事態急変
第22章
その数週間後、ジャンカルロから、ソフィーが無事男の子を出産したとの手紙が、フィリップのもとに届きました。その喜びとともに、手紙には再度、母エレノアの様子を見てほしいというジャンカルロからの懇願が書かれていました。
そしてさらにジャンカルロは、エレノアから直接聞いた。エレノアの母、自分たちの祖母の存在ついて書かれてあったのです。
驚いたフィリップは翌日、孫の出産祝いもかねて、母のもとに出かけたのです。
かつての法王の愛人と噂があったエレノアの母の存在は聞いていて、いろいろ調べたこともあったフィリップでしたが、かつてエレノアを匿ってくれた家の女主人が自分の祖母であった、という事実に何か不可思議なものを感じていました。母があの家に住みたいと言っている、とジャンカルロから聞いたとき、何故気がつかなかったのだろう。こんな近くにいたのに、気遣っていなかったのかとエレノアから責められるかもしれない。そう考えると何も弁解ができないので、暗い気持ちであの家に向かってフィリップでしたが、家の玄関前に着くと、明るい声が聞こえてきこえてきます。どうやら先客がいる様子。それも女性客が。
「まあ、フィリップ! やっと来てくれたのね!」
「遅くなりました母上。お詫びは幾重にも。」
「あなたのおばあさまは、二階で少し休んでいらっしゃるわ。あとで、ね。」
「おばあさまは、私のことは・・・」
「ご存じよ。立派な孫の姿を誇りに思ってくださるでしょう。」
「初めてお会いするわけではないのですが、少し緊張しております。」
「とても優しい方よ。すぐ打ち解けてくださるわ。だって、ここにいるマリア殿とも初めてお会いしたのに、もう楽しくお話してくださったのだもの!」
「あ、マリア殿、これは失礼いたしました。」
夫エドモンのミサを行ったのはフィリップでしたが、実質的に葬儀の手配などを取り仕切ってくれたのはジャンカルロでした。その礼を述べに、ジャンカルロのところに訪問したマリアは、そこでエレノアの消息を聞き、ここまで遠出したというのです。
「お話を伺って、ぜひ、お慰めしたくて、ここまで押しかけてしましました。でもエレノア様は、私を暖かく迎えてくださって。」
「もちろんよ、エドモンを一緒に看護してきたことで、私たちは真の友情を作り上げたのですもの。」
母エレノアへの真摯な心遣い。彼女の明るい微笑み。フィリップは、思わず
「この邂逅は神からの許しのしるしだろうか。彼女に、せめてこの気持ちだけでも打ち明けていいのではないだろうか?」
と思いながら、エレノアに尋ねました。
「ところで、母上のところにも知らせが来ましたか? ソフィー殿が無事、男の子を出産したそうです。」
「まあ! 本当なの。よかったわ。まるで、その子はエドモンの生まれ変わりのようね。つらい時期が終わって、これからよいことばかり続くのではないかしら?」
そこへ、二階からエレノアの母、フィリップの祖母が「楽しそうな声が聞こえてきたわ。私も混ぜてちょうだい。」と言いながら降りてきました。
フィリップは以前、この女性と二度ほど会ったことはあったのですが、改めて自分の祖母として対面したのです。祖母として対面した女性は、以前のときと違い、予想以上に若々しく、明るく気さくで、そして暖かく、とても自分の存在を隠して生きてきた女性とは思えない雰囲気に驚き、なかなか言葉が出ません。エレノアとエレノアの母、そしてマリアの三人を中心に会話が弾み、フィリップはほとんど聞き役にまわっていたのですが、彼にとっては、何かとても心がほぐれてゆく、心地よい時間だったのです。
久しぶりの楽しい会話の夕食に疲れたのか、エレノアとエレノアの母は早くに寝室へと引き取りました。サロンに残った二人。なんと話しかけるべきか躊躇していたフィリップに、マリアが話しかけました。
「エレノア様から伺いました。ここに隠れていたときのこと。お辛い経験を、いろいろされてきた方なのに、あんなに純真で、お優しいなんて。人生を、運命を全くうらんでいらっしゃらないの。私は、自分の運命を悲しんでばかりいて、愚かでした。」
「ここで、母を助けるために、エドモンとカルロス殿と、追っ手を逃れてかくまってもらったこともありました。あのころです。本当の父が誰だったかを知ったのは。そしてエドモンの母への強い愛を確信したのは。」
「あなたご自身は、愛のために身を引いたのですね。」
「はじめは、憎い恋敵でもあったカルロス殿を信用するなんて、全く考えられませんでしたが。不思議なものですね。運命とは。」
つい名前を出してしまったフィリップに、「ああ、やはりそうだったのか」と思ったマリアは気がつかないふりをして話しを続けます。
「後悔はなかったのですか?」
「無我夢中でした。あの頃は。それにマリアエレナは、今、幸せだとわかっていますから…。あっ!」
マリアの優しい問いかけについ気が緩んで相手の名前を出してしまったことに気づいたフィリップの様子に、マリアは静かに微笑んでから 目を伏せ、つぶやくように言いました。
「あなたは? 幸せではないのですか?」
「どうでしょう。そんなこと、考える閑もなかったのかもしれません。父エドモンとカルロス殿、そしてリッカルド殿と、一族のため、嵐の中を一緒に奔走していたような気がします。父エドモンは失いましたが、ジャンカルロが新しく、その一員になりました。」
「その行動を支えているものは何なのでしょう? みなさん、守るべき愛するものをお持ちです。あなたは神への愛を支えとしていらっしゃるのですか?」
「神への愛。そうですね、愛すべきもの。私の幸せ。許されるなら、枢機卿ではなく、一人の弱い人間として言わせてください。愛する人がいます。けれど愛してはいけない。」
「でもマリアエレナ様は」
「いいえ、彼女ではありません。ジャンカルロとも関係はない。血のつながりはありません。」
「では、どうして愛してはいけないのですか? 僧籍に身を置かれているからですか?」
「それもありますが、何より、私の親友と相思相愛のはずなのです。」
「愛する方は、ご自分の親友の奥方様なのですね」
「いいえ。でも二人はいまお互い深く愛し合っているはずです。私だけが、一方的な思いをよせているだけなのです。」
「だから、その方を諦めてしまうのですか?」
「あなたを、諦めないでいいのですか?」
翌朝、エレノアが起きてサロンに出てくると、すでにフィリップの姿はありませんでした。
「フィリップはまだ休んでいるのかしら?」
「いいえ、エレノア様、法王庁から火急の用事という指令が飛んできて、明け方にお戻りになられたようです。」
そう答えたマリアは嘘をついていたわけではありません。実際、明け方に早馬の伝令が飛んできたのです。その様子を知っているのは、自分がフィリップの隣に寝ていたからだったのです。
法王宮に戻るやいなや、フィリップは法王に呼び出されたのでした。
「猊下、皇帝から、可及的速やかにカルロス殿を戻して欲しいという書簡が届いたと伺っておりますが」
「まあ表向きは依頼だが、実際は脅迫といえる書簡だな。年内まで、ということで話をつけたい。メディチからの借金を返すまでは、自由が利かない身なのだ。それが済んでしまえば、自前の教会軍を再編成に着手できるのだが。フィリップ、そなたが行って何とか交渉してもらえないだろうか。そなたの弟は皇帝陛下の姪の娘と結婚しているのだし、何とかできないだろうか。」
いつものようにフィリップに調停を求める法王に、フィリップは考えました。皇帝の真意は、そろそろナポリ遠征を実現段階に入ったということだろう。リッカルドからは何の知らせもまだないが、対応を検討しに、こちらから赴く必要はあるかもしれない。
「了解しました。ただし、この動きがナポリ側に知られないようにせねばなりません。ちょうど私の弟と皇帝の姪の娘の間の男子が誕生しました。ジャンカルロのところに寄って、彼らとともにそのお祝いを申し上げに、という名目で、アナスタシア殿を表敬訪問いたしましょう。そこで交渉してまいります。ただし、時間がかかるかもしれません。焦らずに、お待ちください。性急な行動はお取りになられませんように。」
フィリップはジャンカルロの城に寄る前に、その晩エレノアのところやってきて事情を説明しました。あれから数日とたたないうちにマリアと顔を合わせる気まずさと同時に、また彼女に会える喜びで気持ちがない交ぜになりながら。
フィリップは密かな期待を抱いていたのです。あの打ち明け話のあとすぐに自分の気持ちを受け入れてくれたマリアに、フィリップは自分の立場も顧みず、このまま彼女との関係を続けられるのではないかと。多くのヴァティカンの聖職者たちが愛人をかこうことに、軽蔑のまなざしを向けていたはずのフィリップでしたが、自分の愛は快楽のためのではない、崇高な愛だから違うと考えていました。
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「母上、そういうわけで、カルロス殿も私も不在の間、念のためヴァティカンに身をお寄せになりませんか? そして、マリア殿、あなたさえよければ、パドヴァまでお送りしようと存じます。」
「フィリップ殿、パドヴァの私に家へ、エレノア様に滞在していただくのはいかがでしょうか? エレノア様、あの屋敷に戻りいただくと、つらいことも思い出させてしまうかもしれませんが、誰もいないヴァティカンにいらっしゃるより、私と過ごしていただければうれしいですわ。」
「ご好意に感謝しますわ。マリア殿。心配をかけてしまってごめんなさいね、フィリップ。でも、高齢の母を一人ここに置いておくわけにはいきません。」
マリアは、不安そうな面持ちのまま、頭を下げ、黙ってしまったのですが、その様子が気になったフィリップは、母が寝室戻ったあと、自分こそが彼女を守らなければという思いでマリアに問いただしました。
「何か心配ごとでもあったのですか?」
「フィリップ、お願いです。エレノア殿が法王側の人質になってしまいますわ。無理にでも、パドヴァに、ヴェネツイアの領土内にかくまってください。」
「何か、ご存知なのですね。」
「リッカルドから、今朝、手紙が届きました。2週間も前に書かれたものですが、私がジャンカルロ殿のもとを訪問したり、ここに滞在していたために、今朝やっと届いたのです。どうやら、皇帝陛下は、本気のようです。すぐに安全なヴェネツィアに戻るようにとの手紙でした。」
リッカルドという名前が、マリアの口から出て動揺するフィリップでしたが、それ以上に取り乱した様子のマリアに何があったのか問いただすしかありません。
「他に何か?皇帝の宮廷内ではどうなっているのか、何も書かれていなかったのですか?」
「どうやら、外交政策をめぐって、宰相と皇帝陛下の間に諍いが起こりかけているようなのです。宰相の絶大な信任を得たがために、かえってリッカルドは、微妙な立場になってしまったようです。ああ、リッカルド。」
マリアは、やはりリッカルドを心から愛している。思わず顔を背けてしまったフィリップ。たった一晩で、10数年の愛情が勝てるはずがない、そう想いつつも、フィリップは動揺する心を抑えらませんでした。
その様子に気づいたマリアは、小さな紙切れをフィリップに差し出します。
「リッカルド殿には、この手紙を書くだけの時間しかなかったようです。ですから、ジャンカルロ殿にも、あなた様にも何も連絡ができなかったのだと思います。」
「時間がなかった? リッカルドは今どこにいるんだ?」
「わかりません。もし捕まって、牢などに閉じこめられ、拷問など受けているのだとしたら、私は、もう。」
そういって、泣き崩れるマリアに、フィリップはこう慰めるしかありませんでした。
「大丈夫、あのリッカルドが、そんな失敗はしません。うまく立ち回っているはずです。それに一国の大使に、そんな扱いはしないでしょう。」
「そうでしょうか? ただ、すでに宮廷内にはいないようです。どうぞ、お読みになってください。」
-マリア殿
ここ数日で事態が急変した。もはや皇帝陛下は宰相殿のお言葉に耳を傾けない。あなたの屋敷から出ないように。ジャンカルロ殿にも、そうお伝えを。数日中に行軍が開始されるやもしれぬ。私は宰相殿を通じ、カルロス殿に連絡をつけるため、今夜出立する。フィリップ殿にもお会いできればよいが。エレノア殿が、あなたと一緒にいらっしゃることを望む。あなたのR




