エレノアの遺言
第35章
その年の夏、フィリップは「宰相の助けで」足掛け1年にわたる軟禁生活からやっと解放されました。
「無事皇帝陛下の了解を取り付けることができました。」とのフォーフェンバッハの言葉に感動し、自分を信じてくれた宰相のために、そしてヴァティカンの信用回復のために、印璽偽造の犯人を捜すために全力を尽くそうと心に決めた一方、ジャンカルロはじめ親族に対しては、保身のために自分の解放に尽くすところが、手紙ひとつよこそうとしなかったことに、深い不信感と失望感が深く根をおろしていたのです。フィリップが法王宮に戻ったという知らせに、マリアエレナが無事を喜ぶ手紙を早馬で出したにもかかわらず、返事を書くどころか、手紙を開封しようともしませんでした。
ヴァティカンに戻ったフィリップは、コンクラーベには間に合いませんでしたが、すんなりと前職に戻れた以上に、その後は出世街道に乗り、数年後には秘書官長の地位を狙える位置に駆け上がっていったほどでしたが、それは言うまでもなく、神聖ローマ帝国という今までなかった大きな後ろ盾を得たからでした。
以前は法王宮内で孤立していたことが思い出せないほどの状況の変化を幸いに、フィリップは法王宮に戻ってすぐに、印璽偽装の証拠探しに着手することにしました。
フィリップが生きていたことを喜ぶと同時に、彼の態度の豹変ぶりにカルロスもジャンカルロもマリアエレナもソフィーも、天国と地獄を同時に味わうかのようでした。駐ヴァティカンのヴェネツイア大使からの情報で、いち早くフィリップの帰還を知ったのはリッカルドでしたが、彼は、すでに宰相の手にかかっていることを察知していました。エレノア亡き後、すでに今までの行いの贖罪を済ませたと考えていたリッカルドでしたが、いまや秘書官長補佐となったフィリップは、純粋に政治的な意味で友好関係を保持したい相手となっていたのです。長年にわたり、フィリップとの信頼関係を築き上げていたところが、たった1年とたたぬうちに宰相にとって代わられた、出し抜かれたと感じたリッカルドは、次の一手を考え始めます。
「職務上、自由にヴァティカンを訪問できない自分に代わって、信頼できる誰かにフィリップのもとを訪問させなくては。フィリップは、軟禁状態から解放されて以降、カルロスやマリアエレナ、ジャンカルロらと、絶縁状態に入っている。会見を申し込んでも断り、手紙はすべて開封されないまま送り返されるという状況では・・・。」
とはいえ、当時のヴェネツィアは、対トルコとの通商問題や、ヨーロッパ諸国との領土問題が頻発しており、リッカルドその対応に忙殺されていました。
ヴァティカンに戻ってから、神聖ローマ帝国宰相の後押しで、ついにフィリップは帰還後1年ほどで、ついに秘書館長の座に就任しました。フィリップはヴァティカン内ではどちらかというとサンマルコ共和国派と目されていたのですが、完全に神聖ローマ帝国派に乗り換えていたのでした。
一人で秘密裏に進めていた印璽探しがなかなか進展しなかったフィリップでしたが、このままでは秘書官長就任の後押しをしてくれた宰相の期待に応えなければ面目が立たないと、印璽探しを本格化したのです。しかし、なかなか見つからないのでした。
そしてその翌年、リッカルドもついにサンマルコ共和国の元首という立場に就任したのです。
もちろんフィリップは法王宮の秘書官長として、リッカルド元首就任の祝福の公式の手紙は出したものの、最低限の儀礼的なものでした。
もし二人の関係がフィリップの幽閉前だったら、プライベートでもお互いを祝福し合い、より強固な協力関係をお互い約束していたことでしょう。
いよいよ国を離れられない立場になってしまったリッカルドは、フィリップとの関係をもう一度再構築するために、やはり、あの人物にまた頼むしかないのかと考えていたのです。しかし前回同様に上手く法王宮に中にその人物を潜入させたとしても、フィリップと話し合うための決定打がいまはない・・・。
妙案がないリッカルドは、今は対トルコ対策に集中することにしました。
表面上は諍いなどはなくとも、フィリップとカルロスやジャンカルロといった親族との関係は、変化や進展もなく、ただ月日が流れていきました。今までなら策謀家であり情報通のリッカルドが問題解決に動いてくれていたのでしょう。
そんな中、ジャンカルロは、エレノアの遺言の内容を知ったのです。それは、2年前、マリアンヌから手渡されたものでした。
実は、エレノアの生前、ローマ近郊にいた彼女のものにジャンカルロから「神聖ローマ皇帝の軍隊がローマを侵攻する準備が完了しつつある。今すぐ自分の屋敷に避難してほしい」との知らせが届いていました。しかし、体の不調から、もう長旅は出来ないと観念したエレノアは、ジャンカルロに対して、自分の余命はわかっている。それより法王宮内にいるフィリップの身の安全を確保してほしいと頼んでいたのです。悩んだジャンカルロは、皇帝軍の指揮官の一人という立場上、フィリップをいち早く見つけ出して枢機卿として誘拐し、数日だけ表向き幽閉し、その後そのまま自分の支配下の城で軟禁という形で保護し、状況を見て解放しようと計画していました。しかしこれは失敗に終わります。
このときエレノアは、もしもマリアがリッカルドへの告白をしなかった場合を考えて、自分の死後5年たったら、この遺言を読むようにとジャンカルロあてに、フィリップとマリアの子の秘密を遺言として書き記していたのです。しかし決心がつかず、そのまま自分の机の引き出しに入れたままになっていました。その遺言を、エレノアの最後を看取ったマリアンヌが、エレノアの身辺の整理をしていたときに見つけ、ジャンカルロに渡していたのです。
遺言の表書きに、エレノアの死後5年後の開封するようにとの但し書きがあり、ジャンカルロは律儀にその云いつけを守ったのでした。
その日はちょうど、宮廷内ではサンマルコ共和国の養女と、キプロス王の婚約の話題で持ちきりで、ジャンカルロは皇帝じきじきに急遽宮廷に内密に呼び出され、「神聖ローマ帝国皇帝がサンマルコ共和国あてに祝福の意思を表明すべきかどうか」ということを相談されたのでした。
法王としては、サンマルコ共和国に何度めかの破門処分を下すだろうが、キリスト教徒でありながら、そんなことは想定内のこととして気にもかけないヴェネツィアに対して、神聖ローマ帝国としては、表向きは祝福できないにしても非難もしない、という態度でよろしいかと進言したばかりだったので、ジャンカルロは、あの預かっていたエレノアの遺言の存在を思い出したのです。
「もう5年がたとうとしているんだね、ソフィー。本来ならフィリップに見せたい遺言だが、我々身内の者の手紙はあれ以来、すべて突き返されている。とりあえず私が読んでしまってよいのだろうか」
「秘書館長就任のお祝いも、突き返されてしまいましたし、あの幽閉生活の間にひとが変わってしまったよう。何かとてもお辛い体験をされたのでしょうか?」
「この遺言が、我々の和解のきっかけになるかもしれない。まず私が読んでみてみよう。」
「それがよろしいと思いますわ、ジャンカルロ」
ジャンカルロは、まさか重大な秘密があるとは思いもせず、いつもの習慣で、夕食後に心から信頼している妻のソフィアに聞かせながら遺言を読んでしまったのです。驚くジャンカルロとソフィア。フィリップに言うべきか。
「本当にフィリップに知らせるべきなら、母は生前にそうしたはずだ」と結論したジャンカルロは、やはりフィリップには知らせず、代わりにジュリエットの後見人としてマリアエレナが適当と判断し、その遺言とともに、マリアエレナとカルロスあてに手紙を書き、遺言を同封しました。ジャンカルロは、マリアエレナだけに知らせると彼女が一人悩むと思い、あえて宛名をカルロスあてにしたのですが、この配慮が裏目に出たのです。
ジャンカルロの下僕が直接カルロスあてに届けるように言い遣っていたものの、たまたま宮廷の控えの間で会った、カルロスの部下に手渡ししたのです。これがカルロス違いで、宰相の腹心の部下だった、元ジェノヴァ大使、当時のヴァティカン大使だったカルロス・フォーフェンバッハの元に届いてしまったのです。遺言を読んだフォーフェンバッハは、軟禁先訪問のときに、フィリップがふと口に出してしまった「マリア」の名を思い出し、偶然にも、とんでもない切り札が手に入ったことを悟ります。
「これをいつ、どのタイミングで使うべきかは、宰相殿とじっくり相談しなくては。」




