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ジェロームの真意

第38章

 驚いて、一瞬言葉を失っているフィリップに対し、ジェロームは挨拶も早々に、いきなり本題を切り出したのでした。

 「あなたはヴェネツィア元首殿と特にお親しいと聞いている。私も直接彼に会ったことはないが、ある信頼できる人物を通じ、彼のことを聞いた。あくまで取引相手としてだが、紳士協定を結べる相手と判断した。」


 状況が理解できないまま、ただジェロームを見つめるフィリップ。そのフィリップも見つめ返したまま、ジェロームは続けます。


 「我がキプロスにとって、大量の錫を運んでくれるヴェネツィア商団とは、今後も懇意に取引したい。スルタンに忠誠を誓った身だが、スルタンはちっぽけなキプロスの領土など、大して関心もない。キリスト教徒と交易しようが、上納金を納めれば文句はない。たとえキリスト教の娘を妻にしても、イスラムの法では奴隷身分なのだから、まったく問題ない。ただし、直接、大国である神聖ローマ皇帝にキプロス産の錫を売るとなったら政治的に大問題だ。青銅砲を鋳造することは目に見えているのだから。宰相から、大量の錫の注文に対する秘密裏の申し出があった。しかし私はあくまで、ヴェネツィア商人に対して取引したい。ヴェネツィアがどこに売ろうと彼らの勝手だ。皇帝に売るかもしれないし、フランス王に売るかもしれない。スルタンに売ることだって可能だし、教会軍のために、ヴァティカンが購入することもあり得るだろう。

 そこで、私は、あなたにお願いがある。もし神聖ローマ帝国が、イスラム教国のキプロスと商取引するのであれば、破門に処する、と皇帝に伝えてほしい。ヴェネツィアと異なり、教皇からの戴冠があっての神聖ローマ帝国だ。実態は何であれ、表向きは破門されたら国としての大義名分を失うのだから。」


 さすがに落ち着きを取り戻し、ジェロームの申し出にじっくりと耳を傾ける余裕が出てきたフィリップは、まずはすぐに返答を避けようと考えたのでした。

 「わたくしがあなたの申し出を断ればどうなさいます?私はあなたに何も義理はないし、あなたの要請を受ける義務もない。そもそも私は神に仕える身。現世の商取引のことなど、私の範疇ではない。まして、私は単なる秘書館長に過ぎません。」


 その言葉に、ふと苦笑いをしたジェロームは続きます。

 「とぼけるおつもりか? 法王は持病の痛風が悪化して判断力が衰えているというし、普段から実務を取り仕切っているのはあなたということはわかっている。しかも現法王はご高齢でほとんど寝たきりだ。 次回のコンクラーベの最右翼はあなただとだれもが認めている。その時期は近いとみな噂しているし、すでに法王宮内を取り仕切っている影の責任者はあなたでしょう。」

 からかっているのか脅しなのか、ジェロームの口元には微笑みがあるものの、フィリップを正面から見据えたままの眼光の鋭さに、フィリップは動揺を隠せなくなってきました。


 「ジェローム王、いや、イブン=アッラシード殿とおよびするべきかもしれないが、わたくしは政治に介入する意志はないのですよ。それに特にサンマルコ共和国に肩入れするつもりもございませんが。」

 「秘書官長殿、あなたは、親ヴェネチィア派だったのが、皇帝派に寝返ったというおつもりでしょう?それはそれでひとつの処世術ではありますが、残念ながら、あなたは、本当の皇帝派ですらない。いうなれば、宰相派でしかない。なぜ、そんなに宰相殿を信じているのかわからないが、彼があなたを手先として利用していることに、なぜお気づきにならないのか?」


 この言葉に、思わず取り乱すフィリップ。

 「何を証拠に、そのようなことを。」

 「では証拠をお見せしましょう。今、あなたが密かにお探しのものは、これでしょう?」

ジェロームの右手には、あの偽造印璽があったのです。それをフィリップの目の前に差し出したまま、ジェロームは話を続けました。


 「この偽造された印璽は、皇帝に直接お渡しするつもりですよ。あの宰相を信じないほうがよろしい。彼は皇帝に内緒でこの偽造印璽を作り、あなたが持ち帰った秘密文書を反故にしたいときは、あの印璽はヴァティカンが偽造したものだから無効だと、言い逃れできるように図り、これをヴァティカンに隠すことを思いついた。その密命を受けたのが、この私、まだジェノヴァの船乗りだったころの話です。だからこの印璽を持っているのですよ。この印に見覚えがございませんか? 」


 この展開には、マリアンヌも驚き、思わずジェロームの顔を見つめました。みつめ返すジェローム。

「私が昔、ジェノヴァの船乗りだったことは、ここにいるマリアンヌ殿もご存じのこと。何しろ、私の命の恩人ですから。」

 わけがわからず動揺するフィリップは、また何も言えなくなり、次のようなジェロームの説明をただ聞くばかりでした。


 実は、フォーフェンバッハは、ジェノヴァ大使時代に、ジェロームと面識がありました。それどころか、一時は彼の”裏の仕事の”雇い主だったのです。あの暗殺未遂事件の際、マリアンヌに傷の手当てしてもらった後、ジェロームは、事件の黒幕について、知っている限りの情報を、駐ジェノヴァ大使に密告していたのでした。もちろん謝礼金目当てだったわけですが、以来、彼の私的な諜報員として一時雇われていたのです。ある日、高額の報酬と引き換えに、フォーフェンバッハの秘密命令を受けて、ヴァティカンに送り込まれることになりました。下僕としてヴァティカンに潜入し、模造した神聖ローマ帝国の印璽を、わざとヴァティカンの保管庫に収納させるという使命を受けたのでした。


 宰相としては、ザルツブルグで皇帝が調印した秘密文書を無効としたい事態となった場合、印璽が偽物で、ヴァティカンが偽造したものだという主張の証拠にしようと企んだのでした。宰相として誤算だったのは、箱の中身を盗み見たジェロームが事の重大さに気付き、任務完了後始末されるであろうと直感したことでした。


 ジェロームは報酬を受け取る前に、ローマから姿をくらましたのです。ジェロームはジェノヴァで元の船乗りに戻り、ガレー船の漕ぎ手として働きはじめてすぐ、イスラム船に拿捕され奴隷となったため、さすがの宰相も彼を捜し出すことができないままに終わっていたのでした。その後、運と実力でジェロームがキプロス王となったとは、宰相もフォーフェンバッハも予想だにしないことでした。


 イスラムに改宗したとき、名をイブン=アッラシードと改名していた上、艱難辛苦を乗り越えた末にそなわった威厳が、彼の風貌を変えていました。マリアンヌでさえ、あの大量注文のクリームを届けた際、彼自身が名乗られなければ気がつかなかったに違いなかったでしょう。


 もはや黙ったままのフィリップに、シェロームはたたみかけます。

 「この事件以来、私はフォーフェンバッハや、その黒幕である宰相を信じておりません。だから、錫の直接取引も乗り気ではないのです。これは私の想像ですが、フィリップ殿、おそらく、宰相の手によって、あなたは幽閉され、そして、宰相を信じるように洗脳させられた上でヴァティカンに送り込まれたのですよ。あなたにこれを探し出させるために。」


 しばしの沈黙。フィリップは驚愕で動けなくなっていました。


 フィリップが事の真相に理解が追いつくまでジェロームは数分待ったあと、ジェロームは微笑みながら

続けます。

 「皇帝軍がローマに進軍したとき、宰相は、その偽造印璽探しを斥候部隊の指揮していたフォーフェンバッハにひそかに命じていたはずだが、見つからなかった。あのときの秘密文書など、いまや何の意味もないでしょうが、皇帝に承認を得ないまま行った偽造行為が証拠とともに第三者を通じて露呈することは、宰相らとしては絶対回避しなければならなかったはず。しかしヴァティカン内を何度も捜索しても、見つからなかったでしょう? 当然だ。ここにこうして私が持ち去ったわけですから。焦った彼らは、ヴァティカン内をよく知るあなたに秘密裏に捜索させていたのではありませんか?」


 もはや誰の言うことを信じてよいかわからなくなったフィリップは、ジェロームの質問には答えず、がっくりと椅子に腰をおろしてしまいました。床を見つめたままのフィリップに、ジェロームはさらに追い詰めます。


 「もしあなたが私の要請を受けても、あなたは何も失うものはないが、受けなかったら、あなたの親族のみならず、もっとも信用すべき人からの援護を失うでしょう。それはあなた自身にとっても相当なダメージになるはずだ。」

 「一体何のことだ?」

 「私は、あなたのことをよく知っている。秘書官長殿。ある点では、あなた以上にね。」

 すっかり混乱してしまったフィリップは、ジャロームの警告の内容を深く考えず、ただ尋ねました。


 「それで、ジェローム殿、私にどうしてほしいと?」

 「宰相殿に正式に警告していただきたい。キプロス王と取引した場合は、帝国内のキリスト教徒は破門にする用意があると。私も、その場に立ち会う。ただし、宰相殿を呼び出して、その意向を伝えてほしい。フォーフェンバッハではなく。私は彼には顔を知られているのでね。」


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