脱出前夜
第53章
スルタンの艦隊がロードス島に向かって出発したとの情報がキプロス王のもとに入ってきたと同じ日に、マリアンヌはヴェネツィアの商船でアランとともにキプロス島に到着しました。
出発前、マリアンヌは悩んだ末にリッカルドに内密に今回の渡航の目的を相談し、サポートを依頼していたのです。地中海の不穏な情勢については、もちろんリッカルドはすでに把握していたので、マリアンヌの希望をすぐ理解したのでした。
「表向きは商人ということで、キプロスとの定期便をもつ商船の船長に依頼しておく。船長は信頼できる口の堅い人物だから安心してほしい。あと船長にヴェネツィア商館長フォスカリへの手紙を託しておく。彼が王宮まで案内してくれるだろう。ただ、マリアンヌ、キプロスでの滞在はてきるだけ短くして欲しい。短期間に情勢が悪化する可能性がある。開戦となったら商船でも巻き込まれる。くれぐれも用心して欲しい。」
「それなら、アランに同行してもらうことにしました。」
「アラン?」
「カルロスのご長男よ。マリアエレナ様の忘れ形見。まだ10代の若者で経験不足だけど、体力と正義感は充分。そろそろ息子に世界を見せたいというカルロスの親心で、護衛の立場で同伴させて欲しいと頼まれたのよ。」
「本来なら、カルロス殿が同行してくれた方が私としては安心なのだが、やはり奥方を亡くされたばかりで、難しいか。」
「実地経験を積むのが一番というカルロスらしい教育ね。カルロスに似て、ちょっと先走っちゃうところがあるけど、そこは私がうまく手綱を引くわ。」
「わかった。そこは任せる。元首としては国家の養女の処刑は遺憾の意を表すだけで、何もできないが、私個人からキプロス王に、ジュリエット脱出の提案をしてくださったこと、感謝の意を伝えてくれ。」
キプロス行きの船旅は特に大きな問題もなく、マリアンヌはヴェネツィア商館の館長フォスカリの先導で、王宮にやってきたのでした。
キプロス王宮の中庭で微笑みながら自分を待つジェロームの姿を見て、マリアンヌは一瞬、今回の目的を忘れてしまうところでした。
しばし見つめあう二人でしたが、ジェロームの傍らにはマリアンヌに再会できて泣きそうな表情のジュリエットが控え、そしてマリアンヌに従っていた護衛役のアランは、このとき、ジュリエットに一目惚れしていたのです。
マリアンヌはキプロスへの船旅の間に、キプロスとサンマルコ共和国は通商上友好関係を維持していること、ジュリエットの後見人がマリアンヌで、政治的な目的でサンマルコ共和国の養女という立場でキプロス王の下に嫁したこと、今回、表向き処刑となる彼女を内密に救出すること、まではアランに説明しましたが、もちろんジュリエットの出生の秘密については一切話していませんでした。
アランは、まるで冒険譚を聞くような気持ちでマリアンヌの説明を聞き、まるで自分が可愛そうなお姫様を救いにいく騎士になった気分でいたのです。そのお姫様が可憐な美しい少女だったので、彼はますます気分が高揚してしまったのでしたが、挨拶と合わせがすむと、彼は一人、先にヴェネツィア商館戻るようにと言われてしまったのです。
アランが退出した途端、ジュリエットはマリアンヌに駆け寄って抱きつき、しばらく泣いていました。
「あら、ジュリエット、まだそんな子どものようなことをして・・・」
「実際、まだ子どもだ。まだ夜伽は命じておらぬ」
「え?」
「せめて16になるまで待つつもりだった。まだ心も体も大人になっていないからね。」
マリアンヌがジュリエットを慰めている間、ジェロームはずっと二人を見守っていました。
「ジュリエット、落ち着いたら、お茶を運んできてくれないか?あと最近そなたが作ったクリームも持ってきてはどうかな。師匠に出来を見ていただこう。」
ジュリエットが中庭から建物の中へ消えてから、ジェロームとマリアンヌは中庭の泉の側のベンチに腰かけて、話を始めました。
「今回の救出劇については、元首殿は理解してくださっているのかな」
「ええ、リッカルドは個人的にサポートしてくださっています。彼と私は古いなじみなので、すべてを理解してくださったわ。」
「古いなじみね、私も君と若い時からの深い仲だと思っていたが」
「ジェローム・・・」
「先に用事を済ませてしまおう。実は、ここキプロスにもう一人、あなたの古い知り合いが来ているんだ。」
「え?」
「彼も商人のふりをしているんだが、神聖ローマ帝国宰相のご子息のロバート殿だ。彼は個人的な事情で、ある人物を追ってここまで来たのだが、私と取引をしてね、ジュリエットの帰国の同伴してくれるように頼んでいる。」
「ロバートが? 長いこと会っていないわ。」
「昔は病弱だったそうだね。あなたのおかげで、今やすっかり立派な青年だ。」
「そう、ロバートが。」
「正直に話そう、まもなく新しいスルタンの艦隊がロードス島に到着するだろう。地中海は臨戦態勢に入る。帰りの船旅はますます危険なものになる。君を運んでくれたヴェネツィアの大型商船は海軍のサポートでなんとか無事に帰国できる最後のチャンスだ。一週間以内には出港のはずだ。それにロバートと一緒に乗り込んでくれ。あの、アランという少年だけではあなたとジュリエットと同時に守れるか心配だ。ロバートを同行させてくれ。ロバートはあなたを恩人だと思っている。身体を張って必ず守ってくれるはずだ。本当は私自身があなたを守りたいのだが。」
「ジェローム・・・」
そこへ、お茶のセットとクリーム持ったジュリエットが帰ってきました。マリアンヌは早速、クリームを自分の肌で試し、その出来を褒めると、ジュリエットは「嬉しい」と頬を染めました。その姿を見て穏やかに微笑むジェロームの様子は、大切な娘を見守る父親のようでした。
翌日の昼過ぎ、今度はマリアンヌだけ再び王宮に来てほしいと言われたので、マリアンヌはアランには、帰りの船旅で必要な物資の買い出しを依頼し、商館長フォスカリの案内で再び王宮へと向かいました。向かう途中、彼から、キプロスにいるヴェネツィア商人たちにはここ数週間のうちに帰国命令を出す予定だという話を聞き、本当にギリギリのタイミングだったのだと痛感したのです。
「あなたはどうされるのですか? フォスカリ殿」
「最後の一人が帰国するまでは、私はここに残ります。キプロス駐在の我が国の大使は、ちょうどあなたと入れ違いで、状況報告のため本国に帰任してしまったので、私が兼任することになっておりますので。」
フォスカリの覚悟を決めたその様子に、マリアンヌは緊迫した気持ちにならざるをえなくなりました。
王宮では、ジェロームと、ロバートがマリアンヌを待っていました。幼い頃の面影は残っているものの、背も高くすっかり頼もしい体つきとなった青年ロバートを見て、マリアンヌは心なしか嬉しくなってしまいました。
「ロバート、本当に久しぶりね」
「マリアンヌ、またお会い出来て嬉しいです。こういう形で、あなたのお役にたてるようになるとは、やっとあなたに恩返しができます。」
「マリアンヌ、ロバート殿、申し訳ないが、再会の喜びはそのくらいにして、早速打ち合わせに入ろうか。残念だが時間があまりない。先ほどフォスカリ殿から、帰国便の出航が前倒しになり4日後になりそうだという連絡を受けた。」
それから三人で細々とした打ち合わせを行っている間、マリアンヌはなぜロバートがキプロスに滞在していたのかという、余計なことは本人が言い出すまでは聞かないことにしました。今は無事ジュリエットを救出することだけに集中しよう、そう思っていたのですが、何か吹っ切れたような快活な様子のロバートに比べ、ジェロームがとても疲れているように見えたのです。
実際、一通りの打ち合わせが終わり、ロバートがちょっと席を外したときに、思わずマリアンヌのほうから「もしかして、お疲れなのではありませんか?」とジェロームに声をかけてしまうほどでした。
「ああ、さすがに3日も寝ていないとそうなるな」
「まあ、ジュリエットの治療は受けていないのですか?」
「国に返すと決めてから、なるべく二人きりにならないようにしている」
「このままでは、戦が起こる前にあなたが倒れてしまうわよ。」
「そうだな。では弟子ではなく、師匠に治療してもらえないだろうか?」
その日と、翌日もマリアンヌは王宮に留まり、翌々日の昼に、ジュリエットを伴ってアランの待つ宿に戻ってきたのでした。




