マリアの懺悔
第21章
フィリップは、ぎりぎり間に合ったのでした。エレノアとマリアの手厚い看護にもかかわらず、エドモンの余命は尽きようとしていましたが、長男であるフィリップに会うことは出来たのです。まるでフィリップの到着まで待っていたかのように「エレノアと、兄弟たちを頼む」と遺言して、エドモンは息をひきとりました。そして終油の秘蹟を与えたのも、葬儀のミサを執り行ったのもフィリップということになったのです。フランソワと比べたら、とても幸せな最後だったといえるかもしれません。一国の領主ではなかったため、エドモンの葬儀は、身内だけのささやかなものでしたが、本当に愛する者たちだけに囲まれ、きっと心安らかに逝くことができたのだと、みな口々に言い合ったのでした。というのも、アナスタシアから皇帝への懇願が聞き入れられ、皇帝のはからいで、マリアエレナもアランも、葬儀に参列することができたからです。
葬儀を行うことになったので、フィリップのパドヴァ滞在は、予想より長いものとなり、それはフィリップに、マリアという女性の素晴らしさを理解する時間を与えることとなりました。そもそも初対面のときから、フィリップはマリアに惹かれてしまったのです。マリアの純真さ、優雅な物腰、謙虚な態度、温かな思いやり、そして母エレノアへの心からの慈しみ。フィリップの目には、マリアは理想の女性、完璧な女性に映りました。みなが帰国しても、フィリップはまだ用事が片付いていないので、と滞在を延ばしましたが、それは久しぶりに母とゆっくり話し合うためだと、誰も変に思わなかったのです。ついにフィリップも明日はヴァティカンに戻るという朝、二人きりになったとき、マリアは改めてフィリップに礼を述べました。
「フィリップ殿。あなたの手でミサを行っていただいて、本当にありがとうございました。エドモン殿も、安心して逝かれたと存じます。本当に、このご恩は一生忘れることはございません。」
「マリア殿、あなたこそ、妻というお立場であられながら、私の母エレノアに敬意を表し、丁重に扱ってくださったこと、心より感謝しております。」
「エレノア殿は、本当にエドモン殿を心から愛してらっしゃいます。一緒に看護していただいて、エドモン殿も、さぞ幸せであっただろうと存じます。でも。」
「でも? 何か、看護中、おつらいことでもございましたか?」
「いえ、ごめんなさい。少し、うらやましかったのです。エレノア様が。愛する方のお傍で、その愛情を表現することができて。」
「母も、いろいろあったのです。」
「ええ、私も少しだけ伺っております。さぞお辛かったでしょうに。でも、愛してはいけない方を愛してしまうことは、罪なのでしょうか?」そのまま視線を遠くに泳がせたマリアの姿は、息を呑むほど美しさでした。
「枢機卿様にこんなこと、申し上げてしまうこと自体、大変失礼でございました。お許しください。」
「私も、若い頃、そのような経験がございます。まだこの道に入る前のことですが。ですから、今のような疑問を抱く気持ちもわかります。」
それには応えず、しばらく黙っていたマリアは、意を決したように、フィリップに向き、こう訴えます。
「どうか、私の懺悔を聞いていただけないでしょうか? 私、いまだにその方を諦めることができないのです。」
フィリップはこのとき、胸に鋭い痛みを覚えました。初めてマリアに出会った瞬間から、自分でも気がつかないうちにマリアへの思慕が生まれていたのはわかっていたのですが、このとき明確に、マリアへの愛と、まだ見ぬ相手に嫉妬の念を禁じえませんでした。
「私で、よろしいのですか?」
「はい、あなた様が、あの苦しみをご存知だと伺い、決心いたしました。今はその気持ちを乗り越えて平安を得ていらっしゃる、フィリップ殿に。」
恋愛の苦しみから、僧籍に入ったはずのフィリップにとって、それは新たな心の葛藤が始まりとなったのです。
マリアがフィリップに懺悔を告白している頃、エレノアはジャンカルロとともに国に戻ってきたのでした。道中、一言も口を聞かなかったエレノアの気持ちを察して、ジャンカルロもソフィーもそっとしておいたのですが、夕食の席で突然、ローマに行きたいと言い出したのです。
「ローマといってもヴァティカンではありません。郊外の町にある母のところ。もう長い間会っていないわ。もう老齢だから、私がそばでお世話をしてあげたいの。」
「母?」
突然の話に驚いたジャンカルロもソフィー。
「ええ、実はずっと、母とは連絡をとってきたの。フランソワともめていた頃に、フィリップが匿ってくれる場所として連れて行ってもらった家があったのだけれど、すぐに思いだしたわ。私が幼い頃、母と暮らした家だと。母も健在だった。フィリップやエドモンたちは何も知らなかったようだったから、私のその場では気がつかないそぶりをしていた。でも母は私が来ることがわかっていたみたい。」
「それは・・」
「私が12か13くらいのとき、とある貴族の養女になったときから生家とは連絡は一切とれず、過去のことは忘れるようにと厳命されたのよ。養女となった家は、私を保護してくれたというより、監視下に置いた状態だったわ。暖かな家庭ではなかった。私も心の中で過去のことを封印しなければならなかった。だからフランソワは見初められ、結婚することになったときは、これで幸せになれると嬉しかった。
でもやがてフランソワと亀裂が生まれ、関係がj破綻してしまい、自分の運命を悲観してしまっていたとき、母の家に滞在することができたの。あのときは神様が与えてくれた奇跡だと思ったわ。」
「そんなことが・・」
「ずっと黙っていてごめんなさいね。母はまだ健在ではあるものの、経済的にはどうしていたのか、詳しいことはわからなかったわ。父はもともと年に数回しか訪問してこなかった存在だったし。」
「祖父も健在なのですか?」
「ええ、たまに手紙が来るみたい。父はまだヴァティカンにいるみたい。どうやら法王様ではなかった
みたいね。でもある程度の地位にはおられる方のようだわ。もうね、父と母の間に何があったのかはもういいの。ただ母が心配なだけ。もう母も高齢だから、私がお世話してあげたいの。」
「しかし、母上、誰があなたの身の安全を守るのですか?」
「大丈夫ですよ、ジャンカルロ。もし身の危険を感じたら、フィリップのもとにいくわ。それに、もう私の命を狙うものなんていないでしょう? 最後の母の我儘を聞いてくれないの?」
今までのエレノアになかった、子どものような物言いに、ジャンカルロは驚きつつも、政情が安泰な間であれば、ということで、翌月にはエレノアの最後の願いをかなえてあげることに決めました。
エレノアは、やっと平穏な時間を過ごすことができたせいか、緊張の糸が、ぷつんと、切れてしまったのでしょう。エレノアが、母の家で寝込んでしまった、との報に、ジャンカルロは困惑し、すぐにフィリップに連絡し、様子を見てくれと頼みます。
「ヴァティカンから雇われている管理人の老夫婦が世話してくれているので、しばらくは大丈夫じゃないのかな」
とのフィリップの返答に、ジャンカルロは不審な気持ちを抱きました。いつものフィリップなら、すぐエレノアのところに飛んでいきそうなものなのに、この何とも気の無い、他人事な態度は何だろう。とはいえ、ジャンカルロも、明日にでも出産しそうな臨月の妻ソフィーを一人にしておくことは出来ません。一体、フィリップはどうしてしまったのだろう? ヴァティカン内でまた、何か大きな陰謀に巻き込まれたのだろうか? 獏とした不安を感じたジャンカルロは、念のため、別の人間にも手紙を送ったのでした。
実はフィリップは、法王庁に戻ってからずっとヴァティカンの自室で一人苦しんでいたのです。恋という、どうしようもない思いに。パドヴァからヴァティカンに戻る前日、マリアの願いで彼女の懺悔を聞いたフィリップは、聴きたくなかったマリアの長年の思い人が誰であるか、知ってしまいました。まだ14歳のときからの、相手への厚い思いをとうとうと述べはじめたマリアは、本当に狂おしいほど愛おしい表情をしていました。しかし話が進むうち、名前は出なくても、フィリップには相手の名前が思い当たってしまったのです。
リッカルド。
確かに、リッカルドの妻であるマリアの姉上は、もともと病弱で、ほとんど外出もできず、子どもも産んでいない。マリアが今、夫をなくしてしまった以上、病弱な姉の代わりに、リッカルドと再婚という話もありえないことではない。マリア自身も「姉の代わりになりたいと、思わず思ってしまう自分が恐ろしい」と告白していたではないか!
しかし、いまやマリアへの思慕の思いでいっぱいの自分には、そこまで彼女に思われているリッカルドに、どうしても嫉妬の念を抑えることができない。なんということ、そもそも自分は聖職の身ではないか! もちろん、表向きだけで、愛人を囲っている法王や枢機卿は大勢見てきた。しかし自分は、そういう人間ではないと自負してきた。もう一生女性を愛さないと思ってきた。それだけマリアエレナへの想いが強かったからだ。それが今になって! 心からマリアを愛していれば、彼女の長年の望みが叶うことに喜びを感じるはずではないか。しかもリッカルドは親友とも呼べる、心から信頼してきた相手ではないか。でも自分には出来ない!この気持ちを抑えられない!
「私との約束をすっぽかそうなんて、フィリップ、君らしくないんじゃないか?」
いきなり自室に現れたカルロスにそう問い詰められて、フィリップは我に帰ります。
「すまない、カルロス、ちょっと考え事があって。いや、だから君との約束を反故にするつもりなどなかったんだ。そう、夕食の約束だったね。失礼した。」
「おいおい、フィリップ、大丈夫か? 今夜君との約束なんてしてないぞ。明日の出発を前に、顔を見に来ただけだ。君の様子が変だと、しきりにジャンカルロが書いてよこすものだから、ちょっとからかってみただけだが、確かにパドヴァから戻ってきて以来、ずっと心ここにあらずだな。」
「明日の出発?」
「そう、私はエドモン回復までに当座しのぎの代役のはずだったんだがね。法王が私にエドモン殿の続きをさせたいらしい。また法王領地内のごたごた整理さ。メディチへの返済期限が今年中だそうでね。まあナポリ方面には向かわないから、皇帝としては面白くないだろうが、おい、聞いているのか? 一体どうしたんだ? フィリップ」
「カルロス、聞いて構わないだろうか。君は、マリアエレナ以外の女性に心惹かれたことはないのか?」
「フィリップ? 唐突にどうしたんだ?」
「お願いだ、ここだけの話だ、正直に答えてくれ!」
「からかっていい問題じゃなさそうだな。じゃあ正直に答える。マリアエレナと出会う前には、もちろん何もなかったとは言わない。でもあのとき、教会で彼女と出遭ってからは、彼女以外に、本気で守りたいという愛を感じたことはないな。」
「私も、ずっとそう思っていた。彼女以外にいないと。でも許されないことだから、私はこの道に進んだんだ。それが、今になって。」
「そういうことか。フィリップ。それで、ここのところ、うわのそらなんだな。で、相手誰なんだ? まさか結婚を望んでいるわけではないだろう? 相手は君が聖職者とは知らないわけではないだろうに。」
「もちろん、知っている。すまない。私の一方的な思い込みに過ぎない。相手はほかの男性をずっと愛し続けている。そしてずっと悩み続けてきた。」
「愛してはいけない相手を愛してしまったということか。なぜかよく聴く話だな。そもそもエレノア殿がそうだったな。それに、この間マリアエレナが教えてくれた、ソフィー殿の妹御二人も、さらにマリア殿も同じ経験をしているらしい。」
「え、何だってマリアエレナはそんなことを」
「女性同士の打ち明け話だろう。リッカルド流にいえば、我々には持ち得ない情報網だな。そう、マリアエレナの情報によれば、マリア殿の相手は、リッカルドのようだ。」
「そうなのか? 前からマリアエレナは何か知っていたのか?」
「マリア殿のことか? ああ、エドモンの見舞のときに打ち明けられたといっていた。もちろん名前は出さなかったが、言動から相手を予測できたと。」
「単なる憶測なんだろう?」
「その後、エドモンの葬儀のことで、ジャンカルロと相談したとき、その話になって、ジャンカルロもなんとなく、そうだと気がついていたらしい。」
フィリップは、マリア殿のもとにいたリッカルドが、フィリップのもとへ送ってきた、ジャンカルロを説得するように依頼した手紙を思い出しました。確かにマリア殿の気持ちを裏書するための内容が書かれてはいた。エレノア殿に、エドモンのもとに来てもらいたいと。しかし、そこにはリッカルドのマリアへの気持ちなど、何も書かれてはいなかったが...。
「マリア殿のところにずっといたのか?あのとき、リッカルドは。」
「ああ、エドモンの屋敷とパドヴァへの水路沿いにあるリッカルドの別荘は、すぐ近くだといっていたじゃないか。」
「ああ、そうだった。そうか、一緒だったのか。じゃ、そのときに問題を解決したのだろうか?」
そのまま独り言をいい、考え込んでしまったフィリップ。
「おい、本当に大丈夫か? フィリップ。で、その後リッカルドから連絡は?」
「リッカルドから?」ぎくりとするフィリップ。「リッカルドから、なぜ?」
「皇帝の宰相への工作だよ。ジャンカルロから聞いているだろう? マリアンヌを潜入させて、彼の信任を得ないと、リッカルドが諜報活動を進められない。」
「ああ、それなら先週、ジャンカルロから、手紙がきた。宰相からの照会がアナスタシア殿にあったと。」
「そうか、とりあえずは計画は順調のようだな。我々はリッカルドからの連絡が入るまでは静観というところかな。」
「ああ、法王は借金返済が先だろう。ナポリ派も具体的な行動は出そうもないし。」
「フィリップ、私が遠征から戻ってくるまでの間に、その相手への気持ちを整理しておいてくれないか。結婚できなくても、恋人として会えればいいじゃないか。ここしばらくの間は、嵐の前の静けさだろう。プライベートな問題に心を悩ませるのは今のうちだ。




