マリアの出産
第27章
その年の秋は、早くやってきました。木枯らしが、紅葉した木々の葉を吹き飛ばしはじめたころ、リッカルドの奥方が、とうとう危篤状態となってしまったのです。近くに住むマリアは、もちろん姉につきそうため、毎日のように姉の枕元にやってきていました。しかし半病人のエレノアが、まだ自分の屋敷に滞在中だったので、泊まることはありませんでした。そのまま、病状は一月ほど一進一退を続けていましたが、もはや誰の目からみても回復の兆しは期待できないままでした。妻の最後を少しでも苦しまないようにしてあげたいリッカルドは、ついに痛みを和らげる治療を、マリアンヌに依頼したのです。
「今までずっと、妻はあなたのところの修道院で処方箋をいただいていましたから、あなたが一番よく病状がおわかりでしょう。もう長くないのであれば、少しでも楽にしてあげたいのです。」
「わかりました、リッカルド殿。それが一番よいことと私も思います。少しでも痛みを和らげて差し上げましょう。」
マリアンヌは連日泊り込みで、リッカルドの奥方のために尽くしていたのですが、六日目の明け方、そっとリッカルドに告げたのでした。
「神父さまをお呼びになってください。終油の秘蹟を授けてくださいますように。」
ここ数週間、エレノアと姉の両方の看病の疲れがたまったのか、姉のもとに来ることができなかったマリアは、リッカルドからの知らせを受けてもすぐに駆けつけられず、とうに神父様もお帰りなった夕暮れ時にやってきたのです。
「もう、意識はないのですか?」
声は振るえ、足元も覚束ないような状態で、召使に抱きかかえられるように部屋に入ってきたマリアに突然問いただされたマリアンヌは、黙ってうなずくしかありません。
「姉上、姉上、私をお許しください。どうか私を。」
そのとき、ふと、枕元に身を投げ出し泣き崩れるマリアの、その体の変化に、マリアンヌが気づいてしまったのです。
「いえ、そんな、まさか。リッカルド殿はご存知なのかしら?」
息を殺したように部屋の隅にじっと立ち、遠い目で妻をその妹の永遠の別れの様子を見つめるリッカルド。今まで見たことのない生気のない顔つきをしたリッカルドの姿に、マリアンヌは当惑し、しばらくの間は自分が気づいてしまったマリアの妊娠の兆候は、黙っておこうと思い、かわりに彼にささやきかけました。
「しばらく姉妹二人だけにしてあげましょう。」
寝室から出た二人は、そのまま何もいわず、邸内にある礼拝堂に向かいました。まもなく主の元に向かう魂の平安を祈ることにしたのです。
それから半時もしないうちに、マリアの召使が、礼拝堂に駆け込んできました。
「だんな様! マリアンヌ様! 大変です。マリア様が、気を失われてお倒れに!」
二人が慌てて部屋に戻ると、マリアは苦しい息をしつつも意識が戻っていました。
「ごめんなさい。いつもの眩暈がきて。屋敷に戻れば落ち着くわ。」
ショックで陣痛が始まったのだ、と何度も出産に立ち会っているマリアンヌは直感しました。
リッカルドには気づかれないほうがよい。次の陣痛が襲ってくる前に、屋敷に戻らせないと。しかしあの体つきだと、産み月には早いはず、おそらく早産だろう。私がきちんと処置しなければ生まれてくるお子も、マリア殿も危険な状態に陥ってしまう。しかし、あの屋敷にはエレノア殿がいる。私を忌み嫌っているだろうエレノア殿が。。。
そうマリアンヌが考えていると、リッカルドが叫んだのでした。
「マリアンヌ殿、すまない、私は何もできない!今はあなたにお願いするしかない。何とかマリアを!」
「わかっています。とりあえず彼女を屋敷に。ここでは彼女を心身ともに落ち着かせることはできません。私が一緒にお屋敷に戻って看病いたします。」
初めて目の当たりにしたリッカルドの取り乱した姿に、マリアンヌは腹をくくったのでした。
息も絶え絶えに、陣痛の痛みに耐えるマリアが担ぎこまれたとき、エレノアはちょうど夕べの祈りを終え、床に就こうとしたときでした。
動揺した様子のリッカルドが慌ただしくエレノアにマリアンヌを信頼する治療師として紹介をしたのも早々、エレノアはマリアンヌの手伝いを申し出たのでした。
エレノアとマリアンヌが、まともに顔を合わせる機会というのは、実はこれが初めてでした。もしまだエドモンもフランソワも存命中のときだったら、とてもエレノアは耐えられなかったでしょう。しかし、まったく違う人生とはいえ、艱難辛苦を乗り越えてきた二人には「目の前の最も大切な問題にだけ気持ちを集中させるしかない」という処世訓が身についていました。マリアのお産に集中している女性が、噂に聞くマリアンヌだと気がついても、マリアに付き添い、まるで彼女の本当の母のように励ましている女性が、自分を忌み嫌っているであろうエレノアだとわかっていても、マリアと産まれてくる子を救うという大事の前には、どんなに相手を疎ましく思っても、協力しあわなければならないことは二人にはわかっていたのです。
ただ、一言、マリアンヌは、こうエレノアに問いかけただけでした。
「あなた様は、ご存知だったのですね。」と。
なかなか産まれないまま、朝が来て、昼が過ぎ、夜の帳が下りると、さすがに二人の間に疲労と緊張が高まっていきました。
「どうしたのかしら? なぜ産まれないの? 薬草も効果がないわ。」
「エレノア様、マリアどのは産み月が早い上に、逆子のご様子です。」
「そんな! 何とかなるのでしょう?」
「何とか逆子は直したのですが、そのとき、へその緒が首にからまってしまったとしたら、やっかいです。」
「マリアは、そろそろ体力の限界に近づいているわ!」
「出産ばかりは、病気や怪我の治療ではないので、ご本人の気力がないと。」
「そんな無責任な!何とかしてあげて頂戴!」
「エレノア様、マリア殿は、この出産を心から望まれていらっしゃるのでしょうか?」
「それは。。。」
「最後はご本人のご気力です。」
「あなたの薬草は? ほかに手立てはないの?」
必死なエレノアの懇願に、マリアンヌは「マリアエレナを助けて」と泣き叫ぶ20年前の彼女の姿が頭よぎり、無意識に、肌着の下に隠して自分の首にかけていた珊瑚のネックレスをマリアに首にかけたのです。「珊瑚のネックレスは、安産のお守りよ。これがマリア殿を守ってくださるわ。だから、頑張って頂戴。」といいながら。
それは、あのマリアエレナの治療のお礼に、若き日のエレノアがマリアンヌの母に渡したものでした。
なぜ、あのネックレスを彼女が?と驚愕しマリアンヌに思わず尋ねるエレノア。
「それは?そのネックレスは?」
「これは、母の形見なのです。エレノア様。昔治療したお礼にいただいたものだとか。」
ネックレスが効いたのか、マリアが気力を取り戻し、翌朝の明け方、無事に女の子出産しました。
最初の授乳が済み、生まれた子とともにうとうとと眠るマリアの横での、エレノアとマリアンヌは、安堵と疲れを感じつつ、お互い伏し目がちながら、しみじみと語り合いはじめました。
「あなたが娘を、あのときマリアエレナ助けてくれた、薬草使いの娘さんだったなんて。
なんて運命のいたずらなんでしょう。」
「申し訳ありません。エレノア様。私はあなた様に憎まれて当然の存在です。」
「いいえ、いいえ、あのときもあなたは、お母様とともに、ずっと献身的に娘の治療にあたってくださった。私、覚えていてよ。忘れるものですか。」
「でも、私は、あなた様を苦しめてしまったこともございます。」
「お互い、生き抜くために精一杯のことをしてきただけだわ。そうでしょう?ね、この話はもうおしまいにしましょう。マリアンヌ殿」
「お許しいただけるのですか?」
「許すもなにも。今は感謝の気持ちだけです。今また、マリアと、この子の命を救ってくださった。」
「ありがとうございます。けれど最後は、マリア殿が、気力を振り絞ってくださったから。私の力ではありません。」
「ああ、本当に、こどもは未来への希望だわ。」
「エレノア様、伺ってよろしいでしょうか? この子の父親は? そもそもこの子の父親はどなたなのでしょう? お心あたりがございますか?」
「それは。」
「差し出がましいことは承知でございます。ただ、女の子とはいえ、出生の秘密を取りざたする者もございましょう。今はサンマルコ共和国の元首の孫娘という晴れがましい立場ですが、将来はどうなるのか。マリア殿の妊娠にはリッカルド殿もまだ気づかれていらっしゃらないようですが。」
「まさか、この子を隠せと?もしやこの子を亡き者にせよとおっしゃるの?」
「エレノア様、落ち着いてくださいませ。まだお若いマリア殿のこと、この先、再婚されるやもしれません。そんなとき、誰が父親のわからない貴族の娘の行く末は、」
そこまで言いかけて、マリアンヌは、はっと気がつきます。
「いいのよ、マリアンヌ殿。父親がわからないとさげすまされる辛さは、何より私自身がよくわかっております。それどころか、この幼い命は、私と同じね。父親がわからないなら、まだましね。悪魔の子とののしられるかもしれないわ。」
「え?」
「この子の父親は、ローマ教会に仕える身の上ですものね。」
「なんてこと!ではフィリップが!」
父親はてっきりリッカルドだと踏んでいたマリアンヌは、敬称をつけ忘れて叫ぶほどの衝撃を受けます。まさか、フィリップとは。表向きはエドモンの子でも、妻の妹の子として、跡継ぎのいないリッカルドの養女にしてもらい、亡くなった姉の後妻として妹のマリア殿がリッカルドと再婚すれば、万事うまくおさまると考えていたのです。
「エレノア様、本当に父親はフィリップ殿なのですか?」
「ええ、あんなにリッカルド殿を愛し、盲目的なまでに慕っていたマリア殿なのに、なぜフィリップの気持ちを受け入れてしまったのか、私にはわかりません。あのときお互いつらい時期だったのでしょう。誰かに縋りたかったのかもしれませんね。」
「このことを知っているのは。」
「さあ、あなたと私、そしてマリアの3人だけでしょう。マリア殿はずっと誰にも気づかれないように振舞っていました。フィリップも妊娠のことは全く知らされていないはずです。」
そのまましばらく黙り込んで暖炉の火を見つめていたマリアンヌでしたが、ついに意を決したように、エレノアにこう言ったのです。
「マリア殿の幸せを考えるとリッカルド殿と再婚されるのが一番と思います。子どものことは知らせずに。もし、この子の存在を知ったら、リッカルドのことですから、真相を究明してしまうでしょう。そのときフィリップ殿との友情も終わってしまいます。
この子は、私が懇意にしているヴェネツィアの女子修道院で預かってもらいましょう。私が責任をもって後見人になりますし、会いたければマリア殿はいつでも会いにいけます。
フィリップ殿には何も知らせる必要はないでしょう。ヴァティカンでのお立場を危うくさせるようなことを、わざわざ申し上げる必要はございませんし、正直で謹厳実直なフィリップ殿のこと、誤魔化したり、隠し通せるとは思えません。」
「でも、マリア殿が納得されるかどうか」
「エレノア様、あなたにお願いしたいのです。マリア殿への説得を。私では出来ませんが、エレノア様のおっしゃることなら、きっとマリア殿は理解してくださるはずです。」
「でも・・・。」
「エレノア様、あなた様とマリア殿と私と、3人だけの秘密です。あなた様も、これ以上、政治に、男の都合に振り回される女の哀しみを見たくはないのではないですか?」
このときはじめて、エレノアに対しはっきりと目を見据えて話したマリアンヌに、エレノアはかすかな友情の芽生えを感じたのでした。
「マリアンヌ殿、承知しましたわ。私がマリア殿を説得いたしましょう。」




