フィリップの変心
第32章
フィリップ殿と内密に会いたい―それがジェロームからマリアンヌへの内密の要請でした。
このとき、フィリップは法王一歩手前の官房長官ともいえる秘書官長まで上り詰めていました。もちろんフィリップとマリアンヌは、知らない仲ではなく、ましてや神聖ローマ帝国での交渉の際は、フィリップのほうからマリアンヌの助けを求めたことがあり、マリアンヌには「貸し」がある状態でもありました。エレノアの危篤をフィリップに知らせ、フィリップがエレノアに終油の秘蹟を与えることができたのも、マリアンヌのお陰でした。そのあとのエレノアの身辺整理もマリアンヌがすすんで行ってくれたため、その頃のフィリップは彼女を心から信頼するまでになっていたのです。
しかしあくまでヴェネツィアの一市民でしかないマリアンヌは、リッカルドのような公的な後ろ盾もなくおいそれと秘書官長という地位に上り詰めたフィリップに会えるわけではありません。
それに何より、フィリップは昔の純粋な頃のフィリップではありませんでした。どちらかといえば、晩年のフランソワのような精神状態になってしまっていたのです。その原因は、5年ほど前の事件が原因だったのです。
時を戻して・・・
エレノアが安らかな眠りについて半年後、とうとう皇帝軍がシチリアの領有を目的に南下を開始し、ついにローマに進軍してきたのでした。皇帝の目的はシチリア領有、とくに塩田の確保が目的ではあったのですが、この機に乗じてローマの財宝を狙った不心得者たちによる略奪が発生するだろうことは、今までの経験から火を見るより明らかでした。
多くの有力な枢機卿たちは、自分たちの出身国の知己を頼って、ヴァティカンからわれ先にと逃げたのですが、すでに親族全員が皇帝派となってフィリップは、逃げることなど考えず、法王宮に残っていたのです。一人礼拝堂で祈りをささげていたフィリップに、皇帝軍の斥候部隊が乱入し、彼を捉えました。抵抗もせず、しばらく皇帝軍に占拠されたサンタンジェロ城内に幽閉されたフィリップは、拷問は受けなかったものの死を覚悟していました。数日後に目隠ししたまま数週間の間移送され、どこともわからない、山間の静謐な湖畔の狩猟の館らしいところに軟禁の身となったのです。
彼専任の下僕がつき、衣食住に関しては何不自由ない生活でありながら、外部とのコンタクトは一切とれない状況におかれ、そのまま夏がすぎ秋になり、冬を迎え、再び湖の氷が解けても、その状態のままにあったのでした。
このこと自体がフィリップの精神をおかしくさせたわけではありません。ヴァティカンの情報が入らない焦燥感はあったものの、きっとカルロスかジャンカルロの差し金で、神聖ローマ帝国内か、どこかの辺境伯領内のどこかの山城に置かれたのだと、想像していたからです。
しかし、いつまでたっても手紙ひとつこず、誰も会いにこないことには、苛立ちを覚え始めてはいました。
軟禁生活が5カ月目に入ったある日、思わぬ訪問客がフィリップのもとにやってきました。ジャンカルロでもカルロスでもマリアエレナでもなく、かつての駐ヴァティカン神聖ローマ帝国大使のカルロス・フォーフェンバッハなる人物でした。特に彼と親しいわけでもなかったフィリップは驚きつつも、知人の来訪に心が躍り、喜んで彼を迎えました。
実はこの軟禁状態の首謀者は宰相で、彼はフィリップを抱きこもうと、いち早く彼を拘束する指示を当時の駐ヴァティカン大使であるカルロス・フォーフェンバッハに指示していたのでしたが。そんな事情も知らないフィリップに、カルロス・フォーフェンバッハはいかにも同情の意を表して話しかけたのです。
「フィリップ殿。探しましたぞ。こんな山奥に隠れていらっしゃったとは。」
「私の意志ではありません。しかし何者かがここに匿ったのでしょう。おそらく身内のものだとは思いますが。しかし貴殿こそ何故ここがわかったのですか? そしてどういう御用向きで?」
矢継ぎ早に質問をするフィリップ。
「お怪我やご病気の様子もなく、ひとまず安心いたしました。ローマ市内の混乱状態は酷いもので、有力貴族も枢機卿たちはみな郊外の別荘に逃げてしましましたし、逃げ遅れた中には、暴徒となった傭兵たちに監禁されたり命を奪われた者もいましたので。お身内と言えば、ジャンカルロ殿のことでしょうか? いえ、ジャンカルロ殿からは何も伺っておりませんでした。」
ここで急に口を閉ざしたフォーフェンバッハは、フィリップのすぐ耳もとに近づき、声を落としました。
「皇帝の正規軍とはいえ、2万を超える部隊の中には、身代金目的の者もおります。隊の後方を命じられたジャンカルロ殿には、先にあなた様の身元を確保することはできなかったのでしょう。あなたの身の上を心配された宰相殿が、あなたの監禁は、ある領主に雇われた傭兵隊長の仕業だと突き止め、こうして私が会えるよう、手はずを整えてくださったのです。皇帝軍もシチリアの駐屯部隊を除いて、すべて帝国内に帰還しておりますし、いまや法王庁も、少しづつではありますが、もとの状態に戻り始めております。皆、秘書官長であられたあなたの身を案じ、探していたのですよ。」
「なんと、では法王睨下はご無事なのですか?」
「いえ、ご高齢であったためか、今は病の床に。まさにコンクラーベが開かれようとしておりますので、各地に避難しておりました枢機卿たちが続々とヴァティカンに戻っておいでです。皇帝陛下は、通常通りのコンクラーベを望んでおいでです。もちろん、反皇帝派の法王は望んでおいでではありませんが、何より法王宮内の秩序の回復を切望されておられます。それにヴァティカンに、信頼おける交渉相手も。」
人は、自分が好む現実しか見ようとしない。特に自分の意志に反して情報を隔離された状態に置かれているときには。フィリップは、カルロス・フォーフェンバッハの言葉に、思わず心臓が高鳴ったのでした。「私は、ヴァティカンになくてはならない存在なのだ、そのことを、法王睨下のみならず、皇帝陛下自身が認めているのだ。」すぐ人を信じてしまうフィリップは、この言葉に、またしてもカルロス・フォーフェンバッハを好人物と判断してしまったのでした。と同時に、親族への疑念の芽が生まれたのでした。
「それにしても、やはり、ここには何も情報は入ってきてはいないのですね。」
「私の身代金目当て、とおっしゃいましたね。それならば、私の身内に何らかの要求がきているはずなのに、なぜジャンカルロもカルロスも、誰も、ここには来てくれないのだろう。手紙すらこない。」
「カルロス? ああ、私ではなくカルロス・ゼーゲンフェルド殿のことですね。あなたには義理の兄上に当たる。彼も難しいお立場なのだと思います。教会軍の総司令官になったときは、皇帝陛下に妻子を人質にとられてされてしまいましたからね。あなたがとらわれの身になっていると発覚したあとも、あくまで皇帝軍に雇われた傭兵隊長のしたことでしたので、皇帝陛下は表向きそれを容認されていましたから。おそらくあなたを解放するための身代金の要求が秘密裡に入ったとしても、皇帝陛下に逆らうことはできなかったのでしょう。ジャンカルロ殿は、奥方を通じて皇帝陛下の遠戚でもある身の上ですから、なおさら、下手なことはできますまい。」
そのまま考え込んでしまったフィリップの姿を見たカルロス・フォーフェンバッハは、今の情報をフィリップが咀嚼できる間そっとしておくために、窓辺にゆき、それから唐突に口を開きました。
「しかしここは素晴らしい眺めですね。私も宰相殿からのお許しがあれば、この辺りにしばらく滞在し、狩猟を楽しみたいものです。」
自分の物思いに沈み込んでいたフィリップは、宰相殿という言葉にはっとして顔を上げました。
「宰相殿からのご用向きで私を訪問されたのでしたね?」
「まさしく、その通りです。この訪問は、宰相殿とフィリップ殿、そして私だけの秘密に
「皇帝陛下からの了承のないご訪問ということでしょうか?」
「いかにも。もし露見しましたら、宰相殿に多大なご迷惑がかかります。私は宰相殿のメッセージを伝えるためだけにここに伺いました。」
「メッセージ? 私に?」
そっとフィリップに顔を近づけたカルロス・フォーフェンバッハは、その碧眼を、いっそう濃くしながらささやきました。
「このこともご内密に。かつてあなた様がザルツブルグで皇帝陛下から賜ったあの印璽の印が、ヴァティカン内で偽造されたようです。」




