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マリアンヌの策略

第30章

 エレノアの死から5年以上の月日がたとうとしていました。


 ヴェネツィアの元首となったリッカルドは、非常の難しい局面にたたされていました。コンスタンチノープル陥落後、ヴェネツィア商圏を守りために、イスラム圏との融和策に出ざるをえない状況になっていたのです。それは、ヴェネツィアにとって他のキリスト教国、とりわけヴァティカンを敵に回してでも対応すべき死活問題でした。連日の十二人委員会との会議の間隙をぬって、リッカルドのもとに、秘書官からマリアンヌの来訪が告げられました。


 「婚姻関係を結ぶ?マリアンヌ、賢いあなたがそんな案を本気で考えているのか? ヨーロッパの国とは婚姻によって関係を築くことはできるが、スルタンの生母でさえ奴隷身分のハーレムに娘を入れたところで、何の意味もないことはおわかりでしょう。しかし、マリアンヌ、あなたのことだ、また何か隠し玉を持ってきたのでしょう?」


 連日の会議で疲れていたリッカルドにとっては、気易いマリアンヌとの会話は絶好の息抜きであったのですが、彼女は何か重要な相談がない限りやってこないということはわかっていました。

 「リッカルド、この問題は、大手門ではなく、搦め手から攻めてはどうかしら?キプロスを領有したばかりの改宗イスラム教徒のキプロス王のもとに、共和国の養女を輿入れさせ、ヴェネツィア側が、イスラム教国と手を結ぶという姿勢を見せるだけで、当面は満足すべきだと思うわ。」

 「なるほど、マリアンヌ。ヴェネツィアの東方貿易の最重要中継地であるキプロスの港をヴェネツィア商船が利用できなくなったら、生命線を絶たれたも同じ。妙案ではあるが、適当な候補の娘を推挙できる、ということなのかな。」

 「では、本題に入りましょう。私が懇意にしているあの女子修道院に、マリア殿のご姉妹のお一人の娘が預けられていて、私が後見人となっているのです。父親の名前はいえませんが、おそらくその父親本人も娘の存在を知らないでしょう。庶出の娘ではありますが、確かな血筋であることは保証いたします。その娘ジュリエットはまもなく10歳の誕生日を迎えるところですが、彼女を元首の養女という身分にして、友好の証として輿入れをさせてはどうでしょうか。」


 驚くリッカルドにマリアンヌは続けました。

 「それだけではありません。彼女には、幼い頃から私が十分な薬草の知識を教え始めています。ジュリエットが13歳を迎えるまでに傷の手当てから、閨に役立つものまで教え込むつもり。13歳になって、輿入れした後に、キプロス王を操って、キリスト教に再改宗させることもできるかもしれません。リッカルド、あなたもご承知のように、イスラムとの通商には目をつぶっても、イスラムとの結婚はさすがにヴァティカンはじめ、他のキリスト教国は納得しないでしょう。フランス王や神聖ローマ帝国皇帝に、ヴェネツイアの衛生国を侵攻する口実を与えてしまうかもしれません。表ではスルタンと友好の態度を示し、状況が暗転したらキプロス王を寝返らせる手段を用意しておかないと。」

 「しかしマリアンヌ、その娘の母親が許さないだろう。父親はその存在を知らないだろうから問題はないが。」

 「大丈夫。母親には説得できると思います。いえ、説得できると確信していなければ、こんな話はいたしませんわ。とても利発で、純粋で、それでいて心優しい娘よ。母親に似て。ただし・・」


 暫し考え込むリッカルド。マリアンヌ自身もあまりに突飛な提案であるとは覚悟していたのですが、真剣に検討している様子のリッカルドに脈ありと見て、最後のそしても最も重要なお願いを付け加えたのでした。

 「ただし?」

 「リッカルド、1つだけ条件があるの。父親を詮索しないとだけ誓ってください。そんな動きを察したら、決して母親は諾とは言わないでしょうし、私もその父親に殺されかねませんわ。」


 「わかった。君の自信がどこからくるのかわからないが、まずその娘に会おう。養女とするならば、どういう娘か私自身の目で確かめたいから。」

 「わかりました。明後日の晩餐に、この屋敷に連れてまいります。明日、早速母親のもとへ説得に向かいますから。」


 自分の出自を知らないまま、結婚をする。それがあの子にとって一番いいことだわ。これで秘密は永遠になる。マリアンヌはそう信じていました。


 「これはエレノア様の遺言でもあるのです、マリア殿」

 マリアへの説得は、この一言で済んだも同然でした。エレノアの最後の願いに応えられず会いに行けなかったマリアは、ずっとそのことを心の奥で詫びていたのです。自分の娘でありながら、年に数回しか会えず、しかも「叔母」という立場での面会であっても、マリアはジュリエットを心から心配し、その成長を気に掛け、肩身の狭い思いをしないようにと、修道院にはしょっちゅう心づけや援助を行っていたのでした。

 父親のわからない貴族の娘の行く末は、このまま一生修道院で過ごす運命しかなかったのです。仕方ないとは思いつつ、マリアはジュリエット自身に、フィリップに、そして亡きエレノアに、申し訳ない気持ちで一杯だったのでした。


 「マリア殿、あの娘、ジュリエットは本当に芯の強い、しっかりとした子です。異国の地で泣いて暮らすような弱い娘ではありません。しかも結婚相手のキプロス王ジェロームは改宗イスラムの王。異教徒ながら、大変立派な王であるとの評判です。今はイスラム教徒ですが、おそらくそれは、政治的な目的であって、ものの考え方はいまだキリスト教徒の心だと思いますわ。ご自分自身のハーレムなど持たず、領内のキリスト教徒にも寛容だという評判です。」

 「リッカルドも了承されたと、おっしゃいましたわね。」

 「ええ、リッカルド殿は、もちろん、ジュリエットの本当の母親が誰なのか、父親が誰か、詮索しないと約束してくれました。私からはマリア殿のご姉妹のお子様ということだけ。マリア殿のお身内の不名誉なことが表沙汰になるようなことは、彼は望みませんわ。おそらく恋多き長女のアンリエッタ様か、駆け落ち事件を起こした三女のジュリア様と考えていらっしゃるのではないでしょうか? それ以上調べることはしないはずですわ。無益なことですから。それより元首として国の外交政策上、この計画が大変有効だとお考えです。でもキプロス国王のことを、交渉相手として高く評価されていらっしゃいました。今申し上げた話も、リッカルド殿からの受け売りですわ。」

 「ジュリエットは、あの子は、この結婚で幸せになれるのでしょうか?」

 「実際のお輿入れは13歳になってから。まだ5年も先です。婚約期間は、今まで通りヴェネツィアで暮らしますから、いつでもお会いできますわ。キプロス王ジェロームはイスラム教徒で4人まで妻は持てるはずですが、今はまだ正式な妻はめとっておりませんし、仮にこの5年の間に誰かを妻としてめとったとしても、ジュリエットはサンマルコ共和国の養女としての結婚となりますから、第一夫人としてのお輿入れとなります。何よりあの子は自分で自分の道を切り開ける娘です。エレノア殿のお孫さんです。フィリップ殿やマリアエレナ殿より、自分の力を信じる血を受け継いでいるようですわ。そのチャンスを与えてあげましょう。第一夫人としての結婚ですわ。言うなれば王妃様という晴れがましいお立場です。こんな名誉なことはございません。何よりエレノア様が私にジュリエット様の後見を依頼なさったとき、私は約束したのです。立派な殿方とのご結婚を。それはエレノア様ご自身の痛切な願いであることも、マリア殿ならお分かりになるでしょう?」


 自らの意思で、正式な結婚をしなかったマリアンヌでしたが、ジュリエットには、まるでわが娘のような態度でいつくしみ、かつ教育を施しました。人生の後半にさしかかり、いままでの人生にはなんの悔いもない。でも自分の知識を誰かに伝えたいという気持ちが年々強くなっていたのです。ジュリエット自身も、好奇心旺盛で利発な娘であったため、マリアンヌの知識をどんどん吸収していきました。知識だけでなく、女子修道院で販売している化粧品や薬作りも手伝い、実践でも学んでいきました。


 実はエレノアの最後を看取ったのは、マリアンヌでした。終油の秘蹟を与えてほしいフィリップへの伝言の早馬を命じたのも彼女でしたし、エレノアの最後の願いを聞き取ったのもマリアンヌだったのです。マリアを説得するときに話したエレノアの遺言というのも本当でした。しかし、マリアンヌ自身、そのときはその遺言は果たせるか、全く自信がありませんでした。だからこそ、自分のように結婚できなくても自活できるようにと、ジュリエットに薬草の知識を教え込んでいたのです。


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