感情の変化
第63章
「そなたは、マリアンヌか?」
「はい、宰相殿。お久しぶりでございます。」
寝室に横になったままの宰相の衰弱した姿に、動揺の表情を見せまいと平静を装っていたマリアンヌでしたが、自分を覚えていたことにマリアンヌ自身だけでなく、ロバートも驚いたのでした。
「父上、そうです。かつて幼かった私を治療してくださったマリアンヌ殿です。このたびは父上のために来ていただきました。」
「そうか、マリアンヌ、息災であったか?隣に控えているのは、そなたの娘御であるか?」
「いえ、私の助手でございます。お役に立てるかと思い、連れて参りました。どうぞお見知りおきを。」
宰相の屋敷に到着したその日から、マリアンヌとジュリエットは治療を開始しました。足腰の痛みを緩和し、頭痛を和らげるくらいのことしか出来ない状態でしたが、よほど心地よいのか、宰相は日に2回も3回もマリアンヌのマッサージを所望したのでした。長時間のマッサージはかなり体力が必要だったので、時にはジュリエットが交代して、治療を続けていたのです。
「父が治療をよほど気に入ったのか、重労働になってしまい、申し訳ない」
「いえ、ロバート、ジュリエットもいるから大丈夫よ。」
「おかげで、父は夜もよく眠れるようだ。最近は食欲も出てきたようで、侍医も驚いていた。」
「でも、伺っていた通り、記憶は曖昧のご様子ね。特に最近のことは。ジュリエットに会う度に、私の娘なのかと質問なさってくるわ。」
「私も、“ロバート、大きくなったな”としょっちゅう言われているよ。」
「昔の記憶のほうが覚えていらっしゃるのね。マレーネ様のことは覚えていないご様子でしたし。」
「義母も、そのことがショックだったようで、父のそばにいるのが耐えられなくなったのか、最近はしょっちゅう実家に戻っております。」
「きっとマレーネ様もここにいるのはお辛いのでしょう。」
ジュリエットは、マリアンヌとロバートが会話している時は、ほとんど聞いているだけで、会話に入ってくることはありませんでした。ロバートは以前より増してジュリエットがおとなしく控えめになった気がして、気がかりでした。
ある日、マリアンヌの代わりにジュリエットが治療を終え、宰相の私室から退出したタイミングで、ロバートが声をかけました。
「ジュリエット、よかった、治療を続けてくれていたんだね。新しい人生の一歩を踏み出すことが出来たんだね。」
「いいえ、ここへマリアンヌ様と一緒に伺うことになったのは、私の意思ではなかったのです。私と、私の母との関係を考えて、マリアンヌ様が連れてきてくださったのです。」
「母?」
「あ、すみません、ロバート様には関係のないことを・・・」
「いや、よかったら聞かせてくれないか?」
「でも・・・」
「私もいま、義理の母との関係にちょっと悩んでいるんだ。あの薬草園のときみたいに、話をできないだろうか?私もあのとき、あなたと話をしたことで、とても心が落ち着いたんだ。」
「私がロバート様のお役に立てるのであれば。。」
「じゃあ、今日は天気がいいから2階のテラスへ行こうか。」
わざわざ母に会わせてくれたのに、母と打ち解けることができなかったことがマリアンヌに申し訳なくて、ジュリエットは一人悩んでいたのでした。そこへロバートが優しく声をかけてくれたので、つい心のうちをロバートに話していました。
「私、ロバート様とお別れした後、マリアンヌ様のご厚意で、実の母に会うことができたのです。でも、私、何も感じることができませんでした。私を産んでくれた母なのに。懐かしさも感謝の気持ちも湧いてきませんでした。やはり孤児院で育つと、家族愛がわからないのかもしれません。人として、どこかおかしいのかもしれません。ロバート様はお母様のために危険を冒してまで敵を取ることまでなさったのに。私は・・・」
「人としておかしいなんて。私が知っているジュリエットは、とても心温かくて、気遣いのできる素晴らしい女性だよ。母上は初めてあった、全く知らない方だったのでしょう? そういう感情が湧かなくて当たり前だよ。逆にマリアンヌ殿はあなたにとって大切な家族でしょう?
「もちろんです!マリアンヌ様がいなければいまの私はあり得ません。マリアンヌ様と一緒にいると楽しいし、彼女が喜ぶと嬉しい。彼女の教えに従っていると、自分が正しい道に進んでいる気がしますし。。」
「それが家族ではありませんか? 私もマレーネ様とはいまだに他人行儀なところがあって、正直マリアンヌ様とのほうが素直に話ができるのです。やはり一番弱っていた幼いころ、心を込めて手当をしてもらったからでしょう。私も義母のマレーネ様より、マリアンヌ様に親しみを感じています。やはり自分のことを考えてくださった方に親愛の情を感じるのは当然です。」
気が付くと、ジュリエットは大粒の涙を流していました。
思わず、ジュリエットを優しくハグするロバート。ジュリエットはその動作に抵抗することもなく、そのままロバートの胸の内でしばらく泣いていました。
このときジュリエットは、自分がいままで密かに抱えていた孤児であったことへのコンプレックスが氷解したような気がして、抑え込んでいた感情が緩んでただ泣いていたのでしたが、ロバートはこの時に、『ジュリエットを守ってあげたい』という自分の気持ちに気が付いたのです。それが恋愛感情に発展するのは、とてもたやすいことでした。




