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アガタという名で

第68章

 ローマへの出立の前夜、マリアンヌはジュリエットに法王となったフィリップへの私信を託しました。それは表向きはリッカルドからの個人的なお祝いの手紙でしたが、そこに素性を伏したジュリエットを召使いとして勧める、いわば推薦状でした。

 

 「このたび推挙する者は、わが国で数々の治療薬や美容薬を作ることで有名な女子修道院で修行を積んだ、優秀な修道女見習いです。身の回りのお世話だけでなく、お怪我の処置や体調不良への対処、疲労回復などの治療を行うことができます。何があろうとも、彼女はあなたの味方になります。決してあなたを裏切りません。信頼しておそばに仕えさせていただいて大丈夫です。

 ただ、彼女はあるお薬の取り違え事故が原因で口をきくことができません。聞くことはできますし、理解力は高く大変聡明ですが、しゃべることは出来ない唖の女性なのです。」


 ヴァティカン駐在のサンマルコ共和国大使とともに、手紙を携えて挨拶にきた聡明そうな若い女性に、なぜか最初からとても良い印象を受けたフィリップは、リッカルドの推薦ということもあり、そばにおいて世話をしてもらうことにしました。おそらくマリアンヌが薬草治療を指導した修道女見習いの一人であろうとは思いましたが、しばらくの間ヴァティカンを不在にしていたので、人間関係が把握しかねており、一人でも信頼できる人間が身近に欲しかったのです。


 ジュリエットは「アガタ」という偽名を名乗り、フィリップの側に仕えました。着替えなどの身の回りの世話をさせていたある日、フィリップが法王宮内の階段で足を滑らせ、打撲を負うという事故が起きました。偶然か誰かの悪意なのかは分かりませんが、溶けたろうそくのかけらが落ちていたのです。すぐにジュリエットは腫れてしまった足首を鎮静させる処置を施し、痛みをとる飲み薬を処方したのです。しかも飲み薬はフィリップの前で、まずは自分が飲んでみせてから、手渡しました。その適格で落ち着いた行動にすっかりフィリップはアガタを信用し、それ以来、自分の健康管理や、予定管理など、秘書的な役割も任すようになりました。文字の読み書きができることに気づいたフィリップは、簡単な口述筆記まで頼むようになりました。


 ジュリエットは、はじめて会った本当に父に、ジェロームとはまた違った暖かさを感じ取ったのでした。自分がしたちょっとしたことでもすぐ「ありがとう」と声をかけてくるフィリップに、毎回心が温かくなりました。足の治療をしたときなど「アガタ、あなたがいてくれて本当に助かった。心から感謝するよ。」言われた時は、思わず声をあげて飛び上がってしまいそうなほど嬉しかったのです。

 自分が必要とされている、必要とされる方に信頼されることはこんなに幸せなことなのかと。今まででもっとも毎日が充実していると感じていました。


 「このままここでずっと、父のそばでお世話したいと思っています。」

週に一度、外出許可をもらい、ジュリエットはマリアンヌの経営する店に薬の補充にやってきて、そこでマリアンヌにヴァティカンでの暮らしについて話をしていました。

 ずっと以前に、ローマでの開業免許を受けていたマリアンヌでしたが、ジュリエットのヴァティカン滞在を機に、ローマ市内に店を開いたのです。まだ10代半ばのジュリエットを単身ローマに送り出すことはマリアンヌには心配で出来なかったのです。


 「フィリップ殿はジュリエットにとてもよくしてくださっているのね。私も少し安心しました。」

 「はい。ただ、相変わらず夜遅くまで執務室でお仕事をされていて。毎日こなさなければならない行事もたくさんございますし、お疲れが溜まっているようで心配です。」

 「首筋や背中など、少しマッサージして差し上げると良いかもしれないわね。血行をよくするクリームがあるわ。新製品なんだけど、ヴェネツィアでも好評なの。このクリームの使い方は・・・」

 

 頼れるマリアンヌに相談しながら、自分を信用してくれる父のお手伝いができる。ジュリエットにとって、この上なく幸せな日々でしたが、そんな生活がふた月ほど続いた頃、マリアンヌは個人的な手紙の口述筆記をフィリップから頼まれました。


 それは、ロバートへの婚約祝の手紙でした。


 いつもは間違えずに、すらすらと口述筆記するアガタが、何度も書き損じているのに気づいたフィリップは、話すのをやめて、ジュリエットに声をかけました。

 「アガタ、どうしたのか? もしかして、体調が悪いのではないか?」

 首を振るジュリエットでしたが、自分でもどうしてこんなに動揺するのか、分かりませんでした。

 「今日のところは、もう休みなさい。少し目も赤く潤んでいる。熱かあるのかもしれない。ここのところ、急に冷え込んだから。私のためにとっておいてある薬湯があるなら、それを飲みなさい。私は大丈夫だから。あなたが倒れてしまったら、私が困ってしまうからね。」


 目を伏せたまま一礼をして、ジュリエットはフィリップの私室から退出しました。自室に戻るまで必死に堪えていましたが、寝台に倒れ込むと、あとからあとから涙があふれてきたのです。

 どうしてこんなに胸がはりさけそうなのか、自分でもよく分かりません。明日一番に外出許可をとって、マリアンヌのお店に行こう。マリアンヌに相談しよう。

 声を出さないように必死に手で口を塞ぎながら、ジュリエットはそう考えていました。


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