本当の特使
第49章
「ようこそ、お越しくださいました、ロバート・ヴァイツァー殿。私はヴェネツィア商館の館長マリオ・フォスカリと申します。」
「こちらこそ、正賓のお誘い、感謝いたします。私の名前をご存じということは、私の身分もおわかりになっているのですね。」
「失礼いたしました。我が国の情報網はご存じかと。神聖ローマ帝国の宰相のご子息がキプロスまでいらっしゃるとなれば、我々としても注視せざるを得ません。
「では、フォーフェンバッハのことも」
「はい、ジェノヴァから出航したときから。もちろん我々はあなたの敵ではございません。ただ、ここは交易が盛んとはいえ、イスラム教の国。同じキリスト教徒としてお困りなのであれば、お助けしたいと思いまして。こちらが知っていることをお話しようかと存じます。」
世界一と言われるサンマルコ共和国の情報網というのはこのことか、とロバートは驚きつつも、打開策が欲しい一心で、話を聞くことにしました。
「簡潔に申し上げましょう。錫の取引に関しましては、長年の交渉の末、我が国が扱わせていただくことでキプロス王と正式に合意しております。」
「今さらジェノヴァを引き込もうとしても無駄ということですね」
「はい。そのように宰相殿にお伝えください」
「あの、フォーフェンバッハの身柄はどうなると思われますか?」
「キプロス王がお決めになることです。ただ、拘束されているということは、キプロス王が彼の言動に激怒していることは確かですね。もし彼が宰相から派遣された交渉代理人ということであれば、正式にキプロス王に、申し開きされたほうがよろしいかと。この国では、家来が主人の意向に反した行動をとる可能性は考えません。このままだと我が国経由だとしても、キプロス王が貴国に錫を売ることはしないでしょう。」
その翌日の夕方に、ロバートはヴェネツィア商館の館長フォスカリとともに、キプロス王宮での謁見に向かったのでした。
「ああ、本当の特使がいらしたようだ。予想より早かったようだ。ありがとう、フォスカリ殿。ロバート殿とは面識がある。二人だけで話したいから、席を外してくれ。」
お辞儀をしてすぐ立ち去るフォスカリが扉に向こうに消えるのを確認してから、ジェロームはロバートに話しかけました。
「ヴァティカン以来かな、ロバート殿。宰相殿は息災であられるかな? フォーフェンバッハは体調を崩していると言っていたが。」
「お久しぶりでございます。父へのお気遣い感謝いたします。特に病もなく過ごしておりますが、さすがに長旅は難しく。ただ、今回私がこちらに伺いましたのは、正式な特使ではございません。よってキプロス王と交渉する権限は持っておりません。実はフォーフェンバッハを探しにここまで参りました。」
「彼の暴走を阻止せよと宰相殿に言われたのか?」
「いえ、政治的なことではなく、個人的な怨恨です」
「では宰相殿は、本当にジェノヴァ経由での取引を望んでおられるのか?」
「いいえ、それはフォーフェンバッハが勝手に考えたことかと。それに昨日フォスカリ殿から、錫の取引はヴェネツィアを通して行うと正式に契約されたと伺いました。その旨、父宰相に申し伝えます。」
「なるほど、では今回のフォーフェンバッハの提案は、忘れることにしよう。」
「ありがとうございます。」
「ところで、フォーフェンバッハの行動は、宰相殿はどこまでご存じなのか?」
「わかりません。父はフォーフェンバッハに何か命じたようですが、 私には何も。」
「宰相殿は、ご子息であるあなたよりフォーフェンバッハを信用されているということかな」
キプロス王からの挑発的な質問に、ロバートはつい声を荒げてしまいました。
「父は知らないのです。フォーフェンバッハの裏切りを。自分の出世のためになら何でもする男です。宰相の妻であった私の母を殺そうとした!それを知ったら父も彼を見限るはずです。」
しばらくの沈黙のあと、ジェロームは、弟をいたわるような声でロバートに話しかけたのでした。
「なるほど、その証拠をつかむために、彼を追ってきたのか。証拠の品が見つかればよいが、自白させるのは難しそうだぞ。」
「ならば私的に復讐します。母が受けた苦しみを味わわせてから、亡き者にします。私の手で」
「ロバート、罪を犯した者を罰するのは、国の安定と公正を乱した者には有効だが、私怨による復讐は、次の復讐を誘発するだけだぞ。」
「では、私の母の無念は? 父はフォーフェンバッハに騙されて母の不貞を信じ込んだまま、母を見捨てた。母は無実のまま幽閉先に一人亡くなってしまった。私はフォーフェンバッハが、母に斬りかかったところをこの目で見たんだ!」
興奮して思わず叫んでしまったロバートに、ジェロームはゆっくりと近づいて、優しくハグして、落ち着かせました。
「いいかい、ロバート、これはキプロス王としてではなく、人生の先輩の言葉として聞いてくれ。人というものは、愛する家族を失っても、絶望しても、何か希望があればどんな過酷な環境でも生きていける。生きていけるなら、必ず新しい可能性が開けてくる。復讐などするのは時間の無駄だ。幸せになれる機会を逃すな。」
そう言うと、ロバートの背中をポンポンとたたいて、ジェロームは腕を戻しました。
しばらく肩を震わせていたロバートはでしたが、なんとか心を落ち着けてキプロス王に答えました。
「ありがとうございます。幼い頃、私は母が傷つけられたショックに一時記憶を失い、全く無気力な虚弱体質な子ども時代を過ごしていたのです。見かねた父が、ある治療師の女性を連れてきてくれました。毎日治療したあとに、今あなたがしてくださったように、ハグして背中をやさしくたたいてくれました。あなたから微かに漂うラベンダーの香りで、思い出しました。彼女が治療につかっていたオイルと同じ香りがします。」
「マリアンヌ?」
「え?彼女をご存じなのですか? マリアンヌはいつも私に、あなたは大丈夫よ、と励ましてくれました。今わたしがこうして父の手助けをできるようになったのも、マリナンヌの治療のおかげです。」
驚いたように一瞬目を見開いたジェロームは、しばらく考え込んだ後、「ロバート、あなたにお見せしたいものがある」と言って服の中に隠していたビロードの小袋を取り出しました。
「父上を納得させるための証拠の品になるかもしれない。これは貴国の皇帝陛下の印璽です。もちろん陛下の許可なく作られた偽造でしょう。皇帝の命令であえて作られたのか、宰相殿が密かに作らせたのか、そのあたりの経緯までは私は知らないが、これを法王宮内に持ち込もうという陰謀があった。その黒幕がフォーフェンバッハです。」
「え、そもそもあなたはフォーフェンバッハの仲間だったのですか?」
「私がまだジェノヴァの船乗りの仕事をしていた若い頃、フォーフェンバッハは駐在ジェノヴァ大使だった。当時の私は人生に絶望し、生活も荒れていて、金が欲しさに水夫仲間の口ぎきで、彼の裏の仕事を請け負っていたのですよ。フォーフェンバッハは私のことなど覚えていないだろうがね。
あるとき、法王宮内に荷物を運び入れるという仕事を受けたのだが、、荷物の中身がこのような豪華な印璽だとわかって身の危険を感じ、この印璽を持ったまま逃亡した。その後運命の巡り合わせで私は改宗し、キプロス王に使える身となり、この印璽の持ち主が誰なのかと調べた。そしてフォーフェンバッハが、いや宰相でさえ国外に持ち出せるようなものではないと分かり、明らかにこれは偽造されたものだと確信した。」
突然の話に、声が出ないロバート。ジェロームは話しを続けます。
「その後、キプロス王として私がヴァティカン宮に乗り込んで、あなたも同席の上、錫の取引の件で秘書館長のフィリップ殿と会談したときは、フィリップ殿とフォーフェンバッハがこの偽造印璽にかかわる陰謀の黒幕だとにらんでいたのですよ。場合によっては、あの場でフィリップ殿を問い詰めようかと、あの会談のときもこの偽造印璽を持参していた。
ところが、会食の途中であなたは母上の名前を聞かれて倒れ、気を失われてしまった。」
「あのときは、大変な失礼を・・」
「いや、逆に良い機会を得ることができた。あのあとフィリップ殿と話して、彼もまたフォーフェンバッハに騙され、利用されていたことがわかった。フォーフェンバッハがフィリップ殿を取り込んで、ヴァティカン内に送り込んだはずのこの偽造印璽がないか探させようとしているのだな、と分かったのだ。
しかしあの場では、まだ本当の黒幕がフォーフェンバッハなのか宰相なのか、または別の誰なのか判断ができなかった。だから私は、何も言わずそのままこれを持ち帰ったのだ。」
「何故いまそれを私に明かすのですか?」
「宰相殿とて、わざわざジェノヴァに借りを作ることなど決して望まないはずだ。フォーフェンバッハはジェノヴァ大使の頃から、関税の一部を自分の懐に入れたり、取引の上前をはねたり、好き勝手していた。彼のやり口も人間性もよく知っている。今回のことも錫の取引を成立させることで宰相の歓心を買い、同時にジェノヴァ商人に甘い汁を吸わせるかわりに、自分の懐を膨らませようという魂胆なんだろう。狡猾だが、浅はかなやつだ。貴国との錫の取引に限らず、今後も彼は関与するのであれば、私としては輸出は差し止めるつもりだ。」
ロバートはキプロス王の真意を理解しはじめていた。もちろん商いはしたい、だが、信頼できる相手としかするつもりはない、ということを。
「私は信頼してくださるのですか?」
「あなたは、嘘などつけない方だ。フィリップ殿に似ているな。私を信頼してくださっていることが分かる。取引相手としては申し分ない。これは、取引締結する前の下交渉と私は捉えている。余計な計略をするフォーフェンバッハを排除し、正式な取引を開始できる相手とこうして改めて合意できたのではないかな。だから、この偽造印璽の問題をどう処理するかは、宰相殿にお任せしたい。あなたが責任をもってこの偽造印璽にかかわる問題を処理できるのならば、これをあなたにお渡ししてもいい。」
「わかりました。」
「商売に悪影響が出ないのであれば、私は取引先の国の内政には関与するつもりはない。それと、フォーフェンバッハの身柄は、あなたのご判断に任せよう。」
「私の判断でよいのですか? 両国間の国際問題になると・・」
ジェロームはキプロス王らしからぬ、おどけた口調で言いました。
「おや、フォーフェンバッハという男は、貴国の正式な特使だったのですか?宰相殿の委任状もお持ちでなかったし、会見を申し込んできたのはジェノヴァの商人でしたよ。私はてっきり、ジェノヴァ商人たちの詐欺かと。」
「それは・・・」
「ロバート、あなたは、彼に個人的に因縁のある方のようだし、こちらとしては不敬な言動をした詐欺師を処分できればよいだけですから、その処分をどうするか、権限をあなたにお譲りいたしましょう。」
「判断を下す前に、少し考えを整理する時間をいただけないでしょうか?」
「賢明だ。宰相殿と連絡を取る必要もあるだろう。ひと月待つことにしよう。」
ロバートとの会見が終わり、自室に戻ったジェロームは、「ひと月であれば、充分間に合うだろう。」
とつぶやいたあと、部下の一人を呼んで、
「先日見つかったあれを収納する化粧箱を、ひと月以内に完成させるように」
と指示したあと、ジュリエットの居室へと向かったのでした。




