ジェロームという男
第31章
「いったいこんな計画をいつ思いついたんだ?マリアンヌ」
「ジェロームがキプロス王になったって噂を聞いたときかしら。あの男は、コーランとバイブルを自由に横断できるような気概のある男よ。ジェロームなら、私のかわいいジュリエットを託すに足る男だと思ったのよ。」
ジュリエットとの極秘の面会を果たし、その賢さと芯の強さ、そして知的な美しさに驚いたリッカルドは、晩餐の後、娘を下がらせてからマリアンヌ問いかけたのでした。
「おやおや、まるで君がジェローム本人に会ったかのような口ぶりだね。」
「そうよ。リッカルド。話していなかったかしら。私、あの男に会ったことがあるのよ。会ったどころか、三日三晩一緒に過ごしたわ。」
「何だって。これは驚いたな。どこで?」
「ジェノヴァで。サンマルコ共和国の情報網では、ジェロームが、ジャノヴァの船乗りだったってこと、ご存知でしょう?10代のころに海賊船にさらわれて、でもたまたまスルタンの息子が乗船した船が難破したとき、命がけで助けて、それから当事のスルタンの信任を得て、出世の階段を駆け上がったと。」
「じゃあ、彼がまだ青年だったころ、ジェノヴァで会ったわけだ。」
「そう、もう十年以上前、私が、カルロスとジェノヴァに行ったことがあったでしょう? あなたが行方不明になっていたころだわ。」
「ああ、覚えている。宰相のもとに君が仕えていたころだね。あのあと君を訪ねたときは、そんな話、しなかったじゃないのかな。」
「ええ、だってあのときは、まだ単なる二十歳にも満たないジェノヴァの船乗りの一人でしかなかったから。ただ、とても魅力的な青年だったわ。彼、当時は一旗上げようと、危ない仕事にも手を出していたのよ。」
「まさか、あの暗殺未遂事件の一味だったのか?」
「彼は、単に高額の報酬にひかれて、あの毒薬入りの香油の運搬を手伝ったのよ。あのときは雇い主が運搬の報酬を支払わないで逃げてしまったらしくて、交渉の翌日、私とカルロスを宿まで尋ねてきたの。ちょうどカルロスは黒幕の捜索活動をしていていなくて、私だけが宿に残って、仕入れた香油の点検作業をしていたのだけど。」
「どうやって探し当てたのか?」
「あのときのラベンダーの香りよ。やられたわ。証拠は残さないつもりだったのに。売人との交渉の際、建物の近くに潜んでいたらしくて、ラベンダーの香りを覚えていたらしく、香りを頼りに町中を探し回ったらしいわ。」
予想外の冒険譚に、夜も更けていたにもかかわらず、リッカルドは話を促します。若きキプロス王の情報はもちろん駐在大使からの通信で把握済みでしたが、若い頃の話は貴重だったのです。
「で、彼の要求どおりに、代わりに君が報酬を支払ったのか?」
「いいえ、手元の現金は、カルロスが管理していたから。ジェロームは最初、私を捉えてカルロスから巻き上げようと思ったようね。でも出来なかった。」
「なぜ? いくら君でも十七、八の青年の腕力には叶わないだろう?」
「きき腕に深手の傷を負っていたからよ。雇い主に報酬の支払いを要求したら、手下たちにいきなり剣で切りつけられたらしいわ。私が傷の手当をしてあげたのよ。カルロスが戻ってくるまで、つきっきりで看病してあげた。あのときはマリアエレナ殿の傷の手当を思い出してしまったわ。幸い、あれほど重症ではなかったけど、それでもかなり痛んだはずよ。でも3日目の晩にカルロスが帰ってくる前に、礼を言って去っていったわ。君のお陰で、また自分の腕で人生を切り開けるようになったって。」
「まさに君は、彼の命の恩人というわけだね。でも本当にそのジェロームが、キプロス王のジェロームなのか?」
「ヴェネツィアに戻って、数年たってからかしら、大量のクリームの注文がコンスタンチノープル在住の大使を経由して入ってきたの。傷や火傷に効くクリームよ。商船の船長さんたちは、大口の顧客だけど、あまりに大量の注文だったから、驚いたわ。表向きはヴェネツイアのある商船団の船長からの注文だったけど、本当の注文主は、トルコの高級武官だった。で、直接私が、その注文の外傷用のクリームを届けに、停泊中の商船まで来てほしいと伝言を受けたのよ。使い方をきちんと説明してほしいといわれてね。で、その船の中で待っていたのが、船長と」
「ジェロームだったわけか。」
「向こうは覚えていたみたいね。どこからか私のクリームの評判を聞きつけていたらしいわ。ね、共和国元首さん、各国のスパイは、あなたのこのヴェネツィアにも入り込んで諜報活動にいそしんでいるのよ。」
「それで、ジェロームはいまだに君と交流があるのか?」
「いいえ、まさか。あれ以来、会っていないわ。でもジェロームはジェノヴァ人というよりヴェネツィア人ね。徹底した現実主義者。生き抜くためには、コーランだってバイブルだって利用できる男よ。だからトルコ人なんかより、ずっと交渉しやすいはずだわ。」
「しかしヴェネツィアのキプロス領有は認めないだろう」
「でも、港の利用は認めるはずだわ。ある程度の通行税は要求するだろうけれど、ふっかけるようなことはしないはずよ。彼も貿易で生きてきた国の出身だもの。お互い利するところがなければ、関係なんて続くかないことはわかっているはず。きっと妥協点を見出せるはずだわ。」
「ジュリエットとの結婚は、彼に利するところがあるのか?」
「政治的に? それはあなたの範疇ですけど、塩や錫程度しか産物がなく、作物が育ちにくいキプロスにとって、安定した通関税収入はありがたいはずよ。個人的には、保証します。あなたも今、彼女に会ったでしょう。魅力的でなかったとは言わせないわ。それに何より彼女は私の一番弟子ですもの。」
ジュリエットは13歳となるまでの3年間、サンマルコ大聖堂で「共和国元首の養女となる式典」が行われて以降、ジュリエットは元首宮に居住しつつも、女子修道院でマリアンヌの手ほどきを受けてきました。
いわゆる結婚式は、彼女が13歳の誕生日を迎えてからヴェネツィアを出航し、キプロス島に到着してから行われることになっていました。あくまで、西洋式の結婚式ではなく、盛大に着飾って、侍女とともに後宮に入るジュリエットをジェロームが迎えるというものでしたが。
婚礼の日まで一度もジェロームに会ったことのないジュリエットでしたが、婚約期間に何度も手紙は受け取っていました。もちろんジュリエットの手に渡る前に、ヴェネツィア政府の検閲が入ると承知で書かれた手紙でしたが、かなり情熱的な文句も書かれていました。政府の役人たちは「我々が目にすると計算した上で、わざと花嫁を待ちわびている気持ちを表すために書いたのだろう」と判断したようですが、まだ幼い少女ながらも何かを感じたジュリエットは、その手紙を後見人というより師匠であるマリアンヌに見せたのです。
「“君のためなら片腕を失っても構わない”なんて、まだ会いもしない相手に書くものでしょうか?しかも、よい香りのする紙に書いているのです。あまりにロマンチックすぎて、何か別のメッセージが隠されているような気がしたのです。これは個人的な手紙ではありません。ですからマリアンヌ様に見ていただきたいのです。」
そういわれて手渡されたジャロームからの手紙に、ラベンダーの香りを感じたマリアンヌは、これは自分へのメッセージがどこかに隠されているに違いないと直感しました。
「いいえ、ジュリエット。これはあなた宛のお手紙よ。それにしてもよい香りね。この香りが何かだけ、確認したいわ。ほんの2,3日だけ、私が手元に持っていていいかしら。」
マリアンヌは、すぐに政府の検閲官が見落としたメッセージを見つけたのでしたが、いつものようにリッカルドにすぐ相談することはしませんでした。政治向きのことではなく、あの治療と看護の感謝の気持ち、故郷ジェノヴァへの思慕の情ともとれるメッセージだったからです。だからマリアンヌはとくにこのメッセージをリッカルドに伝えようとはしませんでした。
しかし、これをきっかけにマリアンヌとジャロームの間に、ジュリエットからの手紙を介して、秘密のメッセージのやり取りが始まったのです。マリアンヌとジェロームの間には、深い友情のような感情しか芽生えていないと確信していたマリアンヌは、ジェロームにジュリエットを大切にあつかってほしい一心で、メッセージを送っていたつもりでした。ジェロームからのメッセージも、ジュリエットを褒め、自分を信用してほしいという内容だったからです。
しかし、ジャロームとジュリエットの手紙のやりとりが始まって1年とたたないうちに突然、マリアンヌの予想を超えた内容と変化したのでした。そのことに気づいたとき、マリアンヌは、自分が非常に難しい役回りを要求されていることを悟ったのです。そしてやはりリッカルドには、何も相談しませんでした。ジェロームのメッセージは、リッカルドより先に知るべき人物がいたからです。
「また、ヴァティカンに潜り込まなくては。でもリッカルドの助けなしに、どうすれば。」




