終油の秘蹟
第34章
それから2ヶ月の間、カルロス・フォーフェンバッハは頻繁にフィリップのもとを訪ね、そのたびに少しずつ、交渉の状況を説明しつつ、ジャンカルロたち親族の冷たい仕打ち、情の薄さをフィリップに吹き込んでいったのでした。もちろん、カルロスもジャンカルロもフィリップの生存に一縷の望みをかけて、行方を捜していたのですが、リッカルドという情報源がない状況では、すべて徒労に終わっていたのです。軟禁の黒幕が宰相とあっては、仮にこのときリッカルドとコンタクトがとれたとしても、突き止められなかったでしょう。
この軟禁生活の焦燥と苛立ちから、フィリップは薄情な親族に対する不信感で、宰相、そしてフォーフェンバッハらにすっかり洗脳されてしまったのでした。決定的だったのは、彼と同じように皇帝軍に拉致され、同じ城に監禁されていた、もう一人の人物のさびしい最後に立ち会ったことでした。
この城に来てすぐ、フィリップが軟禁されている城の右翼ではなく、中庭を挟んだ左翼の一室に閉じ込められているという話を、下僕から聞いていたのですが、ある日、半ば廃墟のようになった中庭を散歩している女性の姿を見かけたのです。フィリップよりずっと年上の女性で、高貴な家柄の女性だという下僕の話でした。もちろんお互いが一緒になる機会など許されませんでした。彼女に会えたのは、フォーフェンバッハの最初の訪問後すぐ、春の嵐の晩でした。夜中に突然下僕に起こされたのです。
「神父様、-フィリップは身分が明らかになるのを恐れ、カトリック教会の神父だとだけ自己紹介していたのでした。-来てくだせえ。向こうのお部屋にいたお方の、最後の懺悔を聞いてやってくだせえ。お願いです。このまま亡くなってしまうなんて、あまりにもむごい。天国にいけなくなっちまう。」
これは上からの命令ではなく、明らかに向こうの召使たちと、こちらの下僕たちが相談して、自発的に頼んでいたことのようでした。晴れがましい高貴な地位にいた女性が、親族に誰一人も見取られることなく、幽閉の身のまま寂しく死んでいく。フィリップには不憫でならないとともに、人ごととは思えず、身につまされる思いだったのです。教会に仕える身、少しでもお役に立てることでできるのならば・・・。
「わかりました。すぐに参りましょう。」
「ドロテア様、神父様がいらっしゃってくださいました!」
フィリップが長い廊下を抜けて、侍女と思われる女性の声とともに、左翼の部屋にたどり着くと、そこには、50代と思われる女性が静かに横たわっていました。フィリップの僧服を見ると、目に涙があふれ、切れ切れながらも、上品な口調でこう話したのです。
「ああ、神父様、来てくださったのですね。感謝いたします。まさかこの城に神父様がご滞在だったとは。皆が言っていたことは、本当だったのですね。」
「心お静かに。さあ、楽になさってください。あなたの準備ができるまで、私はここでずっと待っておりますから。」
「なんてお優しい神父様。罪深い私でも、神は迎え入れてくださるのでしょうか?」
「懺悔なさい。人は誰しも心弱き罪びとです、過ちを認めた者を、神は許してくださいます。」
このあと、ドロテアと呼ばれていた女性から聞いた告白の内容は、フィリップにとっては、ありふれた上流階級の婦人の不倫関係の告白でしかありませんでした。もしもリッカルドやマリアエレナが聞いたなら、それは政治的な混乱の火種になりかねないとすぐさま気がついたしでしょう。
終油の秘蹟をフィリップに授けられる前に、ドロテアは、左の薬指にしていた指輪を外し、フィリップに最後の願いを託しました。
「神父様、どうか、この枕の下にある手紙を、この指輪とともにあの子に届けてください。そして、私は神に召される瞬間まで、あの子のことを愛し続けていたと、どうか、そう伝えてください。」
そうしてドロテアは、己の身分を詳しく明かさぬまま、その生涯を山奥の城で、フィリップに看取られつつその生涯を閉じたのでした。
彼女は誰で、あの子とは誰なのか? フィリップは、いずれ近いうちにこの城を出るのだから、それからフォーフェンバッハか宰相に聞いて、この手紙を“ロバート”に届けてもらえばいい、と漠然と考えていました。手紙の上に“愛するロバートへ”と書かれていたので。まさかそれが帝国の宰相の長男である、あの病弱だったロバートとも考え付かず、そのまま指輪とともに、手紙を小さな袋に入れ、行李の奥にしまいこんだまま、ずっと忘れてしまっていたのです。“ロバート”本人に会うそのときまで。




