それぞれの想い
第23章
フィリップは一人悩んでいました。
この情報をまずは法王に知らせるべきだ。しかし、何よりエレノアと祖母、そしてマリアの身の安全の確保も最優先だ。リッカルドとどう連絡を取ればよいのか、しかし自分はリッカルドと今まで通りに接することができるのか。マリアの本当の気持ちは…考えるべきことと感情が混乱し結論が出せないでいたところへ、数奇の馬の足音、話し声が聞こえてきました。幸いにもジャンカルロが派遣した交代の護衛兵たちが到着したのです。
「フィリップ殿、到着が遅れたことを、主君がお詫び申し上げるとのことです。」
「そうか、ジャンカルロから他に伝言はないか?」
「いえ、特には。ただ、皇帝陛下から、ご子息の誕生の謁見に来るようにとの連絡が入りましたため、急ぎ準備されておりました。」
「それは、ソフィー殿もご同行されたのか?」
「実は、奥方殿は産後の肥立ちが悪く、まだ床から起き上がれずにおりまして。」
今は自分一人で判断しすぐ対処しなければ大変なことになる。腹をくくったフィリップは、さっきまでのぐだぐだと悩んでいた様子とは別人になったように指示を出しました。
「申し訳ないが、皆、今から私の指示に従ってくれ。君たちの中で、一番の早馬の者は誰だ? そうか、君か。ではすまないが急ぎ主人の元に戻り、この手紙を渡してくれ。リッカルド殿がマリア殿に送ったものだと必ず伝えるのだぞ。君たち4人は、明日の朝明け方には、エレノア殿、その母上、マリア殿を連れて、ヴェネツィア郊外のエドモン殿の屋敷へ送り届けてほしい。そして、君たち2人は、今から私と一緒にヴァティカンに行ってくれ。」
自分でも信じられないくらい迅速に矢継ぎ早の指示を出したフィリップは、とりあえずリッカルドを信じ、母と祖母とマリアの身の安全だけを今は考えようと決心していたのです。
「フィリップ、私はここに残ります。」
それまで何も言わなかったエレノアの母がはっきりと口にしたのです。
「こんな老母がいては、足手まといでしょ。それに私の存在は公にはできない身の上よ。私だけだったら、誰からも狙われないわ。大丈夫、長い間ずっとここに住んできたのよ。」
「けれど、お母様!」
「エレノア、あなたはフィリップの指示に従いなさい。私はここにいるわ。事態が収まったら、また会いに来れば良いでしょ。さ、フィリップ、あなたは自分がすべきと思う通りになさい。」
優しいけれど威厳のある物言いに、フィリップはそれ以上何も言えなくなってしまいました。
「マリア殿、すまないが、母上を頼む。」
「でもあなたは?」
「私は枢機卿ですよ。法王への忠誠を誓った人間です。大丈夫。私もリッカルドも。愛する人のために、命をかけるくらいの覚悟はあります。」
そう言って、フィリップは、護衛兵二人と夜の闇を馬でかけていきました。
フィリップの予想はこうでした。リッカルドは狙い通り、宰相の信任を得ることに成功したのだが、南下政策をそそのかす廷臣の一派が宮廷内にいて、南下政策実行を進めようとした皇帝に、宰相が再考を進言し、それで皇帝が立腹したのだろうと。
でも、なぜ今なのかは、わかりません。皇帝はカルロスもジャンカルロも、そのほか皇帝派の領主たちに総動員をかけるつもりなのだろうか、と不安になるフィリップでしたが、相談相手もいない今、一人で決断するしかありませんでした。
ヴァティカンに到着すると、フィリップは護衛兵二人を自室に待機させ、法王の私室へと向かいました。
「こんな夜中に、どうしたのだ?」
「猊下、こんな時間に申し訳ございませんが、火急の事態のためお許しを。皇帝が動き出したとの情報がございます。皇帝派の領主たちに総動員をかけはじめたようです。」
「まさか。ヴェネチィア大使からの情報では、皇帝は、噂どおり数日前にザルツブルグに向かったというではないか。」
「ザルツブルグ?」
「ああ、ザルツブルグ大司教の館に招待されて、狩を楽しむそうだ。実際、大司教からも、その旨の通信がきている。」
「ザルツブルグといえば、もしや。」
「ああ、狩といってもな、本当の目的は岩塩窟の視察らしい。帝国内で塩の流通が滞っているらしいのだよ。」
「もともと、彼の南下政策の目的のひとつは、ナポリやシチリアの塩田でございました。皇帝自ら視察するとは、よほど厳しい状況なのでしょう。やはり行軍準備に入ったのでは?」
「まあ、その前にもう一度、ナポリも含めて、外交交渉するチャンスはあると思うが。とりあえず、そなたは、カルロスの件で、時間かせぎをしてくれないか。場合によっては、ザルツブルグ大司教とも相談してもらわねばならないかもしれない。」
「かしこまりました。しかし、なぜ私に、皇帝のザルツブルグ入りの情報をお知らせいただけなかったのですか?」
「なんと、貴殿はあの噂をご存知なかったのか?そうか、エドモン殿の葬儀でパドヴァにいらした頃に飛び込んできた情報だったからな。しかし、その後、誰もそなたに連絡しなかったのか?」
このときになって、はじめてフィリップはヴァティカン内でこれほどまで孤立している自分に気がついたのだった。エドモンもリッカルドもいないヴァティカン内では、フィリップは耳をふさがれたも同然だったのです。
「カルロス、確かに私にはプライベートな問題に心を悩ませる時間はもうなくなったようだ。」一人そうつぶやいたフィリップは、自室に戻り、待たせていた護衛兵とともに、夜明けを待たずに出発したのでした。
フィリップは、宰相殿に会いに行く前に、ジャンカルロのもとに立ち寄ることにしていました。フィリップの狙い通り、ジャンカルロは、早馬の護衛兵からの連絡で、何かあったと察し、念のため謁見に伺うのを引き伸ばしていると考えていたのです。
「ソフィーの体調が思わしくない、という理由でね。早産だったので。まだ外出など出来ない状態なのですが。いえ、ご心配は無用です、兄上。医者は回復しつつあるといっているし、食欲も戻ってきているから。アナスタシア殿が異常に心配したので、皇帝も無理強いはしてこなかった。もしあのとき無理して出かけていっていたら、そのままザルツブルグ同行を命じられていたかもしれない。」
「で、リッカルドからはまだ何の連絡もないのか?」
「アナスタシア殿にマリアンヌについての照会が入った後に、マレーネ殿のことについて何でもよいから情報が欲しい、という手紙をもらったのが最後でした。そうそう、なんとカサンドラ殿が妊娠したそうです。確かに。マレーネ殿の妊娠はまだだが、すっかりマリアンヌの化粧品の愛好者になっているようだ。それに宰相の長男であるロバート殿は、かなり気力が回復し、この間、はじめて馬に乗れたらしい。」
「リッカルドが宮廷からいなくなったというのに、心配じゃないのか?」
「その件は、確認しました。宰相は皇帝不在の留守役として権威をふるっているし、リッカルドは、あの病弱な奥方様の容態が急変したので、一時的に帰国しているだけです。」
「じゃあ、あの手紙は?」
「もしかして、罠かもしれない。そもそもこの手紙が本物だという証拠はあるのですか?兄上。」
「なんだって!マリア殿の狂言だというのか?」
「マリア殿なのか、ヴェネツィア政府なのか。いずれにせよ、どうしても母上をヴェネツィア領土内に留めておきたかったのでしょう。それにしても兄上、慎重なあなたが、裏も取らず、なぜマリア殿の情報だけを100%信じてしまったのですか?」
「彼女が嘘をつくとは思えない。」
法王からの公式の特使という待遇で、フィリップは宰相と会談の席をもちました。このときのフィリップの気持ちは複雑でした。マリアとあのような関係になってしまった自分が、今さらリッカルドには会う顔がない、という戸惑いと、宰相から信任を得ているリッカルドからのアドバイスがなんとしてでも欲しい、という思いと。宰相について知っていることといえば、ジャンカルロ経由で聞いた、ソフィーの姉妹関連のことだけ。ただ、会談の前に、病弱だという噂だった長男を紹介され、その健康そうな様子に、マリアンヌの介護の腕は、やはりたいしたものだと感心せざるをえませんでした。とはいえ、やはり宰相との会見は予想どおり難航します。何より、リッカルドの不在は予想外でした。フィリップは交渉糸口すら見いだせずにいたのです。
「あのリッカルドが『タフな交渉相手』だと評していた人物だ。これは焦らず腰を据えて交渉するしかないな。」と心の中でため息をつくフィリップ。最初の3日間は何の進展もなく終わろうとしていました。
「枢機卿殿、明日から息子としばらく遠乗りに出かける予定なので。またその後にでも、お会いしましょう。それまでに法王殿と連絡をとられることですな。」
そう宰相に言われて会談を切り上げられ、さてこれからどうしたものかと、フィリップが宰相の自邸の中庭を歩いていると、目の前に会いたいと思っていた顔が現れました。
「マリアンヌ。不本意ながら、君の力を貸してほしい。」
フィリップは、マリアンヌに対して、やや複雑な感情を抱いていました。父フランワの愛人であったとしても、母をないがしろにしてきたフランソワへの敬愛の気持ちはそもそも抱いていなかったのだし、法王宮に聾唖の下女として潜入し暗躍していた彼女と交渉したときは、女だてらにその度胸と才能に驚いていたので、どうしても単なる、憎い相手と見なせなかったのです。それどころか、あのリッカルドと信頼関係を築いているという実績には、軽い嫉妬さえ感じたことがありました。
「宰相殿に主導権を握られっぱなしなのでしょう? フィリップ」
ちょっとからかい気味の態度に軽い反発を覚えつつも、いまのフィリップには彼女の手助けがどうしても必要な状況なので、フィリップはマリアンヌの協力を取り付けようと話を続けます。
「彼の弱点を知りたい」
「それがあるなら、リッカルドだって、私を送り込むような手のこんだ工作なんてしなかったでしょうね。」
「リッカルドと連絡をとりたいんだが」
「それは、難しいでしょうね」
「なぜ? パドヴァの奥方のところじゃないのか?」
「表向きの理由はそうですけれど。でもリッカルドは行方不明です。私も連絡がとれなくて、ちょっと困っているところですの。」
「彼さえいてくれたら。今ほどリッカルドが必要だと思ったことはないな。」
普段はビジネスライクに要件のみしか話さないマリアンヌでしたが、ふと前から疑問に思っていたことをつい聞いてしまいました。
「ねえ、フィリップ、あなた、不思議に思ったことはないの?」
「何を?」
「リッカルドのこと。あなた方と血縁関係もない人なのに、なぜこんなにも、あなた方のために尽くすのかと。そりゃもちろん私も彼を信用はしているけれど、あくまで私と彼との間はビジネスだから。でもあなた方の家族と彼との間に、何の損得勘定もないのに。不思議だわ。」
「彼が信用できる人間である限り、今はそれでいい。この窮地を何とかしなければ。」
もちろんこの時、マリアンヌはフィリップとマリアの間にあったことなど知りませんでしたが、フィリップは少し人柄が変わったような気がしたのでした。
「マリア、あなたが私をここに連れてきた、本当の目的は何なのかしら?」
エドモンを看病していたあの屋敷に戻ってしばらくたった日の午後、エレノアはベッドに背をもたせかけたまま、優しく微笑みながらマリアに問いかけます。エレノアは長旅の疲れで、まだ起き上がられずにいました。
「え、それは、エレノア様の身の安全を」
「それならヴァティカンのほうが近くて、より確実だったはずよ。私には自分に人質としての価値があるとは思えないわ。長旅の危険まで冒してまで、ここに招待したのは、やはりリッカルド殿に強く頼まれたから?」
「それは、あのお手紙に、あなた様がここにいることを望むと」
「ほかにもリッカルド殿からのメッセージがあったのでしょう?あの手紙には。はじめから、私をここに連れ戻す目的で、わざわざあの家まで訪問されたのでしょう?」
何も答えないマリアに、エレノアは優しく続けます。
「彼の指示には絶対なのね。それほどリッカルド殿を愛し、信用しているのね。エドモンの看病を続けながら、あなたとリッカルド殿が長い間心秘かに愛し合っているのはわかっていました。そして何やら秘密の相談事をされていることも。いいえ、責めているわけではありません。ただ、まだ若く、これから未来のあるあなたは、まずご自分の幸せを考えなくては。リッカルド殿に尽くしていても、結婚は難しいのでしょう? あなたのお父様がご存命のうちはよいけれど、これからの生活も考えなくてはなりませんよ。修道院で隠遁生活などはおいやでしょう? このままリッカルド殿に従って、その先にあなたの幸せはあるのかしら?」
「私は、リッカルド殿に、利用されているだけだとおっしゃるのですか?」
目に涙をため、感情的になったマリアを見て、エレノアは悲しくなった。
「ごめんなさい、ね、あなたを非難しているわけではないのよ。私だって、出口のない愛に苦しみもがいた時期があったのだから。でもエドモンは、私の生活を脅かすようなことは絶対望まなかった。愛する者たちが、平和で安泰で暮らせるようにと、そればかりを願っていたわ。でもリッカルド殿は、どうもあなたの愛情に甘えているような気がしてならないの。」
「彼は、考えてくれていますわ。私の将来のことも。大丈夫です。ごめんなさい、失礼します。」
そう答えると、マリアは部屋を出て行ってしまいました。エレノアは、大きくため息をつき、本当は、別のことでマリアの気持ちを確かめたかったのだけど、と思いました。そんなにリッカルド殿を愛しているのならば、なぜ、フィリップの気持ちに応えてしまったのかと。




