すれ違う心
第64章
マリアンヌはロバートの、ジュリエットへの感情の変化に気が付く前に、宰相の屋敷を出立することになりました。もしロバートがジュリエットへ思慕の情を持っているとわかったら、宰相の看護をジュリエットに任せることなどしなかったでしょう。
ロードス島防衛戦がイスラム側の事情によりあっけなく停戦となったため、カルロスは無事帰国したのですが、戦闘中の脚の怪我の後遺症に苦しんでいて、マリアンヌの治療を望んでいることが、実家からしばらくぶりに戻ってきたマレーネからの情報で分かったのです。
「カルロス殿って、やせ我慢でいうのかしら。決してご自分でお願いしようとしないのだけれど、ソフィーお姉さまに、わざとそれとなく“マリアンヌがいてくれたら”とか訴えてきたのよ。しかも変なプライドかしら“ジャンカルロには言わないでくれ”とか。いずれ絶対ジャンカルロ殿からロバートに相談が行くとわかっているくせに。で、わたくしがこうしてマリアンヌ様に直接お伝えすることにしましたわ。」
宰相の容態がかなり落ち着き、久しぶりにマレーネ、マリアンヌ、そしてジュリエットの女三人で気楽なお茶を一緒に楽しんだときのことでした。
「マレーネ様、カルロス殿の負傷というのは、どの程度なのでしょうか?」
「私も、もちろんジャンカルロ殿もソフィーお姉さまも本人にお会いしていないからわからないけれど、痛みとしびれがとれないとか訴えているそうよ、マリアンヌ。」
「でも宰相殿の容態も、ご高齢ですし、決して気を抜ける状態ではございませんから。」
「でもね、あの様子だと、マリアンヌが来てくれるまで駄々こねそうよ。そのうちジャンカルロ殿からも要請が入るんじゃないかしら?」
「本当にみんな次から次へと!ジュリエット、二人で手分けをして対応しないと無理だわ。カルロス殿の傷の具合は診てみないとわからないし。しばらくの間、あなた一人で宰相殿の看護を頼めるかしら?」
「もちろんです!私がお役に立てるのなら、喜んで」
「ジュリエット、あなたがいてくれて本当に助かったわ。」
ジュリエットの明るい返事に、すっかり安心したマリアンヌは、”困ったことがあればロバート殿に相談してね。”とアドバイスして、カルロスの屋敷へと向かったのでした。
マリアンヌが出立した翌日、ロバートは皇帝からの呼び出しを受けました。父宰相の容態の報告と、ロードス島での紛争が落ち着いたので、本格的に皇帝の侍史として、キプロス王との具体的な錫の取引交渉と締結、フォーフェンバッハの処遇などの仕事をスタートさせることになったために、それから忙しい日々を送ることになりました。
皇帝の信任を得るために精力的に仕事をこなそうと頑張るロバートでしたが、改めて父の偉大さと痛感するとともに、慣れない仕事に肉体的精神的な疲労が重ねって、ある日帰宅とともに、居間のソファに倒れこんでしまったのです。
そこへたまたまジュリエットが通りかかり、急遽ロバートの手当をしたのでした。
「すまない、ジュリエット。父の看護だけでも手一杯のはずなのに。」
「いいえ、大丈夫です。ロバート様に恩返しをしないといけない身の上ですし。」
「恩返し?」
「ロバート様、あのキプロスからの帰国の船上でのアドバイス、その通りでした。私はここで自分がやるべきことが見えてきた気がします。」
ーあのときは単に元気づけたくて、ジュリエットの話を聞いたのだが、今はもうジュリエットに特別な感情を抱いている自分がいる。家に帰ればジュリエットが待っていると思うだけで、力が湧いてくる。このまま彼女がずっとここにいてほしい。できれば独り占めしたい。ー
「ジュリエット」
「はい?」
「いや、なんでもない。父の具合はどうかな?」
「はい、かなり痛みは軽減されていらっしゃるようで、ご機嫌もよろしゅうございます。」
「よかった。あなたのおかげだな。ここに残ってくれて、本当にうれしい。」
「いえ、できることをしただけです。必要とされることが、こんなに幸せなんだと、初めてわかりました。」
「できれば、あなたの負担でないなら、私の治療もたまにはしてもらえるだろうか? 最近いろいろなことが気になって、なかなか寝付けないんだ。」
「もちろんですわ、ロバート様。」
それから週に1回か2回、特にロバートが疲労や頭痛を訴えた日に、ジュリエットがラベンダーのクリームで肩や腕、首筋などをマッサージ治療することになりました。ロバートが外套を脱いで居間のソファに座ると、治療開始の合図でした。
「今日は昼すぎから、ちょっと頭痛がするんだ。」
「肩も張っていらっしゃるようですね。目もお疲れのようですから、頭もほぐしましょう。」
治療のはじめに、簡単な会話を交わしたあとは、ジュリエットはずっと黙って治療を続けます。薬草のよい香りとマッサージの効果で心地よくなり、ロバートがそのままソファで寝込んでしまうことも多かったのですが、そんな時でもジュリエットは目覚めるまで側に控えているのが常でした。
ある晩、そのまま夜中まで眠り込んでしまったロバートがふと気がつくと、すぐ横でジュリエットは、ロバートが寝ていたソファに寄りかかりながら寝息をたてていました。
「さすがに父と私と二人の治療では疲れがたまっていたのだろう。つい甘えてしまって、申し訳ないことをしたね、ジュリエット」
そうつぶやくと、ロバートは感情を抑えられず、ジュリエットの唇に軽いキスをしたのです。ジュリエットは眠ったままでした。
それ以来、ロバートは真剣にジュリエットとの結婚を意識し始めました。もちろん彼女が元キプロス王の妃であったことも、表向きは処刑された存在であることも知っていましたが、愛妾などではなく、正式な夫人として迎えたかったのです。
彼女と一緒になることは自分が幸せになることであり、同時に自分だけがジュリエットを幸せにできると思ったのです。そう考えたときはじめて、それはジャンカルロに言われた通り、あれほど憎んでいたフォーフェンバッハへの復讐など、どうでも良くなってしまったことに、ロバート自身が驚きました。
自分のことを知って欲しくて、ロバートは治療中にマリアンヌとの出会いや過去の思い出をジュリエットだけに話すようになりました。ジュリエットは治療しながら、ただ聞いています。最初はそれだけでもロバートも満足でした。
そうして、ジュリエットにすっかり心を許したロバートは、ついに今まで誰にも話せなかった母の殺害未遂現場の話を話してしまいました。さすがにロバートもそのときは感情が昂ぶり、涙が止まらなくなりました。いつもはただじっと話を聞いているジュリエットでしたが、そのときだけは治療の手を止め、まるでロバートが小さな子どものように優しく頭を撫でながらロバートの耳元で「大丈夫よ。ロバート。大丈夫」と囁いたのです。
それからは、ロバートはジュリエットの全てが知りたくなったのです。彼女の過去を全て受け入れたいという気持ちが抑えられなくなっていました。
「ジュリエット、あなたの過去も聞きたい」
「お話するようなことなど何もございません。以前お話したように、幼い頃に修道院に預けられ、マリアンヌ様から薬草の治療の手ほどきを受けただけです。」
ジュリエットは、決してロバートに無関心だったわけではなかったのですが、恩人もしくは彼女の治療の対象として重要なかた、としか認識していませんでした。マリアンヌから教えてもらった父と母のことなど、自分自身ですら飲み下せてない事情をとても他人に話に話すつもりはありませんでした。
目を伏せて黙り込んでしまうジュリエットを前にロバートは「今はまだキプロス王への思いを断ち切れないでいるのか」と誤解していたのです。
時間をかければ、ジュリエットは必ず私の気持ちを受け入れてくれる、と思っていたロバートでしたが、皇帝陛下からの一言が、彼の期待を壊したのです。
それは、ロバートの縁談話でした。




