もう一つの会見
第42章
フィリップから宰相あての長い手紙とカルロスの奔走で、それからひと月とたたないうちに法王宮内で、極秘会談が行われる運びとなりました。集まったのはフィリップ、キプロス王ジェロームのほか、神聖ローマ帝国からは宰相の名代として息子のロバートが出席したのです。カルロスは、フォーフェンバッハの注意を引かないようように、表向き同席しませんでした。
本来カルロスは、神聖ローマ帝国のために錫の購入を推進すべき立場でありましたが、極秘会談の準備としてカルロスはジャンカルロを通じて、皇帝に特別の謁見を申し入れ、「ヴァティカンの秘書官長である義理の弟から秘密の相談を受けました」として、手紙とともに、次のような説明をしていたのです。
「皇帝陛下、ヴァティカンと良好な関係を修復するには、今は法王の破門宣告を受けるような事態は避けることが賢明でございます。確かに大砲鋳造に錫が欠かせませんが、直接キプロスと取引せずともサンマルコ共和国経由での購入には問題ございませんし、ヴァネツィア政府が特に特定の国にだけ独占的に売る意思もございません。何故キプロス王が直接皇帝陛下に申し入れせず、ヴァティカンにこのような意向を伝えたかは、まだはっきりとはわかりませんが、おそらくキプロス王は婚約者を通じてヴェネツィアと深い同盟関係があるからでしょう。重要なのは、ヴァティカンがキプロス王の意向を、我々に事前に伝えたということです。これは法王としても我が国との関係改善を望んでいるというしるしです。ここで借りを作ったほうが得策でございます。」
カルロスは印璽の偽造の件は、何も報告しませんでした。ジェローム王が皇帝に宰相が偽造させた印璽を差し出す前に、証拠もなく報告すれば宰相への讒言ともとられかねないからです。皇帝との会談の後、カルロスは、まったく同じことを宰相と話し合ったのですが、このとき老練な宰相は、切り札であるフィリップの出生の秘密については、今回持ち出すことは得策ではないと考えていたのです。皇帝陛下がヴァティカンとの関係改善を望んでいる時期に反対するのは愚の骨頂である上、フィリップが法王になった時のほうが、この情報は有効に使えると判断したからでした。
宰相が反対意見を言わずに納得している様子に安心したカルロスは、宰相がフォーフェンバッハに代理として派遣させないように、こう付け加えていたのです。
「今回、キプロス王の意向により、法王宮内でヴァティカンの秘書官長と極秘会見を行うことになり、我が国の代表として宰相のご臨席を要請されております。宰相殿におかれましては、代理を派遣されることになるかと存じますが、どうでしょう、今回は外交交渉というより、秘密契約の調印の場ですし、宰相の後継者としてロバート殿を表舞台にデビューさせるよい機会ではございませんか。判断が難しい局面になることはないでしょうし、もちろん私が陰でサポートいたします。ヴァティカンの秘書官長は御存じのように私の義弟ですし、各国の重要人物と知り合いになるのは、彼のキャリアとして非常に良いことと存じます。」
フォーフェンバッハに対し、不信感を抱き始めていたこともあり、「後継者として」というカルロスの言葉につい気を許し、すぐにロバートを送り出すことを決めたのでした。
極秘会見の場で、フィリップは、ジェロームの面前で、キプロスから錫を直接取引した場合は、破門宣告をする用意がある旨をロバートに対し警告しました。そして、その宣言を書面にしたものを、ロバートに手渡したのでした。条件交渉などはなかったため、会見そのものは、すぐに終了し、その後は別室で秘書官長フィリップ、キプロス王ジェローム、宰相代理ロバートが会食をともにするという次第だったため、まるでロバートの表敬訪問のような、和やかな雰囲気となりました。
神聖ローマ帝国の代表はあくまでロバートでしたから、カルロスは控えの間から、キプロス王の言動を垣間見るに留めていました。カルロスは、自分より年下のはずのキプロス王の堂々たる態度と優雅な物腰に、とても元ジェノヴァの船乗りとは思えず、微かな恐怖のような嫉妬のような不思議な感情を抱いたのでした。
メインの鶏の丸焼きが運ばれてきてまもなく、ジェロームが「もう少し塩を」と給仕に頼んだことから、ザルツブルグの塩についての話題になったとき、ふとフィリップは思い出したのです。
実はフィリップはロバートと初めて対面したときから、過去にどこかで会ったような気がしてならなかったのです。それがザルツブルグと聞いて、神聖ローマ帝国の城に幽閉されていたときの風景を思い浮かべ、突然はっとなりました。あのご婦人から遺言を預かったこと自体、いままですっかり忘れていたのです。
「ロバート殿、あなたのお名前自体は、お国でよくあるのでしょうか? 実は、私は事情があって、あなたの国のおそらくご身分の高いと思われるご婦人の臨終に立ち会った際に、ロバートとおっしゃる方あての遺言書を預かったのです。そのご婦人のお名前も存じ上げなかったので探し出す手立てがないのと、用事に忙殺されて、いままで見つけることができませんでしたが。」
「そう珍しい名前でもございませんが、どのようなご身分の方だったのでしょうか?」
「ご身分は分からず、とても品位を感じされるご婦人で、不思議なことに、そのご婦人の面ざしが、あなたに似ていらっしゃるような気がして。」
「私に? いえ親戚には旅行先で客死したというようなものはおりませんし、母は私がまだ幼いころに、病気で亡くなったと聞いております。」
「遺言とともに指輪も預かっているのですよ。紋章が刻まれておりましたから、そこからどういったお家柄の方かわかるかもしれません。」
そう言うとフィリップは下僕に言いつけて、遺言と指輪を持ってくるように命じました。
「そう、確か、召使いはそのご婦人をドロテア様と呼んでいらした。」
「ドロテア?」
フィリップが下僕に持ってこさせた指輪を見た途端、ロバートはその場に倒れ、気を失ってしまったのでした。隣にいたジェロームがとっさに抱きかかえなかったら、ロバートは大理石の床に頭を打ち付けていたに違いありません。気がついたときは、横たわっていた長椅子の傍らにカルロスが心配そうな顔で座っていました。
「会食は終了したよ、ロバート殿。秘書官長殿とキプロス王殿はすでに退室されたから、このままゆっくり休むといい。」
「カルロス殿、申し訳ない。大変な失態をおかしてしまった。宰相の代理という身でありながら、なんということを。」
「ロバート殿、会見の後のことだから、宰相殿には報告しない。秘書官長殿もキプロス王殿も、あなたのお体を心配していらっしゃっただけだ。一体どうしたのだ?」
「動揺してしまいました。あの指輪の紋章にも心当たりがございます。私の母の名はドロテアです。」
その夜、あらためて行われたフィリップとロバートと二人だけの私的な会見のほうが、よほど秘密裡な内容となったのでした。その晩は法王宮の一室で宿泊することになっていたロバートのもとに、フィリップが訪れたのです。
慌てて昼間の非礼を詫びるロバートに、フィリップは
「お体の具合はいかがですか? 今、あなたの目の目にいるのはヴァティカンの秘書館長ではない、単なる一司祭です。私たちは話すべきことがあるのではないですか?」
と優しく問いかけたのでした。
そう、あの指輪はまさしくロバートの母、ドロテアのものだったのです。ドロテアの名を聞き、見覚えのある指輪を手にした途端、ロバートは突然フラッシュバックに襲われ、殺害の現場を思い出してしまったのでした。
フィリップはロバートに請われて、あの夜のことを思い出せる限り詳細にロバートに伝えました。亡くなったと聞かされていた母が、どこかで生きているのではないかという思いは、ロバートの心のどこかに常にあったので、驚くより、やはりそうかと思いながら、フィリップの話にじっと聞き入っていたのです。そして部屋に戻り、一人遺言を読みながら、真実を悟ったのでした。母がフォーフェンバッハに騙されて汚名を着せられていたことを。
この密かなもう一つの会見以降、フィリップとロバートは私的な文通が始まったことは、カルロスもジャンカルロもマリアンヌもリッカルドも知らないことでした。




