでしょう。あなたの心の平安を心からお祈りいたします。」
「猊下、恐縮至極に存じます。」
「ところで、ご婚約おめでとう。いつ正式に発表されるのかな?よろしければ明日、お祝いをかねて、ささやかではあるが正賓をともにしたいと考えているのだが、いかがだろうか? 」
「まだいろいろございまして、正式には・・・」
「何か事情があるのかな。本日はこれから聖金曜日のミサを執り行わなければならないので、時間がないのだ。明日、ゆっくりと話そう。」
「はい。喜んで。」
控えの間に戻った時は、もうジュリエットらしき姿は見当たらず、代わりに先ほどロバートに話しかけた修道女が、小さく折りたたんだ手紙をそっとロバートに渡して去って行ったのでした。
『ロバート様、今までのご恩を背くような振る舞い、大変失礼いたしました。いつか私の過去をお知りになりたいとおっしゃられていらしたかと存じます。非礼のお詫びに、すべてを説明いたします。今すぐには出来ませんが、時がきたら必ず全て。お詫びのしるしに。それでお許しください。私がここでのお役目を果たし終わった時に必ず。それまでは私のことは法王猊下にも内密にお願いいたします。 アガタことジュリエット』
翌日の正賓の場には、プライベートなものだったので、ロバートはフィリップと二人でじっくりと話すことが出来ました。フォーフェンバッハを追ってキプロスまで行き、そこでヴェネツィア商館長フォスカリの協力でジェローム王に面会できたこと、それがきっかけで懸案だった錫の取引の話が進んだことなど話しましたが、ジュリエットの脱出は秘密事項だったので、一切話しませんでした。
「そうか。ロードス島防衛戦の前に帰国することが出来たのだね。それは幸いだった。私もその頃は、一修道士として諸国を巡っていたから、そんな事になっていたとは知らず、たまたま立ち寄ったジャンカルロのところで聞いたのだよ。」
「伺ってよろしいでしょうか。なぜ一度、秘書館長という地位を離れられたのですか?」
「私がこの道に入ったきっかけでもあった、双子の妹を亡くしてね。いや、それまでの間、政治的な駆け引きや調整ごとに、疲れてしまっていたからかもしれない。もともとそういうことは得意なほうではないのでね。今一度、信仰の道の原点に立つ帰りたくなったのだ。」
「でも、今はまたここへリーダーとして戻られました。」
「それは、やはり不意打ちのように若きスルタンが突然戦いを仕掛けてきたことが原因だ。無益な戦いを収束させたかったのだ。亡くなった双子の妹の夫であるカルロスが、陣頭指揮をとるために前線に行き、負傷したということも個人的には大きなショックだった。誰かがヴァティカンをまとめないと和平交渉ができない。私が法王に選ばれたのは神のご意志だが、すべきと思う義務から逃げるべきでないと考えた。」
「すべきと思う義務…私はまだそこまで自分の意思を貫くことはできますかどうか。。。」
前回の会談のとき、ドロテアの名を聞いてショックで倒れてしまったときに比べ、ロバートはすっかり立派になったと感じていたフィリップでしたが、何か悩みがあるようでした。
「ロバート殿、昔話はこれくらいにして、未来の話をしよう。婚約が進まないのは何か事情があるのかな。」
「お相手の方は、ご身分もお人柄も容貌も私にはもったいないような姫君で、ほんの小さな領地しか受け継がなかったわたしには釣り合わないかと。皇帝陛下からのお話だったので、あちらも困惑されていらっしゃるようです。それに私には…、いえ。やはり過ぎたお話だと思っております。」
「いや、私はすっかり貴国の大使から伺った際、正式に決まったものだと勘違いして、お祝いのお手紙を出してしまった。大変失礼した。」
「いえ、私が喪中であったこともあり、きちんとした回答を陛下にする前に、姫君の父であるプロシア選帝侯からも、注文がはいったようで。」
「注文?」
「私の資質に関しての問い合わせがあったようです。皇帝陛下というお立場だからこそ、有力選帝侯の一人に対して、勝手に事を進めることなどできません。私がどういう人物か見極めたいということのようです。当然ですね。現時点では大した資産を持たない身の上ですから、今後出世できそうか能力・体力を確認したいのでしょう。私が幼少期に病弱だったことは、宮廷内では有名な話でしたし。」
「なるほど、それでこうして外交手腕を見せるために、派遣されてきたのだね。」
「猊下にお会いできることは、楽しみでもございました。ヴァティカンを去られていた間は私的なお手紙のやりとりも中断していましたから。」
「私ももう逃げ出すつもりはない。地中海の安定が続けるために、私はここに戻ってきたのだから、ずっとここで職務を果たすつもりだ。」
「そのお言葉を伺って、安心いたしました。」
正賓の間ずっと、アガタと名乗っているジュリエットがなぜここにいるのか聞きたくてたまらなかったロバートでしたが、あの渡されたメモの内容を守って我慢しました。そして心の中で、すぐ手紙で駐ヴァティカン大使に任命してもらうことを皇帝陛下に直訴しよう、と決心したのでした。
「そういえば、フォーフェンバッハの処遇はどうするつもりなのか?私もすっかり彼に欺されてしまっていた。今思えば、なぜ私に貴国の偽造された印璽の捜索など、私に依頼するどころか、そんな情報を私に明かすこと自体あり得ないのに。私もあのときはどうにしかしてしまっていた。親族よりまったく赤の他人の言うことを信じ込んでしまうなんて。」
「あの印璽の問題は無事問題なく解決しましたので。結局“偽造印璽”などなかったのです。」
「おそらくそうであろうな。私も宝物庫の中まで必死に探したが見つからなかった。もともとそんなものはなく、何らかの目的でついたフォーフェンバッハの嘘ではないかと思っていた。」
フィリップが都合よい誤解をしてくれたところで、入室してきた秘書官から「猊下、次の会見のお時間です。」という言葉に促され、ロバートはお礼を述べてから退出しました。
「猊下、どうなされました? お急ぎください。フランス大使が謁見のためお待ちしております。」
「いや、あとで、秘書館長を呼んでくれ。頼みたいことがあるのだ。」




