姉と弟
第91章
マルセイユに戻ってすぐマリー=ルイーズの母に、腕の怪我について申し開きをしたシャルルでしたが、傷跡を確認したマリー=ルイーズの母は激怒し、二度と娘は商用には同伴させません!と宣言したため、シャルルが作成した見合い予定のリストはジュリオを最後に一時中断することになってしまいました。
マリー=ルイーズ本人も実家に戻って気が緩んだのか、原因不明の発熱が続き、しばらく静養することにしたのです。本好きなマリー=ルイーズにしては珍しく、文字を見るのも苦痛だと、ずっと寝室に閉じこもって伏せっていました。
そこへ、弟のセルジュがやってきたのです。
「姉上、おかげんはいかがですか? たまには外の空気を吸わないと、本当に重い病気になってしまいますよ。」
マリー=ルイーズは15歳になるまで別々に育った、ちょっとやんちゃなこの弟のことが、実はわりと好きでした。全く正反対な性格と気質が、かえって素直に心を開くことができ、弟と話していると、いつもとても楽しい気分になれたのです。父母は好奇心が旺盛ですぐに夢中になる反面、飽きっぽいところがあるセルジュが跡取りとしてふさわしいかと心配で、「姉と弟で性格が入れ替わって生まれてきて欲しかった」などと言っていましたが、実は弟は相手の感情を機敏に察してくれる優しいところがあり、今も落ち込んでいる自分も励まそうと部屋まで様子を見に来てくれたのだとマリー=ルイーズは分かっていました。
「セルジュ、心配かけてごめんなさい。今回の商用旅行は怪我と入院で、さすがにちょっと疲れてしまったみたい。」
「でもそのおかげで、パドヴァでトゥールーズの伯父上殿と再会できたのでしょう? 久しぶりで懐かしかったのではないですか?」
「ええ、偶然の僥倖にマリア様に感謝したわ。病院は想像以上に快適でしたし。ヴェネツィアでは新しい商材になりそうなものも発掘することもできたから、不幸中の幸いだったわ。今回は本当にいろいろなことがあったので…でももう大丈夫よ。」
「それで? 姉上、お疲れになった原因は他にも何かあったでしょう? 私にまで内緒にしなくていいではないですか? 」
「え?」
「何なら、男性としての参考意見など聞きたくはないですか? 商売の知識は今のところ姉上にはとてもかなわないけれど、男女のことは、私の得意分野ですからね。」
「もう、セルジュ、何か聞いているの?」
「いや、父上と母上がこそこそ話しているのをなんとなく盗み聞きしてしまったのですよ。たまたまね。あのシャルル殿の差配だと、私の大切な姉上に合うお相手候補をちゃんと選んでいるかどうか、心配で心配で。」
「えっと、それは…その…」
「ふふふ、商売のことなら何でも適切にてきぱきと回答できる姉上なのに、なんか妙に歯切れが悪いですよ。もしや、候補者の中から誰を選んでよいかわからないとか? それとも気になる方がいらしたけど、その方の気持ちがはっきりしないとか?」
「・・・・・」
姉の性格からいって、はっきり否定するか、頬を染めるか、どちらかの反応をするかと思っていたセルジュでしたが、意外にも悲しそうな表情で黙り込んでしまった姉の姿に驚き、これは真剣に相談に乗らなくては、と優しい声色で尋ねました。
「姉上、私は姉上にずっとここにいて欲しいくらい敬愛しておりますけれど、でも姉上が幸せになれるのなら、それを最優先して欲しいと考えています。頼りない弟かもしれませんが、少しでも姉上のお力になれるなら、喜んで相談に乗りますよ。」
「ありがとう、セルジュ。本当に私、こういうことには不器用で…。」
「お相手からはっきりとお断りされたわけではないのでしょう? ならこちらからお手紙をお出ししたらどうです?」
「実はマルセイユに戻る前にお出ししたの。ナポリでもう一度お会いするお話だったところ、例の事故のためにパドヴァで治療することになってしまったから、経緯をご説明してお詫びしなきゃと思って。」
「なるほど、で、その返答がなかなか来ないと。」
「いえ、すぐお返事はいただいたわ。」
「それは・・・そうだったのですね。色よいお返事ではなかったのか…。」
「いえ、その・・・またすぐお会いしたいと・・・」
「ええ!? それなら何故、そのような浮かない顔を?」
その質問には答えず、マリー=ルイーズはすっと立ち上がって、部屋の隅にあるチェストから大判の薄めの本を取り出しました。
ぽかんとした顔で「それは?」と聞いたセルジュに、マリー=ルイーズはヴェネツィアの薬草院での出来事を簡潔に話したのでした。
「姉上、そのご婦人は既婚者ですでにお子様までいらっしゃるのでしょう? そのナポリでお会いになったジュリオ殿と浅からぬ仲だったとしてもそれは過去のこと。魅力的な殿方なら、なおさら過去に交流のある女性の二人や三人存在して当然ですよ。姉上が気に入られたということなら、ジュリオ殿は人柄も素晴らしい方なのでしょう? その方が、すぐにでもまた姉上にお会いしたいと書き送ってきたのですよ! 何を躊躇なさっているのです?」
「でも…本当に女性の私から見ても、カテリーナ様はとてもとても魅力的な方だったのよ。美しくて陽気で華やかで上品で、それでいてとても優しく、初対面の私たちに親しげに気遣ってくださって…。あんな貴婦人と比べたら、私など見劣りしてしまうし、きっとジュリオ殿も忘れられない存在でいらっしゃるに違いないわ。」
「姉上がそこまで褒め称えるとは、私もぜひお会いしてみたいな、そのカテリーナ様とやらに。今度のヴェネツィアでの商談には、私がシャルル殿に同行しようかな。昨日、父上とシャルル殿がその薬草院のクリームも取り扱う予定だとか相談していましたしねぇ…。」
「え?次の商談にはあなたが行くの? セルジュ。だったら、お願い、どうしても確かめたいことがあるの!。」
いつも冷静で控えめな姉が、珍しく感情をあらわにして恋の悩みを打ち明けてきたのをからかいたくなって言った軽口に、マリー=ルイーズが喰い気味に頼み事をしてきたことにセルジュは唖然としてしまいました。
「あ、あの…絶対そんなことはないと思うのだけれど、その、カテリーナ様のお子様が、その、ええと、疑っているわけではないけれど、その子の父親が、その・・・」
「ふふふ、姉上、どうしたんですか?そんなに顔を真っ赤にして。いつもの姉上ではないなぁ。まだ熱があるのかな?」
「ご、ごめんなさい! 今のことは忘れて、セルジュ。私としたことが…」
「姉上、本当にそのジュリオ殿のことが気になっているんですね。こんなに可愛い姉上、初めて見たなぁ。ハグしてもいいですか? もちろん敬愛する姉上に対するハグですよ。姉上は充分魅力的でとても可愛い女性ですよ。自信を持ってください。私が忠実なナイトになって、その悩みを解決するお手伝いをしましょう!」
弟セルジュに優しくハグされながら、マリー=ルイーズは自分の心に宿っていた感情をはっきりと自覚したのでした。




