出生の秘密
第29章
マリアンヌがエレノアの病床にやってきたとき、エレノアはあまり驚かず、「そうね、そのほうがよいわね。」とだけつぶやきました。マリアンヌは、すぐに人払いをした後、こう切り出しました。
「エレノアさま、マリア殿とリッカルド殿の代理としてまいりました。そして何より、あなた様のためにやってまいりました。エレノア様のご伝言を承る前に、どうぞそのままで、私がリッカルド殿よりエレノア様にお伝えするようにと言付かってきた話をまずお聞きください」。
それは、エレノア自身が知らない、エレノアの出生についての話だったのです。若き日のリッカルドが父より受け継ぎ、ずっと極秘としていた情報でした。
エレノアがある司教の私生児だということは、本人も、フランソワやエドモン、フィリップといった身内の人間のほか、ヴァティカンでも周知ことでしたが、母親が誰かということは知られていませんでした。
実はヴァティカンが、ある意味イスラム教を信奉するトルコよりも対立している相手、同じ”身内”のキリスト教の一派、ラングドックのカタリ派の頭目の娘だったのです。つまりエレノアは、カトリックの司教と異端の宗派の娘の間に生まれたこどもだったのです。
当時すでにカタリ派はローマ国教会からは異端宣告を受けており、苛烈な異端審問が行われていた時代でした。
エレノアの父がまだ司教にもなっていない青年時代に、カタリ派の頭目の娘と知らず恋に落ちてしまったのでした。その娘は青年の保護下で密かに身を隠し、エレノアを産みます。その後、青年は伯父の枢機卿に引き立てられて出世、エレノアの母もローマ郊外の館で娘とともに暮らしていました。
幼いエレノアは、数回、父とともにヴァティカンに行ったことがありましたが、やがてエレノアの伯父の推薦で、エレノアの父が司教に選出されると、次期法王位を巡って伯父のライバルである枢機卿らから、彼女の出生の秘密を執拗に探り出そうとする動きが始まりました。エレノアの存在を隠さなければならないことになり、エレノアの父は悩みます。そんなとき偶然にフランソワの父王の隣にある公国の宰相夫人となっていた女性の別荘にエレノアを養女として住まわせるよう手配できたのです。
しかしエレノアは、この女性になじめず、家人に疎んじられたまま、美しい娘に成長し、エレノアの父の叔父の枢機卿が法王に選出された年には15歳となっていました。このころ、どのように探り出したのか、エレノアの父母の情報を掴んだヴェネツィアは、ヴェネチィア商人だけに通行税を免除する特権と引き換えに、フランソワの父にエレノアの出生の秘密を教え、新しい教皇との外交交渉に、将来この情報が使えるとそそのかしたのです。フランソワの父は、ヴェネツィアと結託し、この娘エレノアを息子の嫁にする密約を交わしたのです。疎んじられていたエレノアのところにきて、美しく調え、豪華な洋服を着せ、馬車を用意したのは、魔法使いでも何でもなく、実はリッカルドの父だったのです。このときエレノアの母の出生まで知っていたのは、実はヴェネツイアの十二人委員会内の数名と、密命を帯びたリッカルドの父とリッカルドだけでした。
父王の目論見通り、フランソワはエレノアに恋をし、結婚することとなりました。フランソワが皇太子として正式に認められたとき、父王はフランソワに事の次第を打ち明けました。ところが心からエレノアを愛していたフランソワは、「エレノアを政争の具にはしない、将来自分が王位を継いだら、その密約を反故にする」と宣言したのです。
父王は翻意を促そうとしましたが、上手く行かず、父王が病の床に就くとすぐフランソワは、ヴェネツィアと交渉をはじめました。恋する若い王子は、エレノアを守るのは自分しかいない、という自分の使命感に燃え、エレノアへの愛と自分の能力を証明したいという強い思いで一杯だったのです。そして騎士道精神と法王への忠誠を示すために、「自分はそもそも法王派である、密約を反故にされたくなかったら、エルサレム往復の旅費と滞在費を負担せよ」と当時ヴェツィア共和国大使であったリッカルドの父に迫ったのでした。
父王のような能力も思慮もない政治や外交の経験も知識も乏しいフランソワにヴェネツィア政府は不安を覚えはじめ、ついにコントロールしにくいフランソワを亡き者にし、代わりに弟のエドモンを領主にして、二国間の関係を良好に維持しようという陰謀がヴェネツィアの十二人委員会で討議されます。
当初の計画では、表向きはフランソワをエルサレムで疫病に罹災したことにし、毒薬で病死させようというものでした。エドモンがエレノアと結婚したものの、フランソワに逃亡され、帰国されてしまい、この計画は失敗。エドモンとの結婚も破棄となり、そのまま十年以上状況をみていた十二人委員会でしたが、フィリップがヴァティカン入りしたのを好機とみた委員の一人だった父王の命を受け、リッカルドがフィリップに近づき、フランソワ除外の動きが再び始まったのでした。フランソワのもとにマリアンヌを送り込んだのも、実はヴェネツィアが立てた計画を、ヴェネツィアに恩を売る機会と考えた皇帝が了承したというのが真相でした。
しかしそのうち、エドモンも心からエレノアを愛し、大切に思っているという事実や、皇帝がフランソワを領主として認める態度を示しはじめたことで、ヴェネツィアも計画を中止しようかと再検討し始めたところ、フランソワが暗殺され、エドモンも重傷という悲劇が起こってしまったのです。まさしくリッカルドが、この計画の火消しの最中のことでした。リッカルドとしては、フランソワの後継者であるジャンカルロが、非常にバランス感覚がある優れた人間であり、ヴァティカンとも良好な関係を保ち、婚姻により皇帝と縁続きとなったことからも、過去の計略など清算し、このままジャンカルロが安定した体制を維持してほしいと願っていたのです。
「そう、そうだったの。だから、以前ヴァティカンに行ったときに、なぜか懐かしい気分になったのは、そういうことだったのね。」
「エレノア様、こんなお体のときに、こんなことをお伝えすることになるなんて、本当に申し訳なく存じます。でもリッカルド殿は、本当に申し訳なかったと、心から。私も若き日に、この陰謀の片棒を担ぎ、あなた様を心から苦しめてしまいました。」
「何を謝るの?わかっています。マリアンヌ殿。確かに、ここまでリッカルド殿が、私やフィリップのたちのことに気遣いをするのは、何故なのかと思ってはいたわ。私への罪滅ぼしなのかしら。でも私は自分の幸せのために精一杯戦ってきたわ。フランソワと結婚したことも、エドモンを愛したのも、すべて私の意志よ。何も後悔することなんてなくてよ。」
「エレノア様。私、心から尊敬しております。本当にエレノア様は、運命を恨まず、どんな嵐にも怯まず、いつも前向きに対決なされてきましたわ。」
「それは、あなたも同じでしょ、マリアンヌ殿。幸せを掴もうと必死で・・・」
「エレノア様」
エレノアの弱弱しい声に、はっとなったマリアは、急に心配になりました。
「ご気分は大丈夫ですか?」
「ええ、今日は、もう少し疲れてしまったようです。私の話は明日でよろしいかしら?」
エレノアはまもなくやってくる死を前に、ひとり心の整理をしたかったのです。
翌日、エレノアは、カタリ派のこと、決してフィリップに言わないようにとマリアンヌを通じ、リッカルドに頼みました。
「フィリップのことだから、法王の孫ならともかく、異端の子孫だと知った途端、ヴァティカンを飛び出すでしょう。そして、もうひとつ、もっと重要なことがあるの。最後の望みだから、絶対リッカルド殿に伝えてくださいな。フィリップとマリアの子のことをお願いしたいの。リッカルド殿に、フィリップの子の後見人となり、身分の保証をしてほしいのです。」
「エレノア様・・・」
「誰の子かわからず、つらい思いをするのは自分で最後にしたいの。もちろんマリア殿の幸せを壊すつもりはないの。リッカルド殿なら私の望みを完全に理解してくれるとわかっているから、お願いできるの。私の出生の秘密を、彼が私を騙し続けてきた事実を明かすようにあなたに託した信頼はゆるぎないものだわ。もちろん母親が誰だかは言わなくていい。フィリップの子だと、私の孫娘だということだけでいいの。将来、正式な結婚をするための後見人になってほしいだけ。私のお願いを、彼が断れるはずはないわ。あなたも、マリアンヌ、あの子があのまま女子修道院で一生を過ごしてほしくないでしょう?」
「エレノア様、きっとリッカルドは母親が誰なのか調べてしまいますわ。そうしたら、マリア殿のお立場が。」
「大丈夫、あなた以外は私とマリア殿ご自身しか知りません。」
「でも、フィリップの子ということでは、同じヴェネツィアに住んでいるマリア殿が、わが子に会いにいくことができませんわ。それではあまりにマリア殿がおかわいそうです。」
涙ぐんだまま「お願いだから」と繰り返すエレノアには、もうあまり時間が残っていないことは、マリアンヌが一番よくわかっていました。
「エレノア殿、あの子の父親を明かすより、母を明かすのはいかがでしょうか? 私によい案がございます。リッカルド殿が疑いそうもなく、マリア殿も会えるようなお立場でよろしければご用意できます。もちろん私が後見人として、生活を保証いたしますわ。そして、しかるべき結婚も。」




