密会
第24章
宰相との交渉が遅々として進まず、焦りを感じ始めていたフィリップのもとに、追い討ちをかけるように法王からの急使がやってきました。数日中に宰相との交渉まとめ、必ず秘密文書にて作成した上、印璽と皇帝の署名つきの正式なものをフィリップ自身が持ち帰るようにと。それもできるだけ早く。
確かになかなか交渉をまとめられないフィリップに、法王からこのような指示が飛ぶのも当然だとあきらめ、フィリップは宰相より法王と交渉するかのようなプランBを実行するほかありませんでした。
「カルロス殿は、今行っている法王領の軍事行動が終わり次第、いったんローマに戻って法王への報告を終えた時点で、教会軍総司令官の任を解かれること。ただし、あくまで法王と皇帝間だけの内密な決定事項として、年内中は、解任の発表はしないこと。これならば宰相も納得させることができるので、ご了承いただきい、」
との返事を急使に渡し、ひそかにザルツブルグ行きの用意をはじめたのです。
秘密文書に調印する段になって、フィリップは申し出てみました。
「署名は、皇帝陛下にしていただきたいのですが、まだザルツブルグからお戻りにはならないのですか?」
「閣下は、まだ2週間ほどはご滞在の予定です。」
「それならば、私自身が、この文書をもってザルツブルグに参りましょう。法王様より、私自身が持ち帰るようにと拝命しておりますので。」
突然の申し出に、宰相はかすかに驚きの表情を見せましたが、すぐにこう答えました。
「なるほど。では、私どもの護衛をザルツブルグまでの道案内と警備を兼ねて同行させましょう。」
「それはありがたい。ご配慮感謝いたします。」
監視つきでも構わない。とりあえず、今はザルツブルグへ行くべきだ。そうフィリップは確信していました。先日のマリアンヌとの情報交換で、きっとリッカルドがいるに違いないと思っていたのです。
フィリップがザルツブルグに向けて出発した数日後、マリアンヌがいつものように、カサンドラ様が静養中の山荘に呼ばれて、つわりの看護と、体調確認のために出かけた先で、思わぬ人物と鉢合わせすることになりました。
マリアエレナです。皇帝の宮廷内に軟禁状態となっていた彼女も、最近になってやっと、皇帝領内では自由な行動が許されるようになったのでした。アナスタシア様を通じて、カサンドラと知己になっていたのですが、カサンドラは、あのクリームをマリアエレナにも教えたくて、マリアンヌを呼んだその日に、彼女を招待しました。マリアエレナは出かける前、カサンドラ様のお友達、としか聞かされていなかったので、また顧客が増えると喜び、いつもより沢山のクリームを持ち込み、さっそくカサンドラ様とお友達の前で、その効用を丁寧に紹介していたのです。
マリアンヌがマリアエレナだと感づいたのは、実際、クリームをデコルテに塗って差し上げようとしたときでした。マリアンヌがショールを外したときに、あの肩の傷に気がついたのです。
「驚かれたでしょう? この肩の傷。私、余り記憶にないのですが、幼い頃、事故で深手を負ってしまって。」
「いいえ、職業柄、いろいろな傷を治療してまいりましたから。奥様、ぜひこちらのクリームをお使いになってください。傷跡が少しずつ薄くなってまいります。今でも痛むのですか?」
「ええ、冬になると少し。それに今日のような雨の日も、少し痛むのです。」
「古い傷あとでも、湿気はよくございませんから。本当にこんなひどいことを。」
マリアンヌは、驚きで手が止まらないようにしていましたが、あの時見た幼い女の子の蒼白な顔を思い出して、ああ、そうだったのかと、柄にもなく涙ぐんでしまいました。
「お優しいのね。でも応急処置が早かったそうなので、この程度で済んだと後で母から聞かされました。」
「ええ、でも、あのときは薬草が足りなくて」
「あのとき?あなた、何かご存知なの?」
内心、口を滑らせたと思ったマリアンヌでしたが、平静を装って答えました。
「いえ、母の代から、薬草を取り扱っておりますので、昔のこともいろいろ聞かされております。あのころは戦乱に天候不順が続き、必要な薬草を集めるのが本当に一苦労だったとか。」
「そうだったの。じゃあ、私が助かったのは奇跡だったのね。」
そのままマリアエレナの背中にクリームを塗っていると、そこへ、かわいい男の子が部屋に飛び込んで、マリアエレナの膝の上に乗ろうとしました。
「あらあらアラン、だめよ、お母様は、まだ治療中なの。カサンドラ様のところにいらっしゃい。」
なんてカルロスに似ている男の子だろう、とマリアンヌは思いました。リッカルドからカルロスの奥方様は、フランソワ、というかエドモン殿の娘だって聞かされていたけれど、あの女の子のことだったのね。なるほどね、カルロスは命の恩人に違いないわ。でもマリアエレナ様に、自分とカルロスのこと、フランソワのとのこと、フィリップのことを話したら、どんな顔をするかしら?
カルロスが法王領の平定を完了し、その報告にヴァティカンに戻ったとき、フィリップはすでにザルツブルグに向かった後でした。カルロスの報告中、しきりに妥協案しかまとめられなかったフィリップへの不満を漏らす法王でしたが、カルロスはただ冷静に聞き流していました。心中では、そもそもエドモンの回復までという取り決めだから、宰相の要求に理があるじゃないか、と思いながらも、どうせ自分はまもなくお役御免なのだから、わざわざ波風立てる必要はない、と割り切っていたからです。しかし、自分の後任者に誰を据えようという腹なのかだけは、ぜひとも探っておきたかったので、法王を上機嫌にして、口を軽くするために、カルロスは、柄にもなく、お愛想を言ってみました。
「しかし、法王様、これでメディチの督促に、もう悩まされずに済みますな。いや、本当に彼らが信じているのは、聖書ではなく、金貨なのでしょう。」
「誠に、カルロス殿。まるでこうるさい母親の小言のようじゃった。いや、アンジュー候が以前、やはりメディチから戦費を借りたときなど、返済が滞ったら、領土の一部をとられそうな勢いだったとか。同じ商人だったら、ジャノヴァの連中のほうが、まだ情に厚いわ。」
「私が聞いているところによりますと、ジェノヴァは船乗りの国ですが、ヴェネツィアと違って、気は荒いが情が深いとか。」
「そうそう、私もマルセイユの大司教だったときに、船乗りの親玉連中と懇意にしておったが、なかなか男気がある。」
「ラングドッグの人間は、名誉と義理を重んじますからな。」
「まさに、その通り。その点、己の利益しか計算しないヴェネツィアとは大違いだな。ジェノヴァは信用できる。」
あなただって自分の利益しか考えていないじゃないか、と心の中で悪態をつきながら、カルロスは、「ジェノヴァが要注意だな」と考えました。最近ヴェネチィアに押され気味で、商圏回復のために法王と手を結ぼうとしていることもありえるかもしれない。
カルロスがローマから、数ヶ月ぶりに自分の城に戻ってみると、マリアエレナは不在でした。カサンドラ様に呼ばれて、山荘に訪問したところ、ここのところの豪雨で、途中の橋が流されてしまい、帰るに帰れなくなってしまっているとのことだったのです。
そこへ宰相からの呼び出しがきました。すぐにでもマリアエレナの無事を確かめたいカルロスでしたが、帰国の挨拶と状況報告のために宮廷に伺わねばならず、伺候したカルロスに、宰相は特命を告げたのです。
「帰国早々、申し訳ないが、そなたも聞いていることと思う。そなたの奥方が、カサンドラ様の下で、立ち往生している。ちょうど夫君は皇帝陛下とともにザルツブルグに同行されていて、対応できないのだ。そこで、兵隊と職人を率いて、橋を修理し、救出に向かってくれ。」
願ってもない命令に、カルロスは快諾しました。
「すぐにでも出発いたします。ご安心ください。」
「それからもうひとつ。個人的な頼みで申し訳ないが、聞いてもらえるだろうか。 貴殿も奥方と再会後、ゆっくり過ごしたいとは思うのだが。」
「どのようなことでしょうか?」
一刻も早くマリアエレナとアランに会って、親子水いらずで過ごしたいという気持ちで一杯だったカルロスでしたが、儀礼上、話を伺わざるをえません。
「同じくカサンドラ様のところにいる、我が家の侍医を連れて、ジェノヴァまで使いに行ってくれないだろうか。」
「ジェノヴァに?」
「そうだ。そこの商人に依頼したある荷物を受け取りに行くのだが、何しろ治療に使うものなので、内容に問題がないか、確かめてから受け取りたいのだ。個人的なものなのだが。」
ジェノヴァか。フィリップ不在の今、法王の動きは私が調査するしかないし、このタイミングで、怪しまれずジェノバヴァ入りできるとはいい機会かもしれない。カルロスは承諾する旨を答えました。
カルロスは、帰国の3日後には、人員をかき集め、橋の修復に向けて出発しました。冬が来る前に橋を修理しておかないと、大変なことになるので、とりあえず間に合わせの木の橋を作り、春を待って、本格的な石橋を作ることにしました。2週間とたたないうちに、カルロスは、希望通りマリアエレナとアランに再会することができたのです。そして予想外なことに、“侍医”のマリアンヌとも。
そのころ、フィリップはザルツブルグで皇帝陛下と会見を持ち、何の支障もなく、秘密文書に印璽と署名を賜ることができました。表向きのザルツブルグ入りの目的は、容易に果たすことができたのですが、リッカルドを探すという裏の目的は、難航します。そもそも何も手がかりがなかったのです。もちろん皇帝や大司教に聞くこともできません。本来の目的が完了したのに、ぐずぐずとザルツブルグに滞在していては、怪しまれる上、宰相がつけてくれた護衛兵の中に、フィリップの言動を宰相に報告している人物が紛れ込んでいることくらい容易に予想できました。結局、せっかくザルツブルグまでやってきたのに、リッカルドを探し出すことは果たせなかったのです。フィリップは、だんだん心配になってきました。
「やはりリッカルドは皇帝の宮廷近く幽閉されているのではないか? それとも本国政府での政治闘争に巻き込まれたとか。」
暗い気分のまま、状況だけ伝えようとローマに帰る途中で、フィリップは、複雑な感情を抱えながらも、マリアのところだけは寄ることにしました。ただでさえ、不安な日々を過ごしていたマリアは、フィリップの話に、すっかり精神が不安定になってしまい、取り乱します。
「今まで、一度もこんなことはありませんでした。どんなときでも連絡をくださったのに。やはりどこかに幽閉されて。ああ、どうしましょう。」
マリアを慰めるつもりだったのか、ただ彼女に会いたいだけだったのか、自分自身も、不安と、自信喪失と、自暴自棄な気分に負けたフィリップは、ここでまた泣きじゃくるマリアと一晩ともに過ごしてしまったのです。おかしなことに、フィリップには、これがリッカルドを裏切る行為だとは感じてはいませんでした。そしてマリアが遠い将来、このことをリッカルドに告白するとも全く考えつかなかったのです。
結局、このザルツブルグ行きで、フィリップは大きな過ちを二つ犯してしまったことになりました。そもそもザルツブルグで大司教から、一緒に晩餐でもと内密に会談できる機会を招待されていたのにもかかわらず、気分が優れないと断ってしまい、状況を把握し、打開するための絶好の機会を自ら放棄してしまっていたのです。この行為で、フィリップはヴァティカンでの自らの立場を危うくすることになってしまうとは予想していませんでした。
そして、この日マリアを抱いてしまった報いは、しばらく後にやってくることになります。エレノアは、同じ屋敷内にいて、すでにそれを予感していました。しかし、彼女もどうしていいか、わからなかったのです。




